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第1話 「ようこそ、悪の組織へ!」

 世界は、ずっと灰色だった。


「はぁ……また不採用か」


 スマートフォンの画面に並ぶ「慎重に検討いたしました結果……」という定型文。

 何度目かも数えるのをやめたお祈りメールを眺めながら、俺は公園のベンチで深い溜息をついた。


 数ヶ月前、俺はようやく長年勤めた超絶ブラック企業を脱出した。

 地獄のようなサービス残業、休日出勤当たり前、上司からの罵詈雑言。

 心は摩耗し、世界はいつの間にか彩りを失った灰色に見えていた。


 唯一の救いは、ストレス発散のために無心でやり続けた筋トレだった。

 ビジネススーツの上からでもわかるほどに盛り上がった胸筋と広背筋。

 この筋肉だけは、数少ない俺の自慢だ。

 だがこの社畜の意地で作られた筋肉も、再就職の面接では「威圧感がある」と敬遠される始末。

 結局待っていたのは、もう一つの絶望。


「……いっそ、このまま山に籠もって仙人にでもなろうか」


 文明社会からのドロップアウト。

 そんな馬鹿げた思考が脳裏をよぎった、その時だった。


 公園の外の道路が、にわかに騒がしくなった。

 大型トラックや乗用車が次々と立ち往生し、耳を刺すようなクラクションと、苛立ちに満ちた怒声が響き渡る。


「なんだ……? 事故か?」


 俺はどん底の気分を少しだけ横に置いて、野次馬根性で公園を出た。

 そこには異様な光景が広がっていた。


 黒い衣装に身を包み、顔に紫のマスクを着けた奇妙な集団。

 彼らは道路の中央に堂々と陣取り、勝手にバリケードを築き、デタラメな交通規制を敷いている。

 その混乱の中心、反対側の歩道で、一人の女性が高笑いを上げていた。


「オーッホッホッホ! 恐怖しなさい、愚かなる民衆よ! 今この瞬間からこの道路を我らMASK(マスク)が占拠しました! 嘆き、惑いなさい!」


 軍服を思わせる凛々しい制服に、ひらりと翻るロングスカート。

 目元を隠す紫のマスクが、そのミステリアスな雰囲気を際立たせている。

 鞭を手にしたその姿は、いかにも「冷酷な女幹部」という雰囲気だ。


「おいおい、マジかよ……本物だ……」


 MASK――ニュースで見たことがある。

 今世間を騒がせている、悪の組織を名乗る連中だ。

 まさかこんな所で遭遇するとは思いもしなかった。


 ……しかし次の瞬間、俺の目は釘付けになった。


 彼女は高笑いを上げながらも、足腰が悪くて立ち往生していたおばあちゃんの手を優しく取り、ゆっくりと、混乱する車道から安全な場所へとエスコートしていたのだ。


「さあさあ、おばあさま、こちらへ。転ばないように気をつけなさい」


 高らかに叫んでいた内容とは裏腹に、やっていることは、どう見ても完全なる善行だった。

 ……偽の交通規制は良くないが。


 悪の組織を自称しながら、その行動の根っこが隠しきれないほどお人好しなのだ。

 そのあまりのちぐはぐさに、俺の口元からは自然と笑みがこぼれていた。

 おばあちゃんを見送り、満足げにこちらへ歩いてくる仮面の女性。


「ふっ、これでまた世の中に恐怖と混乱を――」


 彼女が決め台詞を吐きながら立ち去ろうとした、その瞬間。

 彼女の高いヒールが、道路のわずかな段差を捉え損ねた。


「ぐえっ!!」という情けない悲鳴と共に、彼女は盛大に地面へとダイブした。

 その衝撃で、彼女の顔を隠していた紫のマスクが外れ、アスファルトの上を滑って俺の足元へと転がってくる。


「だ、大丈夫ですか!?」


 俺は持ち前のお人好しを発動させ、マスクを拾い上げながら思わず彼女の元へ駆け寄った。

 地面に突っ伏した彼女の背中に声をかけようとして、俺の目はある一点に吸い寄せられた。

 軍服の上からでもはっきりと分かる、熟した果実のように大きく豊かな双丘が、押し付けられるようにして広がっている。


(で、でかい……! い、いや、何考えてんだ俺は!)


 俺は激しく首を振り、煩悩を振り払って彼女に手を差し伸べた。


「いたたた……ど、どうもありがとうございます……」


 彼女が、鼻を押さえながらゆっくりと顔を上げた。



 ――その瞬間、俺の時が止まった。



 透き通るような磁器の肌に、月の光を溶かしたような紫紺の瞳。

 長く整った睫毛が、戸惑いに揺れている。

 艶やかな紫色の髪が風に揺れ、ふわりと春の風のような香りを運んできた。

 凛とした強さと小動物のような危うさが同居した、息を呑むような美貌。

 マスクの下に隠されていたのは、およそ「悪」とは無縁の、天使のような素顔だった。


 灰色の世界に、鮮やかな極彩色が奔った。

 枯れ果てたはずの俺の心臓が、熱く脈動する。


 それはまさに、一目惚れだった。


 沈黙を破ったのは、彼女の方だった。


「はっ!? あ、あなた……見ましたね!? 私の素顔を……!」


 我に返った彼女が、俺の手からひったくるようにマスクを取り、慌てて着け直す。


「くっ、一生の不覚……! 見られたからには、生かして帰すわけにはいきません!」


 鞭を構え、俺をキッと睨みつける。

 傍から見ると完全にドジな自爆だったが、彼女は本気のようだ。

 だがその瞳に宿る戸惑いさえも、俺には愛おしく感じられた。


 頬を赤らめながらにじり寄ってくる彼女。

 だがその時、空から三つの光が舞い降りた。


「「「そこまでだ、悪の女幹部ドヴァー!」」」


 現れたのは、ボディスーツに身を包んだ正義のヒーローチーム「ジャスティース」。

 正義を標榜する彼らは、即座に武器を構えてMASKを包囲する。


「偽の交通規制で道路を混乱させるとは、許せん!」とレッドが燃えるように叫ぶ。

「あまつさえ、一般人を襲い、脅迫までするとは」とブルーが冷静に続く。

「今日こそ、覚悟してもらうわ!」と紅一点のイエローが、びしりとドヴァーさんを指差した。


(いや、この人さっきおばあちゃんを助けてただけなんだけど……!)


 などと、思わず心の中でツッコミを入れる。


「ふん、現れましたねお邪魔虫共……お前たち、やっておしまい!」


 ドヴァーさんの合図で下っ端の戦闘員たちが突撃するが、流石は正義の味方。

 レッドの剣、ブルーの銃、イエローの弓が容赦なく彼らを蹴散らしていく。

 あっという間に三対一。

 絶体絶命かと思われたが、ここからのドヴァーさんは凄まじかった。

 先程のドジが嘘のように、鞭をまるで生き物のように操り、三人のヒーローを相手に互角の立ち回りを見せる。

 しなやかな肢体から繰り出される一撃一撃が、鋭く空気を引き裂く。


 だが、やはり数には勝てない。

 チームワークを駆使したジャスティースの連続攻撃に、次第にドヴァーさんが劣勢に追い込まれていく。


「くっ……やはり手強い……!」


 ブルーの牽制射撃に体勢を崩し、間髪入れず、イエローの鋭い回し蹴りがドヴァーさんの脇腹を捉える。


「これで、終わりだ!」


 レッドが必殺の構えで斬りかかる。


 ……このまま見ているだけでいいのだろうか?

 彼女は確かに悪の女幹部かもしれない、しかしやっていたことは足腰の弱いお年寄りを助けていただけだ。

 方法はともかくとして、あれは間違いなく善意による行動だ。

 燃え上がる炎の如き剛剣が、無防備なドヴァーさんに向かって振り下ろされようとした瞬間――


 考えるより先に、俺の身体が動いていた。

 ブラック企業の理不尽な現場を駆けずり回って鍛えられた足腰と、筋トレで培った爆発的な筋力が、俺を戦場の中央へと押し出した。


 ガシィィィィィィン!!


 俺は二人の間に強引に割り込み、その刀身を白刃取りで受け止めていた。


「なっ、なんだこいつ!? 俺の剣を、素手で!?」


 突然の出来事に驚愕するレッドを、俺はそのまま背負い投げの要領でアスファルトに叩きつけた。

 イエローが慌ててレッドに駆け寄る。

「まさか、彼もMASKだったのか!?」と、ブルーが俺に銃口を向ける。

 俺はドヴァーさんを庇うように立ち塞がり、吠えた。


「ただの就活中の無職だ! 元ブラック企業勤めのな!!」


「な、何をやっているのですか、あなた!」


 後ろでへたり込んだドヴァーさんが目を丸くしているが、構わない。

 いくら筋肉質とはいえ、どう見ても一般人の男が突然戦いに乱入してきたのだから、驚くのは当然だ。


「レッドを投げ飛ばすなんて……なんなの、この人」


 驚愕の声を上げながらも俺のことを警戒するイエロー、その後ろでブルーが冷静に分析を始める。


「あの身体能力、明らかに一般人の域を超えている……もしや、MASKに洗脳されて特殊な強化改造を施されたのでは?」


「は? いや、俺はただの……」


 あまりにも的はずれな推理に、思わず変な声が漏れる。

 レッドが拳を握りしめながら起き上がった。


「そういうことか……! くそっ、なんて卑劣な連中だ! 無実の市民を改造して盾にするなんて、許せねえ!」


「幹部を倒せば、彼の洗脳も解けるはず!」


「迷ってはいられないわ、やりましょう!」


 どうやら俺は完全に「洗脳された一般人」と思われてしまったようだ。

 正義の味方は、俺の言い分を一ミリも聞いていなかった。

 彼らはそれぞれの武器を合体させ、巨大な大砲を組み上げた。


「「「ジャスティース・バスター!!」」」


 必殺の大筒にエネルギーが充填され、その照準が俺の背後で呆気にとられていた彼女に定められる。


(じ、冗談じゃないぞ、あんなもん食らったら……ッ!!)


 大筒が火を吹き、特大の黄金の光が迸る。

 俺は咄嗟にドヴァーさんをお姫様抱っこで抱え上げると、猛烈なダッシュで裏路地へ飛び込んだ。

 次の瞬間、砲撃が炸裂し、先ほどまでいた場所が爆炎に包まれる。

 鳴り響く轟音と衝撃波を背に受けながら、俺は無我夢中で駆け抜けた。

 腕の中に収まる、彼女の柔らかで豊かな感触が理性を溶かしそうになるが、今は死ぬ気で走るしかなかった。



 どれくらい走っただろうか。

 追っ手の気配が消えた倉庫街の片隅で、俺はようやく足を止めた。


「……はぁ、はぁ……。ここまで来れば、大丈夫、でしょう」


 彼女をそっと降ろす。


「……助かりました。礼を言います」


 ドヴァーさんは服の乱れを整えながら、不思議そうな、それでいて少し照れたような表情で俺を見た。


「でも、なぜあんな無茶をしたのですか? 私を助ければ、あなたも仲間だと思われてしまうのに」


 後頭部を掻きながら、俺は真っ直ぐに彼女を見つめ、バカ正直に答えた。

 放っておけなかったこと、身体が勝手に動いていたこと。


「それに……その、あなたの素顔があまりにも綺麗で。俺……一目惚れ、しちゃったんです」


「え、ええええええ!? な、なな何を、突然……っ!!」


 ドヴァーさんの狼狽えぶりは凄まじかった。

 マスク越しでもわかるぐらいに顔を真っ赤にし、視線は右往左往、鞭を握る手まで震えている。

 その初心な反応が、俺の胸をいっそう熱くさせた。

 だが、彼女はすぐに咳払いをして俺を観察し始めた。


「……驚異的な身体能力に反射神経、私を抱えたまま走り続けたタフネス。一体何をすれば、そんな風になれるのですか?」


「えっと……ストレス発散に、毎日死ぬ気でトレーニングを……」


「正直ですね」と、ドヴァーさんはクスリと微笑んだ。

 そして、何かを決意したように俺の顔を覗き込んだ。


「あなた、今お仕事は?」


「あ、はい。今は無職で、絶賛不採用記録を更新中です。前の会社がブラックで……」


「それは好都合」


 不敵な、けれどどこか優しさを孕んだ笑みが彼女の唇に浮かぶ。


「あなた、悪の組織に興味はありませんか?」


 彼女は人差し指を立てながら語り始めた。


「まず、我が組織は完全週休二日制です」


「……え?」


「残業代もきっちり全額支給します」


「ええっ!?」


「更に、有給取得率は100%!」


「そんな組織が実在するんですか!?」


 前職とは比べ物にならないホワイトすぎる条件が、次々と目の前に並んでいく。

 かつて使い潰される寸前だった俺にはあまりにも眩しすぎる。

 思わず腰を抜かしそうになるのを、俺はぐっと堪えた。

 更にドヴァーさんは「幹部である自分直属の部下としての待遇を約束します」と付け加え、胸元から一枚のマスクを取り出し、俺に差し出した。


「MASKに入り、私の『共犯者』になりませんか?」


 その言葉に、灰色だった世界が完全に色付いた。

 目の前の少しドジで、圧倒的に美しくて、そして誰よりも優しい悪の女幹部。

 理想の女神が、俺に居場所をくれると言っているのだ。

 答えなんて、初めから決まっている。

 俺は迷うことなくそのマスクを受け取った。


「喜んで。あなたのためなら、俺は悪にでも何にでもなります」


 俺はマスクを顔に装着し、ドヴァーさんの前に跪いた。

 その瞬間、かつての死んだようなサラリーマンの俺は消えた。

「良い返事です」と、ドヴァーさんは柔らかな微笑みを浮かべている。


「これからよろしくお願いしますね、私の戦闘員くん。ようこそ、悪の組織へ!」


 ドヴァーさんが白く柔らかな手を差し伸べ、俺の手を力強く握った。


「はい! ドヴァーさん!」


 こうして、マッチョでちょっぴりスケベな俺こと戦闘員と、美しくも初心な女幹部ドヴァーさんの、熱くて甘い「悪の日常」が幕を開けた。


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