番外編IF 「止まない雨」
これは、運命の歯車がわずかに狂い、救いの手が届かなかった「もしも」の物語。
光が影を飲み込み、愛が呪いへと反転した、もう一つの終着駅。
無機質な生命維持装置の音が、静まり返った病室に規則正しく刻まれていた。
しかし、その音は突如として、長く平坦な電子音へと変わる。
「……うそ……嘘、でしょう……?」
ドヴァーの震える声に、答える者はいない。
ジャスティース・バスターの濁流から彼女を庇い、その身を盾とした彼の損傷は、組織の医療技術をしても補いきれぬほど深かった。
アジーンが心血を注いだ追加装甲も、正義の切り札が放つ絶大な破壊エネルギーの前には意味を為さなかった。
装甲は砕け散り、その内側にあった彼の命の灯火もまた、燃え尽きた。
「戦闘員くん!! 目を開けて!! お願い!!」
縋り付き、号泣するドヴァー。
肉体から、生命のぬくもりが消えていく。
アジーンもまた、かつてないほどの無力感に打ちひしがれ、静かに肩を震わせていた。
あと数パーセントでも防御効率を上げていれば――自分の設計が、彼の命を守りきれなかった。
その悔恨と無力感が、彼女の天才的な頭脳を真っ白に塗りつぶしていた。
数日後――雨が降り続く中、執務室でドヴァーは独り佇んでいた。
彼女は完全に抜け殻のようになっていた。
ここにはもう、自分以外に入ってくる者はいない。
持ち主の居なくなったロッカーを開ける。
そこには、仕事中に彼が着ていた馴染みの深い上着が掛かっていた。
それを抱きしめ、鼻を突く彼の香りに顔を埋める。
「どう、して……どうして、こんなことに……っ!」
ドヴァーは嗚咽を漏らしていた。
世界から色が消えていく。
慕ってくれた、守ってくれた、いつも優しく隣で微笑んでくれた彼。
彼が二度と戻ってこないという事実と、どうしようもない悲しみが、彼女の心を蝕んでいく。
どうしてこうなった?
どこで歯車が狂った?
どうして、彼が死ななければならなかった?
絶望の深淵で、ドヴァーの中の何かが決定的に壊れた。
嗚咽は次第に乾いた笑いへと変わっていく。
孤独という猛毒が彼女の善性を焼き尽くし、純粋な愛は、純粋な「憎悪」へと反転した。
誰が殺した?
――ああ、そうだ、あいつらだ。
正義の名の下に破壊の光を放ち、彼の命を奪い取った者たち。
奴らさえ居なければ、彼は今もここで笑っていたはずなのに!
「……絶対に、許さない」
ドヴァーの瞳から光が消え、狂気の色が宿る。
アジーンは、執務室のドアの前に立ち尽くしていた。
部屋に籠り続けるドヴァーを、彼女は心配していた。
何度も外から声をかけようとする。
だが、どんな言葉をかけていいのか、アジーンにはわからなくなっていた。
ドヴァーの悲しみは、アジーンにも痛いほどわかるからだ。
しかし、いつまでもこのままというわけにもいかない。
意を決してアジーンがドアに手をかけようとした、その時――ドアが内側から開かれた。
「あ……ドヴァ……ッ!?」
アジーンは、友人の変わり果てた形相に言葉を失い、ただただ息を呑んだ。
目の前に佇む人物はドヴァーだが、ドヴァーではなかった。
「――アジーン、用意しなさい。奴らを、すべてを焼き尽くし、地獄を作り出すための力を」
その口から漏れた声は、もはやかつての優しさなど微塵も感じさせない、地獄の底から響く怨嗟を孕んでいた。
アジーンは背筋が凍りつくのを感じた。
震えながら、それでも、必死に声を紡ぐ。
「だめ、だ……だめだよ、ドヴァー……そんなこと、彼だって――」
望んでいない。
そう口に出そうとしたのを、アジーンは躊躇った。
彼女を止める資格など、今の自分にはない。
彼の命を守れなかったという負い目が、自分にもあったからだ。
自分にできるのは、狂いゆく友の望みを叶え、共に地獄へ落ちることだけだ。
心では友を止めるべきだと理解しながらも、アジーンにはただ、呪われた力を組み上げることしかできなかった。
一方、ジャスティースの集まる道場もまた、重苦しい空気に支配されていた。
レッド――猛は、道場の床に座り込み、修復された自らの剣を凝視していた。
あの日バスターを放った瞬間の、確かな手応え。
一人の男の命が、自分たちの引き金によって消し飛んだ感覚が、こびりついて離れない。
「……あいつは、洗脳なんてされていなかった」
猛が掠れた声で呟く。
「拳を、剣を交えたからわかる。あいつは、あいつ自身の意志で戦っていた。あいつは……ただの『人』だったんだ」
無抵抗に近い男を、正義の名の下に殺めた。
その事実が、三人に重く、重くのしかかる。
ブルーこと博人は、窓の外を眺めたまま動かない。
「僕は、正しい判断をしたのだろうか……」
答えは出ない。
その場にいる誰も、その答えを出すことはできない。
イエローである奏は、部屋の隅で膝を抱えて震えていた。
血だらけで横たわる男を抱きしめ、絶叫していたあの女幹部の悲痛な姿が脳裏から離れない。
自分は、愛する者同士を死別させる手助けをしたのではないか。
自分がやりたかったことは、本当にこんなことだったのか。
「私……もう、歌えないよ……」
正義という名の十字架は、あまりにも重く、鋭く、若き英雄たちの心を切り刻んでいた。
――だが、世界は彼らに立ち止まることを許さない。
通報が入り、ジャスティースに出動要請がかかった。
『MASKが市街地に出現! 無差別破壊を行っています! 大至急、出動されたし!』
「は、破壊活動ですって!?」
「嘘だろ!? あいつらが!?」
「……行こう、行って僕たちの目で確かめるんだ」
現場に駆けつけた彼らが目にしたのは、地獄のような光景だった。
狂ったように笑いながら街を焼き払う女。
かつての黒き戦士が遺したスーツ。
その残骸を改造して作り上げた、禍々しい漆黒の喪服のようなドレスを纏い、彼女は一人佇んでいた。
全身に伸びる赤いラインが、まるで血の涙を思わせる。
それはまさしく「魔女」だった。
「やっと来たわね……人殺しのヒーローたち」
雨に濡れた艷やかな顔で、魔女が笑った。
見る者すべての魂を凍らせるような、恐ろしい空虚な笑み。
そこに、かつての心優しくも凛とした女幹部の面影はない。
「ドヴァー、なのか…? しかし、その姿は……」
その手に握られているのは、鞭ではなかった。
全てを呑み込むような黒い刀身の剣、それは遺品となったエロスカリバーを改造して再構築した呪いの魔剣だった。
精神力を、感情をエネルギーとして刃とする剣。
今、その原動力は――「憎悪」。
彼女の背後では、ビルが燃え、逃げ惑う人々が悲鳴を上げている。
だが、彼女はそれを見ようともしない。
彼女の視界には、ただジャスティースへの殺意だけが満ちていた。
「さあ、来なさい。私からあの人を奪ったように、今度は私がお前たちのすべてを奪ってあげる!!」
彼女はジャスティースを誘い出すためだけに、無関係な街を壊し続けていたのだ。
かつての優しさは、その黒い激情の炎にすべて焼き尽くされていた。
魔女が地を蹴る。
「来るぞレッド、構えるんだ!」
「……くそっ!」
復讐心によって身体能力の限界を突破した彼女の剣筋は、ジャスティースの三人を同時に相手取ってなお圧倒していた。
特にレッドへの執着と攻撃は凄まじく、一方的に斬り伏せ、ヒーロースーツを切り裂いた。
それは正義への断罪であり、死者への鎮魂の舞いだった。
ブルーとイエローが必死に援護に入るが、攻撃を受けても魔女の猛攻は止まらなかった。
彼女は防御を捨てていた。
剣を振るうたびに、体からは鮮血が噴き出す。
憎悪が生み出す絶大な力――しかし、そのあまりの高負荷に彼女自身の肉体が耐えられていないのだ。
自らの肉体が砕け散っていくことも厭わず、ただジャスティースの、レッドの首を刈り取るためだけに魔女は刃を振るっていた。
「ドヴァー、もうやめるんだ! こんなことをしても、あいつは……あいつは絶対に喜ばない!」
レッドの必死の叫びに、ドヴァーは顔を歪めた。
「黙れ……黙れ黙れ黙れ黙れぇぇぇ!! その汚い口で、彼のことを語るなぁぁぁ!!」
もはやその姿は、修羅道に堕ちた哀しき怪物そのものだった。
そして、その怪物を作り出してしまったのは、紛れもなく自分たちなのだ。
戦闘は激化し、街の被害は拡大の一途を辿っていた。
ジャスティースと交戦しながら、魔女は一切の躊躇いなく街を破壊する。
漆黒の斬撃が、建物を、広場を、街灯を、そして――思い出を切り裂いていく。
「こんな、こんなの……もう戦いじゃないよ……!」
凄惨すぎる光景と魔女の姿を前に、奏の心は完全に折れていた。
レッドが剣を支えにして、なんとか立ち上がる。
――彼女を止めなければならない。
だが、止めるということは、彼女の命を奪うということだ。
「……レッド。もう、やるしかない」
博人が、苦渋に満ちた声で告げる。
「このままでは街が壊滅する。彼女はもう、言葉が届く状態じゃない……」
猛の顔が、苦悶に歪む。
「だが……だがブルー、俺は……!」
「僕たちが、終わらせるしかないんだ」
――また、奪うのか。
愛する人を失い、狂ってしまった彼女から、その命までも。
最後の息の根まで止めるのが、俺たちの仕事なのか。
「あああああああああ!!」
猛は、魂を削り出すような咆哮を上げた。
三人が震える手で武器を合体させる。
これが、正義だというのなら。
これが、人々を守るための唯一の手段だというのなら。
「ジャスティース……バスター……!!」
涙を流しながら、猛はトリガーを引いた。
奏は絶叫して顔を覆い、博人は目を閉じて顔を背ける。
黄金の閃光が、漆黒の魔女に迫っていく。
彼女は、避けなかった。
ドレスが、マスクが、剣が崩れ去っていく。
(……ああ。そこに、居たんですね……)
光の中で彼女は見た。
不器用で、大型犬のように人懐っこくて、誰よりも優しく温かだった大好きな「彼」の姿を。
伸ばした手が空を切り、彼女の頬を一筋の涙が伝った。
憎悪も、狂気も、痛みも、すべてが光に溶けていく。
最後に残ったのは、ただ純粋な想いだけだった。
「……また、会えた……私の――」
最期の一瞬、彼女はかつての面影を取り戻していた。
狂気に染まった魔女ではなく、ただ愛する人の元へ帰りたかった一人の女性として。
彼女の命は、光の粒子となって散った。
街に静寂が戻った。
だがそこには喜びも勝利の凱歌もなかった。
糸が切れたように猛は崩れ落ち、何度も何度も、血が滲むまで拳をアスファルトに叩きつけた。
博人は黙って天を仰ぎ、奏はその場に突っ伏して、ただただ子供のように泣きじゃくった。
彼らが守った街の平和は、二人の命と三人の英雄の心を犠牲にして成り立つ、砂上の楼閣に過ぎなかった。
モニター越しに全てを見届けたアジーンは、静かに通信を切った。
もう一緒に馬鹿をやってくれる同僚も、顔を真っ赤にして怒る美しい友人もいない。
「ごめん、ごめんね……二人とも……」
肩を震わせ、声も出さずに彼女は独り――泣いた。
数日後、誰もいなくなった執務室にアジーンは立っていた。
机の上は、全てが変わってしまったあの日のまま。
書きかけだった彼の報告書と愛用のマグカップ、彼女が普段使いしていた眼鏡。
二度と使われることはない、取りに来る者もいない、大好きだった二人の最後の品物。
三人で笑い合い、下らない作戦を練っていたかつての日々が思い起こされる。
ブラック企業を辞めてここへやってきた彼が、不器用ながらも必死に親友を支えていたあの日々。
「……ボクだけが、残っちゃったね」
アジーンはティーカップと眼鏡をカバンに詰めると、一度だけ部屋を振り返った。
静かに涙を拭い、部屋の灯りを消す。
アジーンは自らの足跡を消すようにすべてのデータを抹消し、独り何処かへと消えていった。
彼女が何を思い、どこへ去ったのかを知る者はいない。
中核を担う幹部を失った組織は、もはや形を保つことすらできない。
近い内にMASKは解体され、マスカレイド・コーポレーションも恐らく謎の倒産を迎えるだろう。
降り止まぬ雨が、悲劇の舞台となった街を静かに洗い流していく。
しかし、失われた二つの笑顔がこの世界に戻ることは、二度となかった。




