第2話 「もう一人の幹部」
朝、秘密基地内の執務室。
ブラック企業という名の地獄から這い出し、悪の組織に拾われてから数日が経った。
手続きと身辺の整理を終え正式に組織へ加入した俺の新しい肩書きは、幹部であるドヴァーさん直属の戦闘員だ。
名前さえ捨てた俺にとって、彼女が呼んでくれる「戦闘員くん」という響きは、どんな一流企業の役職名よりも誇らしく、俺の胸に熱く響いていた。
「おはようございます、戦闘員くん。今日もいい筋肉ですね」
「はい! おはようございます、ドヴァーさん! ありがとうございますっ!」
デスクに座り、コーヒーを優雅に啜るドヴァーさんが、眼鏡の奥の瞳を細めて微笑む。
悪の組織としての活動をしていない時の彼女は、さながら出来るオフィスレディといった装いだ。
かつての職場では、朝一番に飛んでくるのは「昨日のノルマはどうした」という怒号か、上司のねっとりとした嫌みだけだった。
だが、ここでは違う。
淹れたてのコーヒーの香りと、愛しのドヴァーさんの美貌。
この楽園のような光景だけで、俺のやる気スイッチは全開になるのだった。
悪の組織、MASK。
その実態は、世間が恐れるイメージとは程遠い、恐ろしく健全な超優良企業だった。
驚くべきことに、この組織の正体は世界トップシェアを誇る巨大複合企業「マスカレイド・コーポレーション」であった。
俺も表向きはここの社員として再就職した形になっている。
表の顔は超一流企業、裏の顔は世界征服を企む悪の組織。
挨拶を交わしてくれる一般社員の人達や「よっ、今日もご苦労さん!」などと気さくに声をかけてくれる清掃のおっちゃんに至るまでが、実はMASKの息が掛かった構成員だ。
社長である大幹部様を筆頭に、この世界に「秩序ある混乱」をばら撒く事が目的だという。
もっとも、大幹部様は専ら表舞台に立つ事に専念しており、MASKとしての活動はドヴァーさんを含む信頼する二人の幹部に一任しているらしい。
「世は決して正しいことばかりで回ってはいない」という考えの下に作り出された必要悪、それがMASKなのだ。
……と、成り立ちだけを聞けば、とんでもない悪の組織のように思える。
だが、その活動内容といえば「足腰の弱い老人優先の偽の交通規制で渋滞を作り、ドライバーに少しだけ昼寝の時間を与える」や「人気のパン屋のパンを買い占めて街の食バランスを乱し、近隣の幼稚園に配って子供たちを胃袋から支配する作戦」などといった、どこか間の抜けた――もとい、微笑ましいものばかりだ。
「こほん……いいですか戦闘員くん。我々の目的は、あくまで社会に刺激を与えること。今の時代、悪の組織といえどコンプライアンスは絶対です。恐怖による支配ではなく、社会に心地よい『混乱』という名のスパイスを与えることが我々の活動なのです」
ドヴァーさんはそう言って、誇らしげに胸を張る。
その拍子に、ジャケットを内側から力強く押し上げる彼女の豊かな双丘が、たゆんっと重力に逆らうように揺れた。
(……スパイスが効きすぎて、俺の目が釘付けです)
俺は心の中で「一生ついていきます!」と、尻尾を振る大型犬のように叫んでいた。
福利厚生完備、残業代全額支給、そして上司が巨乳の超絶美人。
地獄のような前職とは比べ物にならない、天国のような場所。
俺はこのホワイトな悪の組織に、骨を埋める覚悟を固めていた。
そんな平和な執務室に、ノックもなしに小さな嵐が飛び込んできた。
「やあやあ、お邪魔するよドヴァー! 例の期待の新人クンを拝みにきたよ」
ドアを壊さんばかりの勢いで開いて現れたのは、金髪ショートカットの小柄な少女だった。
目元にはドヴァーさんと同じデザインのマスクを着け、口元には不敵な笑みを浮かべている。
組織の制服の上からぶかぶかの白衣を羽織り、ミニスカートから伸びるニーソックスとブーツの絶対領域がなんとも扇情的だ。
「もう、入る時はノックをしてくださいと言っているでしょうアジーン!」
「はは、固いこと言わないの。君とボクの仲だろう?」
怒るドヴァーさんを尻目に、彼女はトコトコと俺の方に近付くと、俺の顔を覗き込むように正面に立った。
「ふぅん、君がドヴァーが拾ってきたっていう戦闘員クンだね? ボクはアジーン、よろしく頼むよ」
「あ、はい。はじめまして、どうぞよろしくお願いしますアジーンさん」
一歩下がって深々と頭を下げる俺に、彼女は気さくな声で呼び捨てでいいよと答えた。
どうやら堅苦しいのは性に合わないようだ。
そう、彼女こそがMASKのもう一人の幹部であり、組織のすべての超技術を司る開発部のトップ――つまり「天才少女」なのである。
ドヴァーさんが現場に立つ指揮担当とするならば、彼女はそれを技術で支える裏方担当というわけだ。
挨拶を終えたアジーンは、観察するように俺の周りをチョロチョロと素早く動き回り、遠慮なく俺の腕や胸板をベタベタと触り始めた。
「へぇ、いい筋肉だねぇ。密度が異常だよ。ちょっと失礼」
アジーンは測定器のようなものを俺の筋肉に押し当て、数値を読み取ると、ニヤリと口角を上げた。
「……驚いたな。ドヴァー、彼は君が思っている以上に面白いよ。ただのマッチョなタフガイなんかじゃない。精神が高揚した瞬間に、細胞レベルでエネルギー効率が跳ね上がる『特異体質』の持ち主だ」
「特異体質……ですか?」
首を傾げる俺とドヴァーさんに、アジーンは怪しい笑みを浮かべながら続ける。
「彼はね、ブラック企業という極限の抑圧下で、唯一の救いだった筋トレが脳の生存本能と結びついてしまった……いわば『精神エネルギー変換体』なんだ」
「精神、変換……? なんですかそれ?」
「脳のリミッターが、特定の感情の高ぶりによって肉体へと直結する。わかりやすく言うと、テンションが上がれば上がるほど君の身体は力を発揮するのさ」
そして、アジーンは俺の鼻先を指差して断言した。
「ボクの計算によれば、君の潜在能力を効率よく爆発させるための最強のトリガーは……性的興奮。端的に言えば、ドヴァーの胸を揉むことだ」
「なっ……ななな、何を言っているのですかアジーン!!」
ドヴァーさんが椅子から転げ落ちんばかりに絶叫した。
顔は一瞬で耳まで真っ赤に染まっている。
だが、アジーンは涼しい顔でタブレットを叩く。
「これは彼専用スーツの設計データ収集のためにも必要だ。一般戦闘員向けのスーツ程度じゃ、身体能力をろくに発揮できないだろう。それに彼の体格に合うサイズのスーツは、結局一から作らないといけないからね。ドヴァー、これも組織のためだよ」
「うっ……そ、そうは言っても……む、胸を揉むというのは流石に……」
もっともらしいことを言っているようだが、アジーンの目は笑っていた。
「あの、専用スーツなんていいんですか? 俺、まだ入社したてのド新人ですけど」
「ま、ボクからの入社祝いみたいなものさ。ボクも研究者として、君の限界値が見たいからね」
アジーンが俺に右手を差し出しながら囁く。
「戦闘員クンも、ドヴァーのことが大好きなんだろう? 君が能力を活かすことは、ドヴァーを守ることにも繋がるはずだ。利害は一致している、そうは思わないかい?」
それは、悪魔の囁きだった。
俺の脳内で、ドヴァーさんへの敬意と、スケベな本能が激しいデッドヒートを繰り広げる。
「……組織の、さらなる飛躍のため……そしてドヴァーさんのため。甘んじて受け入れます!!」
「よし、交渉成立だ! 話がわかる男は嫌いじゃないよ、ぐふふ」
俺たちは、羞恥に震えるドヴァーさんを余所に、ガシッと熱い握手を交わした。
「い、嫌です! 絶対に許可しません! セクハラ! 破廉恥です! 公序良俗に反しますっ! もうっ、戦闘員クンもアジーンの甘言に乗っからないで下さい!」
「むっ、甘言とは失礼だねドヴァー。ボクが面白がってやってるように見えるかい?」
「見えます!」
惚れ惚れするような即答だった。
「ええーい、往生際が悪いぞドヴァー! ほら戦闘員クン、幹部命令だ、思い切ってやりたまえ!」
アジーンがどこからともなく取り出した小型のロボットアームが、あっという間にドヴァーさんの腕を後ろから羽交い締めにする。
「きゃあっ!? やっ、せ、戦闘員くん、こっちに来ないでぇ……!」
俺は意を決して、潤んだ瞳で俺を見上げるドヴァーさんの正面に立った。
「……し、失礼しますっ!!」
俺は一礼して、その膨らみに両手を伸ばした。
指先が制服の生地に触れた瞬間、ドヴァーさんが「ひゃんっ……!」と聞いたこともないような甘い声を漏らした。
「ぁ、んっ……戦闘員、くん……ダメぇ……っ!」
その瞬間、俺の全身を電流のような熱いエネルギーが駆け抜けた。
ドクン、と俺の鼓動が爆発的に跳ね上がる。
全身の血管が拡張し、筋肉がこれまでにない熱を帯びて膨張していくのがわかる。
「見てごらん、ドヴァー! 戦闘員くんのバイタルが通常の300%を突破した! 素晴らしい! まさにエロ・エネルギーの完璧な変換だね!」
アジーンの言葉が間違いでないことを証明するかのように、俺の肉体に力が漲っていくのが感じられた。
……どうやら俺は本当に興奮を力に変えることが出来るらしい。
アジーンはケラケラと笑い、狂喜乱舞しながらタブレットを叩いていた。
まるで精密機械のような正確さでリアルタイムに俺の身体情報を反映し、スーツに組み込むためのシステムを組み上げていく。
ドヴァーさんは次第に抵抗する力を失い、俺の胸に頭をもたれかけるようにして呼吸を乱していた。
「いやぁ、大収穫だよ。これで最強のスケベ・ブースト機能付きスーツが作れるね。完成すれば、君は間違いなくあのジャスティースに対抗できる最高の戦力になれる。楽しみにしてるといいよ」
アジーンは賢者タイムのような顔で放心する俺と、蕩けきってぐにゃぐにゃになったドヴァーさんを残し、満足げに去っていった。
嵐が去った後の執務室。
沈黙の中、ドヴァーさんが涙目で俺を睨みつけてきた。
「……戦闘員くん」
「は、はいッ! 申し訳ありませんでしたぁ!!」
俺は反射的に、額で床をぶち破らんばかりの勢いで土下座した。
いくら幹部命令とはいえ、上司の、しかも想い人の胸をあれほどまでに堪能してしまったのだ。
即解雇されても文句は言えない状況に、全身から冷や汗が溢れ出す。
「あなたは、その……デリカシーというものが無さすぎますっ!」
ドヴァーさんは頬を林檎のように赤く染め、顔を背ける。
先程の感触を思い出したのか、自分の胸を抱え込むようにして身を震わせていた。
「す、すみません! 自分でも驚くぐらい身体に力が溢れてきて、つい……!」
「まだ言いますか! 戦闘員くんのエッチ! むっつりスケベ! 犬!」
ポカポカと俺の胸板を叩くドヴァーさん。
「もう、知りませんっ!」と言いながら、ぷっくりと頬を膨らませてドヴァーさんはそっぽを向いてしまった。
「……でも」
消え入りそうな声で、ポツリと呟く。
「……少しだけ、その。あなたの大きな手が、温かくて……嫌ではなかった、と言いますか……ごにょごにょ」
「え?」
「な、なんでもありません! 今日の業務が遅れていますっ! 早く準備に取り掛かって!!」
慌てて机に向かう彼女の横顔。
その瞳には、羞恥だけではない、この先への微かな期待の色が混じっているように見えた。
(俺、ここに再就職して本当に良かった……!)
俺は自分の大きな手の平をそっと握りしめながら、文字通りに「掴み取った」幸せを噛み締めるのだった。




