第6話 「雨」
あの凄惨な戦いから二週間が経過しようとしていた。
正義の味方も悪の組織もその姿を現すことはなく、街には不気味なほどの静寂が広がっていた。
秘密基地の医療区画。
そこには数多の生命維持装置に囲まれ、静かに横たわる男の姿があった。
あの日放たれた正義の光をその身一つで引き受けた彼は、アジーンが施した腹部の追加装甲が幸いし、奇跡的に致命傷を免れていた。
その驚異的な生命力と組織の最先端医療によって、肉体そのものは回復の兆しを見せている。
だが、彼は未だ深い眠りから覚める気配がない。
「脳への強い震盪による昏睡の可能性もあります。あれだけのエネルギーを受けた以上、何があってもおかしくはありません。我々医療班も手は尽くしておりますが……目を覚ますかは、彼の気力次第です」
無機質な機械音だけが響く病室内。
その傍らで、ずっと彼の手を握り続けている女性がいた。
美しい瞳は泣き腫らして赤く縁取られ、かつての凛とした女幹部の面影はない。
食事も喉を通らず、ただひたすらに「自分が彼をあんな戦いに巻き込んだ」という罪悪感に苛まれていた。
「なにか食べないと、君も倒れてしまうよ」
アジーンが、お盆に乗せた軽食を持って部屋に入ってきた。
彼女はドヴァーの憔悴しきった姿を見かねて、努めて明るく振る舞っていた。
「自分を責めないで。彼は、君を守るという確固たる強い意志で立ち向かって、そして守り抜いてみせた。凄い奴だよ、本当に」
「アジーン……」
ドヴァーの肩に手を置き、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「ボクは信じてる。戦闘員クンは、こんなところで終わるほどヤワじゃないってね。君だってそうだろ?」
ドヴァーが眠り続ける彼に視線を戻しながら、静かに頷いた。
アジーン自身、自分の開発した装備が引き起こした結果としての彼の負傷に、深い責任を感じていたのだ。
彼女はドヴァーを励ましながらも、日夜独りでラボに籠もり、彼の復活を信じてスーツの完全修復とさらなる安全性向上に心血を注いでいた。
「ボクが彼を見ていてあげる。ドヴァー、少し外の空気を吸っておいで」
「でも……私……」
「君の心が死んでしまったら、彼が目覚めた時に悲しむよ」
アジーンの強い勧めに押され、ドヴァーは力なく頷くとゆっくりと病室を後にした。
傘を手に取り、外へと歩いていく。
外は、ドヴァーの心を表すような冷たい雨が降り続けていた。
一方、静かな山間に位置する古びた道場では、激しい気合と共に竹刀が空を切る音が響いていた。
「はあああっ!! 面ッ! 胴ッ!!」
剣道着に身を包み、大汗を流して打ち込みを続けるのは、レッドだった。
あの戦いで愛用の剣を折られ、自身の未熟を痛感した彼は、愛剣が修復される間に一から己を鍛え直していた。
宿敵の姿を脳裏に浮かべ、一撃一撃を鋭く研ぎ澄ましていく。
そこへ、様子を伺いにブルーが現れた。
「……やはり、剣を折られたことを気にしているのか?」
「いや……逆だぜ」
レッドは汗を拭い、晴れやかな顔で笑った。
「あいつは俺の全力の剣を正面から叩き折るほどに、己を磨き上げてきた。ならば俺も、あいつが次に戻ってきた時に恥じない自分でいなきゃならない。それが礼儀ってもんだ」
ブルーは驚いたように目を見開いた。
自分はあの戦闘で洗脳された一般人を重症に追い込んだ「正義の是非」に悩んでいたが、レッドは違った。
彼は戦闘員を、一人の対等な戦士として完全に認めていたのだ。
「……次、か。お前は、あの男が戻ってくると信じているんだな」
あの時バスターを撃った判断は正しかったのか、ブルーはずっと考えていた。
レッドが打ち負けたという焦りもあった。
しかしあの凄惨な光景は、正義を執行する者としての若い心を揺らすには十分すぎるものだった。
あそこまでやる必要は、本当にあったのだろうか……と。
珍しく弱音を吐くブルーに、レッドは「お前らしくないぞ」と笑って答えた。
「まあ、お前があいつを危険視した理由は俺だってわかる。実際あいつがどんどん強くなっているのは、戦った俺が一番よくわかってるさ。でも――」
レッドは竹刀を握る手に視線を落としながら続けた。
「俺はあいつを、ただの悪党だとは思っちゃいない。あいつの振るう力には、洗脳でも暴力でもない、誰かを守ろうとする純粋な意志があった」
「まさか、あの男は自分の意志で悪の戦闘員をやってるっていうのか?」
多分な、とレッドは頷いた。
「あれは身体改造で作られた偽物の筋肉なんかじゃない。あんな肉体を練り上げた男が、そう簡単にくたばるはずがない」
レッドの言葉には熱く燃える闘志と確信、そして対等に渡り合える者への期待があった。
「あいつは必ず立ち上がる。ライバルとして認めた男を、俺が信じなくてどうするよ」
レッドの前向きな言葉に、ブルーの心に宿っていた迷いも晴れていく。
あの時の判断は正義として最善だったのか。
その問いの答えは、次回の戦いで出すしかない。
レッドの曇りなき瞳に、ブルーは自嘲気味に笑った。
「……フッ、お前には敵わないな。お前のそういう単純な前向きさには、いつも助けられるよ」
そう言うと、ブルーはジャケットを脱ぎ、竹刀を手に取った。
冷静さを取り戻した青き戦士の心にも、再び高潔な火が灯る。
「僕も付き合おう。次に彼らが現れた時、鈍った動きを見せるわけにはいかないからね」
「おう! 正義の味方が湿気てちゃ、世の中守れねえからな!」
正義の味方の心には、一点の曇りもなかった。
激しい雨に包まれる街を、ドヴァーは彷徨っていた。
アジーンに促されるままに街へと出たが、足取りは重かった。
どんよりとした空気と降りしきる雨が、彼女の不安を増幅させる。
(もし、もしこのまま彼が目覚めなかったら……私は、彼に何も伝えられないまま……)
最悪の想像ばかりが脳裏をよぎる。
絶望が足元から這い上がり、彼女はその場に泣き崩れた。
傘が落ち、全身がみるみる内に濡れていく。
雨水と涙が混ざり合い、視界が滲む。
「――大丈夫ですか、お姉さん?」
頭上に、ふわりと柔らかな影が落ちた。
見上げると、そこには明るい色の傘を差し出した少女がいた。
「わあ、ずぶ濡れじゃないですか! それに顔色が真っ青ですよ!」
帽子とメガネで変装してはいたが、それは紛れもなくイエローその人だった。
彼女は現在、ジャスティースとしての活動と並行していたアイドル業を一時休止していた。
仲間への差し入れを買いに来る途中、偶然今にも消えてしまいそうなドヴァーを見つけ、見過ごせずに声をかけたのだった。
もちろん、イエローは目の前の人物が敵対している女幹部ドヴァーであることなど知る由もない。
「あ……ごめっ、なさい……私……っ」
「事情はわからないけど……お姉さんのこと、とても放っておけなくて。ほら、すぐそこに知ってるカフェがありますから、雨宿りだけでもしませんか?」
お互いの正体に気付かぬまま、イエローは焦燥しきったドヴァーを支えてカフェへと連れて行った。
ドヴァーの方にも、彼女がイエローであることを気にする余裕はなかった。
ただ、差し出された温かな手に導かれ、カフェへと入って行った。
「こんにちはー! マスターごめんなさい、タオルありますか!? それと、いつものを二つ!」
店内に入ると、状況を察したマスターが、すぐに奥からタオルと湯気の立つ二つのカップを持ってきた。
「ほら、お姉さん。温かいものを飲めば、少しは落ち着きますよ」
柔らかな甘いココアの香りがドヴァーの鼻腔をくすぐり、少しだけ彼女の心を落ち着かせた。
ドヴァーがカップに口を付け、ゆっくりとココアを飲む。
生気の消え去っていたドヴァーの顔に、少しずつ明るいものが宿っていくのを見て、イエローは少しだけ安堵した。
「……すみません、見ず知らずの私に」
「いいんですよ、気にしないでください! ここのココア、美味しいんですよ。私も時々飲みに来るんです」
ドヴァーの落ち着いた様子に、イエローはにっこり笑ってみせた。
それはまるで太陽のように、見る者の心を温める笑顔。
「何があったかはわかりませんけど……もしよければ、私に事情を聞かせてもらえませんか? ほら、一人で抱え込むより、何かしら吐き出した方がきっと気持ちが楽になると思いますし」
目の前の少女の温かさを前に、ドヴァーは自分でも驚くほど素直に言葉を漏らしていた。
大切な人が事故で重傷を負い、意識が戻らないこと。
自分が何もできない無力感に押し潰され、不安だけが募っていくこと。
ドヴァーの告白を聞きながら、イエローは内心で驚いていた。
(なんて綺麗な人だろう。こんなにボロボロなのに、この人には隠しきれない気品がある)
私がスカウトマンなら絶対に放っておかないのに、などと少し不謹慎なことも考えたが、すぐに振り払って気持ちを切り替えた。
今は、この儚い人の助けになりたい。
この人はきっと、涙より笑顔が似合うと思うから。
そんな気持ちが、イエローを突き動かした。
ココアを一口飲んでから、アイドルとしての、そして一人の少女としての経験から言葉を紡いでいく。
「あのね、お姉さん。人間って、無意識でも外の音や声に反応するものなんです。特に、大好きな人の声ならなおさら」
ドヴァーの目を真っ直ぐに見据えながら、イエローは続けた。
「声をかけて、心の底から想いを伝えてみたらどうかな? 言葉にしなきゃ届かないことって、たくさんあるから」
「……声を、かける?」
「そう。恥ずかしがらずに。あなたの心からの言葉が、その人の深い眠りを解く鍵になるかもしれない……いや、きっと届きます」
イエローが、ドヴァーの両手を包むように握る。
「お姉さんみたいな素敵な人にそこまで想われてるなら、その人はきっと世界一の幸せ者なんですから」
その言葉に、ドヴァーはハッとした。
声、想い。
今まで自分は、ただ悲しみに暮れていただけではなかったか。
ただ彼を待つばかりで「帰ってきて」と叫んでいなかった。
自分がすべきことは、後悔を重ねて泣くことではなく、彼を「呼び戻す」ことなのだと。
――自分にはまだ、できることがある!
「ありがとうございます……ありがとうございます!」
感謝を述べ、ドヴァーは大慌てでカフェを飛び出した。
その背中を見送りながら、イエローは呟いた。
「幸せになってほしいな、あんなに綺麗な人……さ、私も戻らなきゃ!」
イエローは優しく微笑み、会計を済ませると仲間たちの待つ道場へと歩き出した。
びしょ濡れで病室に飛び込んできたドヴァーの姿に、アジーンは驚いた。
しかしそんな酷い有様をしているにも関わらず、ドヴァーの瞳にはかつてない決意の火が灯っていた。
アジーンはそれを察し、何も言わずに部屋を後にすると静かにドアを閉めた。
ドヴァーは戦闘員くんの傍らに座り、その大きな、温かな手を両手で包み込んだ。
「……戦闘員くん。聞こえますか?」
彼女の脳裏に、これまでの日々が走馬灯のように駆け巡る。
今まで口にできなかった想いを、一つずつ、祈るように紡ぎ始めた。
「戦闘員くん……あなたの、大きな手が好き。不器用だけど、優しくて、温かくて……いつも私を守ってくれた」
(――俺、ドヴァーさんの綺麗な手、好きです!)
「あなたの、頼りになる大きな背中が好き。あなたが隣にいるだけで、私は物凄く安心できた」
(ドヴァーさんは、俺が守ります!)
「あなたの、ちょっぴりスケベな所は……その、少しだけ苦手だけど……」
(す、すみません! これも組織のためですから……!)
ぽろぽろと、ドヴァーの頬を熱いものが伝っていく。
涙を堪えきれないまま、ドヴァーは彼の顔を覗き込んだ。
「あなたが私に向けてくれる、あの太陽みたいな笑顔が、一番大好きなんです!」
雫が、彼の頬にこぼれ落ちる。
「お願い……もう一度私の名前を呼んで、笑顔を見せて! あなたがいない世界なんて、私、耐えられない!」
溢れ出す想い。
ドヴァーは吸い寄せられるように顔を近づけ、眠る彼の唇にそっと、自らの唇を重ねた。
甘く、切ない、初めての口付け。
……静寂。
ドヴァーが顔を離し、絶望に沈もうとした、その時。
握りしめていたドヴァーの手が、力強く握り返された。
「……ド、ヴァー……さん……?」
微かな、しかし聞き間違えるはずのない声。
ゆっくりと開かれた瞳が、ドヴァーを映し出す。
その目にはまだ混乱の色があったが、彼は優しく微笑んだ。
「あ、れ……俺……ドヴァーさん、無事……だったんですね……よかった……」
「戦闘員くん!!」
ドヴァーは彼の胸に飛び込み、声を上げて泣いた。
彼はまだ記憶が混濁していたが、目の前の愛しい女性が無事であることにただ安堵した。
同時に、自分の置かれている状況をなんとなく理解した。
まだ自由の利かない腕を懸命に動かし、大好きな人の背中を、慈しむように抱きしめる。
「ありがとう、ドヴァーさん……ただいま」
「おかえりなさい、おかえりなさい……っ!!」
ドア越しに気配を感じたアジーンは、鼻を鳴らして満足そうに微笑んだ。
「やれやれ、愛の告白もバカにできないね……お姫様のキスで目覚めるなんて、洒落が効いてるよ」
小さくガッツポーズを作り、アジーンはそっと静かにその場を立ち去った。
窓の外では、厚い雲が割れ、眩いばかりの晴れ間が差し込んでいた。




