番外編 「陽だまり」
悪の組織MASKの基地内にある、ドヴァーの執務室。
最新の空調システムによって保たれた空気は、どこか春の陽だまりのような微かな温かさを帯びていた。
いつものマスクをデスクの上に置き、眼鏡姿で目の前に積み重なった書類とにらめっこするドヴァー。
悪の幹部たるもの、本来ならば常に世界征服の計画に血道を上げているべきなのだが、ここ数日のドヴァーは多忙を極めていた。
ジャスティースとの度重なる激しい戦闘、アジーンによるデータ取りという名の容赦ない実験、そして組織の表向きの顔である大企業の書類仕事。
細かな業務の積み重なりが、ドヴァーの心身を疲れさせていった。
……疲れの原因の殆どはアジーンの実験のせいだが。
「……ふぅ。この報告書さえ終われば、次は作戦の予算申請を……」
ドヴァーは手にした万年筆を動かしていたが、その動きは次第に緩慢になっていく。
ふわりと柔らかな紫色の髪が揺れる。
限界まで張り詰めていた意識の糸が、静かな室内の環境音に溶けるようにして解けていった。
カタン、とペンが手元から滑り落ちると、彼女はそのまま机の上に積み上げられた書類の山を枕にするようにして、深く重い眠りに落ちていった。
「失礼します。ドヴァーさん、開発部から例の報告書を預かってきまし――」
軽いノックの後、元気よくドアを開けて入ってきた戦闘員くんは、その瞬間に声を潜めた。
視線の先には、普段の凛とした姿からは想像もつかないほど無防備な上司の姿があったからだ。
「……あ」
彼は、息を呑んで立ち尽くした。
ドヴァーは突っ伏して眠っており、直前まで掛けていたであろう眼鏡が、少しズレて机の端に置かれている。
そこにあるのは、月の光を透かしたような白い肌と、長く整った睫毛。
天使のような、あまりにも清らかな素顔だった。
だが、彼の視線は不敬にも別の場所へと吸い寄せられてしまう。
机に体を預けたことで、ドヴァー自慢の豊かな胸がデスクの硬い天板に押し潰されていた。
ジャケットのボタンがはち切れんばかりに主張するその膨らみは、無防備な寝顔とのギャップも相まって、彼の理性という名のリミッターを容易く破壊しそうになる。
(バカか、寝てる相手に何考えてんだ俺! だ、ダメだ。集中しろ。俺は紳士だ……!)
己の邪念を必死に振り払おうと彼が深呼吸をした、その時だった。
「……う、ん……せん、とういん、くん……」
小さな、吐息のような呟きがドヴァーの唇から漏れた。
それは間違いなく、自分の呼称。
――夢の中でさえ、彼女は自分を呼んでくれている。
かつて消耗品のように扱われていた日々が、遠い過去の出来事のように思い出される。
この人は、自分の事を個人として認め、夢に見るほど信頼してくれているのだ。
「……ドヴァーさん。俺、もっと頑張りますから」
彼の瞳からいやらしい色は消えていた。
そこにあるのは、純粋な敬愛。
彼はロッカーからふかふかの毛布を取り出すと、細心の注意を払ってその肩へと掛けた。
眠る上司を起こさぬよう、足音を殺して退室する。
「おやすみなさい、ドヴァーさん。いい夢を」
パタン、と静かにドアが閉まる音が、執務室に優しく響いた。
それから更に三十分ほど経った頃。
ドヴァーは、頬に触れる柔らかな感触に意識を浮上させた。
「うぅん……はっ!? いけない、私としたことが居眠りしてしまうなんて……!」
ガバッと勢いよく体を起こす。
即座に、肩から何かが滑り落ちた。
それは、自分のものではない、清潔な香りのする厚手の毛布。
ふとデスクの上に、報告書が置いてあるのに気付く。
貼られた付箋には「お疲れ様です」の手書きメッセージが添えられていた。
この部屋に自由に入ることが許され、かつ、これほどまでに細やかな気遣いができる人物は一人しかいない。
「戦闘員、くん……」
自分を起こすまいと気を使ってくれた彼。
その優しさに、ドヴァーの胸は温かな幸福感で満たされる。
……が、次の瞬間。
彼女の脳内で、真っ赤な警告ランプが猛烈な勢いで回転し始めた。
「……あ、あれ? そういえば私マスク、いや眼鏡を……?」
机の上を見れば、自分で置いたマスクと、無残にも外れた眼鏡が転がっている。
ということは、つまり。
(見られた!? 私の、完全に油断しきった、だらしない寝顔を!? もしかして、変な寝言とか言ってなかったかしら!? 「お腹すいた」とか口走ってたら……!!)
ドヴァーの顔は、一瞬で髪の色よりも深い紫色に染まった。
羞恥心に耐えかねた彼女は、彼が掛けてくれた毛布を再び頭から被り、芋虫のように体を丸めて机の上で悶絶した。
声にならない声が、執務室にこだまする。
「あああああ、もう!! どうしましょう、明日からどんな顔で命令すれば……! ああ、でも……この毛布、すごく温かい……」
羞恥と、彼から贈られた優しさ。
彼の手触りが残る毛布に顔を埋め、悪の女幹部はしばらくの間、甘酸っぱい混乱の渦の中でバタバタと足を動かし続けるのであった。




