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第9話 「歩み」

「くっ、おのれジャスティース……引き上げです、これで勝ったと思うなよー!」


「正義は勝つ、おととい来やがれ!」


 夕暮れの街に、もはや様式美となったいつものやり取りが響き渡る。

 あの一大決戦から季節は進み、風には肌を刺すような冷たさが混じり始めていた。

 全力を出し合って引き分けたあの日以来、俺たちとジャスティースの関係は、びっくりするほど健全なものへと変わっていた。

 まるでスポーツ選手が競い合うかのようにお互いを認め、高め合う。

 かつてのいがみ合うような凄惨な戦いは、もうそこにはなかった。

 俺の毎日は、ブラック企業時代には想像もできなかったほど充実し、そして穏やかだった。


 だが充実すればするほど、穏やかであればあるほど――俺の心には無視できない小さな焦りが芽生えていた。



「よしっと……それじゃドヴァーさん、ちょっと外回りに行ってきます」


 マスカレイドの社員としてビジネススーツに身を包んだ俺は、手際よくデスクの上の書類を鞄に詰めると、立ち上がって執務室のドアに手をかけた。

 眼鏡をかけた仕事モードのドヴァーさんが顔を上げて微笑む。


「はい、気を付けていってらっしゃい戦闘員くん……あっ! ちょっと待って、ネクタイが曲がってますよ」


 ドヴァーさんが近づいて俺の胸元に手を伸ばす。

 至近距離で漂う彼女の優しい香りと、柔らかな吐息。

 ネクタイを指先でなぞる彼女の仕草は、もはや長年連れ添った夫婦のそれだった。

 幸せだ……あまりにも幸せすぎる……!


「はい、これで大丈夫です。今日は私も午後から約束で、ちょっと出てきますから」


「了解です、ドヴァーさんも気を付けて」


 退室しようと振り返ると、ドアの隙間からアジーンが俺たちの様子を覗いていた。


「ふふふ、見てる方が病気になっちゃいそうだねぇ」


「も、もう! あなたって人はまた!」


 いつものやり取りが繰り広げられる中、俺は照れ隠しに軽く会釈して部屋を出た。



 仕事を終えた後、寒空の下で公園の池を眺めながら、俺は一人ため息をついた。

 心の中の雲は、晴れないままだ。

 現状に不満があるわけじゃない。

 彼女の隣で、不自由なく、穏やかに過ごす日々……俺にとってそれはとても尊く、掛け替えのないものだ。

 あまりにも心地よい「停滞」という名の蜜が俺を沈めていく。


 ――けれど、男としてそれでいいのか?


 確かに、俺たちは幹部と部下であり、共犯者だ。

 だが、今の俺は彼女に甘え、この心地よい現状に胡坐をかいているだけではないのか。

 その先にある本当の意味での「約束」を、俺はまだ口にできていないのだ。


「いつまでもこのままってわけにも……いかないよなぁ」


 今の俺の後ろ姿はさながら、しょぼくれた大型犬そのものだっただろう。


「――あれ、千堂さんじゃん! よお、何やってんだいこんなとこで!」


 聞き覚えのある快活な声に振り向くと、そこには私服姿の「猛(たける)くん」と「博人(ひろと)くん」が立っていた。


「どうしたんだよ、そんな浮かない顔しちゃってさ」


「何やら肩を落とされてたようですが……どうかされたんですか?」


 二人は俺たちMASK(マスク)の宿敵、ジャスティースのレッドとブルーだ。

 仮面を脱ぎ、千堂を名乗って交流を重ねるうちに、彼らは私生活においては俺の良き友人となっていた。

 猛くんは俺の正体に気付きながらも、それを追求することはせず、胸に仕舞って一人の男として向き合ってくれている。

 ただし、正義と悪として対峙する時はお互いに手を抜かない。

 それは幾度となく戦い、拳を交えて通じ合った者への敬意と礼儀の表れだった。

 博人くんの方も薄々気付いているようだが、猛くんの様子を尊重してか、深く詮索はしないでいてくれていた。

 彼らの器の大きさに、俺はいつも救われていた。


「はぁ、ちょっとね……悩み事っていうか、情けない話だよ」


 不意に、俺の腹が盛大に鳴った。


「ははっ、腹が減ってちゃ悩みも解決しないぜ!」


「どうでしょう、この近くに僕イチオシのラーメン屋があるんですが、一緒に行きませんか?」



 湯気の立ち込めるカウンターで、俺は二人に胸の内を明かした。

 ドヴァーさん――土場さんへの想いと、一歩が踏み出せない不甲斐なさを。


「……千堂さんらしくないぜ」


 猛くんがチャーシューを頬張りながら言う。


「いつもの千堂さんなら、どんな困難にも全力で正面からぶつかっていくはずだろ?」


「――行動で示すばかりが正解ではないかもしれません」


 博人くんが冷静に、けれど温かく付け加える。


「直接言葉で伝えなければわからないこともあります。千堂さんのありのままの素直な気持ちを、土場さんにぶつけてみてはどうでしょうか?」


「俺の、素直な気持ちをぶつける……」


「そうだ、当たって砕けろだ!」


「砕けてどうするんだ猛」


 二人のやり取りがおかしくて、思わず吹き出してしまいそうになる。

 そんな俺の姿を見て、二人も笑顔を浮かべていた。


「……でも、それぐらいの勢いで行くのもいいと思います。千堂さんなら、きっとやれるはずです」


「博人の言う通りだ、自信持っていけよ千堂さん!」


 俺の背中を押すその言葉には、不思議な重みと勇気が宿っていた。

 そうだ、難しく考える必要なんてないんだ。


「……ありがとう、猛くん、博人くん」


 俺はラーメンをかっ込むと、二人に深く感謝して店を出た。

 彼らは紛れもなく、俺にとってもヒーローだった。



 同じ頃、街の静かなカフェではドヴァーこと土場と、イエローこと「奏(かなで)」がテーブル越しに向き合っていた。

 二人はあの温泉宿での邂逅時に連絡先を交換しており、今ではすっかり個人的な友人となっていたのだ。

 奏はかつて自分が土場を励ましたこの場所で、ココアを飲みながら親友の惚気話を聞くのが習慣になっていた。


「はぁ~、いいですねぇ相変わらず甘々で! ごちそうさまです!」


「もう、奏ちゃんったら」


 ニヤニヤと微笑みを浮かべる奏の様子に、照れながらもくすりと笑い返す土場。

 しかし、不意に土場の表情が憂いを帯びたものに変わる。


「……でもね、私最近不安なんです」


「えっ、どうしたんですか一体!?」


 土場はカップを見つめ、寂しげに微笑んだ。


「私は、彼に甘えすぎていないでしょうか。彼にとって私の存在が負担になってはいないか。私ばかりが沢山幸せをもらっていて、彼を縛り付けてはいないかって……」


 土場自身も千堂が何かを悩み、考え込んでいるのを察していた。


「土場さん、多分それは違いますよ」


 奏が真剣な瞳で身を乗り出す。


「千堂さんはきっと、土場さんからの踏み込みを待ってるんじゃないでしょうか」


「私からの、踏み込み……?」


「アイドルだってね、ファンが来るのを待つだけじゃダメなんです。自分から手を伸ばさなきゃ!」


 あの日のように、奏が土場の手を優しく包み込んで続けた。


「自分から一歩、踏み込んでみたらどうですか? 誰かにお膳立てされたものじゃなく、自分の言葉で誘うんです! 土場さんがどれだけ千堂さんを必要としているか、伝えてみたらいいんじゃないかなって」


 それは、奏の精一杯のエール。

 友人として、一人の女性としての道標だった。


「ま、仕事が恋人の私には羨ましい悩みですけどね!」


 冗談交じりに奏が微笑む。

 アイドルとしての輝きを瞳に宿し、奏はドヴァーの背中を押した。


「勇気を出して! 土場さんの本当の気持ち、彼にぶつけちゃいましょう!」


「自分の言葉で、本当の気持ちを……」


 土場は少し考えたあと、力強く顔を上げた。

 その瞳に強い意志を感じ取り、奏も頷く。


「……わかりました。私、頑張って踏み出してみます」



 その日の夕刻。


「「あっ」」


 執務室に戻った俺とドヴァーさんは、鉢合わせるように顔を合わせた。

 二人がほとんど同時に口を開く。


「あの、ドヴァーさん、俺――」


 言いかけた俺の言葉を、ドヴァーさんの声が遮った。


「あのっ! 今度の休日……二人で、デートしませんかっ!?」


 思わず、俺は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。

 自分から切り出すつもりだった所に、彼女の方から誘われるとは思ってもみなかったからだ。

 それはドヴァーさんからの、初めてのデートのお誘い。

 ドヴァーさんは、耳まで真っ赤になっていた。

 一生懸命に誘ってくれた彼女に、俺はこれ以上ないぐらいに胸が高鳴るのを感じた。

 拒否する理由なんて、世界中のどこを探してもあるわけがない。


「……はい! もちろん、喜んで!」


(――キタキタキター!)


 物陰で聞き耳を立てていたアジーンがテンション高めに小躍りしていたのだが、俺たちには知る由もなかった。



 そうこうしているうち、あっという間にデート当日。

 冬の陽光が降り注ぐ待ち合わせ場所に俺は立っていた。


「千堂くん、お待たせしました」


 ドヴァーさんは編み込まれた髪を肩に流し、柔らかなセーターとロングスカートに白のストールを巻いた淑やかな装いで現れた。

 言葉を失うほど美しい……活動中の凛々しい彼女とは違う、一人の愛らしい女性がそこにいた。


「いえ、俺も今来たところです!」


 俺たちはただの男女として、街を歩き始めた。


 その様子を、少し離れた物陰から見守る怪しい集団がいることに、この時の俺たちは気付いていなかった。

 俺たちを尾行する三つの影……それはジャスティースの三人だった。


「あぁんもう、じれったいなぁ! もっとくっ付いちゃえ土場さん!」


「おい奏、声がでけえって少し抑えろよ! 見つかっちまうだろ!」


「そういう猛こそ、もう少し身を隠さないと目立ってしまうぞ」


 わいわいと騒ぐ三人。

 その更に背後に、もう一つの小さな影が近付く。


「こらこら、そんなに騒いだらバレてしまうよ君たち」


「うおっ!? だ、誰だあんた!」


 突然現れた、怪しげなトレンチコートとサングラス姿の少女に、三人は飛び上がった。


「ボクかい? ボクも二人の恋を応援する者さ。今はそれで十分じゃないかね?」


「二人の恋……まさか、あなたも……!」


 少女――アジーンの言葉に、奏は何か通じ合うものを感じたらしい。

 友の恋路を応援する者としてのシンパシーが、二人の間に流れる。


「……分かったわ。協力して二人を見守りましょう!」


「同盟成立、それじゃ行くとしよう。見失うと元も子もないからね」


 アジーンと奏が固く握手を交わして並び立つ。

 猛と博人は顔を見合わせ、やれやれと肩を竦めていた。



「わぁ、綺麗に飾り付けられてますね」


「もうそういうシーズンですからね。はぁー、なんだかあっという間だったなぁ」


「ふふっ、お互いお疲れ様でした。あっ、まだ年末じゃなかったですね」


 白い息を吐き、他愛ない話をしながら町並みを歩く。

 自然と手が触れ合い、握り合う。

 二人で微笑みながら並んで歩いている、ただそれだけで俺は胸がいっぱいになっていた。


 デートは夢のような時間だった。

 ショッピングを楽しみ、美味しい食事をして、談笑する。

 そうして夜の帷が下りる頃。

 最後に向かったのは、イルミネーションに彩られた公園。

 そこは俺たちが初めて出会い、俺が彼女に一目惚れした、あの場所。

 世界が灰色から色彩を取り戻す切っ掛けになった、すべての始まりの場所だ。


「今日は本当に楽しかったです。ありがとうございます、千堂くん」


 夜空の下、土場さんが微笑む。

 それは俺だけに向けてくれる、親愛の籠った優しく温かな表情。

 光に照らされた彼女の横顔はあまりにも綺麗で、儚かった。

 この笑顔を、俺はずっと守り続けたい。


 今しかない。

 俺は、覚悟を決めた。

 一歩踏み出し、彼女の正面に立つ。


「ドヴァーさん」


 俺は土場さんではなく、彼女の名をはっきりと心を込めて呼んだ。

 それは俺が魂を預けた、最愛の人の名だ。


「……はい」


 ドヴァーさんもまた、すべてを悟ったように真っ直ぐに俺を見つめ返した。



 ――言葉が、出てこない。

 いざとなると、言葉が喉に詰まってしまう。

 猛練習し、格好いい台詞をいくつも用意したはずなのに、頭が真っ白になった。

 手が震え、汗が滲んでいく。


「戦闘員くん」


 ドヴァーさんが、優しく先を促すように口を開いた。


「私、あなたのことが大好きですよ。世界で、一番。あなたがいない世界なんて、もう考えられないくらいに」


 それは彼女の、覚悟を決めた告白。

 ……情けない、俺はまたドヴァーさんに救われたのか。

 でも、だからこそ誇らしかった。

 ドヴァーさんは、俺の隣に並び立とうとしてくれている。

 腹の底から熱い力が湧き上がってくるのを感じた。


 霧が晴れる。

 もう、着飾った言葉はいらない。


「ドヴァーさん、あなたを愛してる!」


 俺は叫んでいた。

 ドヴァーさんの肩が、ピクリと震えた。


「俺を救ってくれたのは、いつだってあなただ! 俺の世界に色をくれたのはあなただ! ずっと、俺と一緒に歩んでほしい……隣にいてほしい!」


 俺は彼女の肩を優しくしっかりと掴み、真っ直ぐにその目を見つめた。

 一呼吸置いて、魂の叫びをぶつける。


「――俺と、結婚してくださいッ!!」


 冬の静寂を切り裂くような渾身の叫びに、一瞬、時が止まった。

 ドヴァーさんの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。


「……はいっ! 喜んでっ!!」


 ドヴァーさんが最高の笑顔を作って、俺の胸に飛び込んできた。

 それは今まで見てきた中で、一番美しく、愛しい笑顔。

 そんな彼女を、力一杯に抱き締める。

 顔が近付き、唇が重なった。

 それは長く深い、誓いの口付け。


「幸せに、してくださいね。私の、戦闘員くん」


「当然です。俺の、ドヴァーさん」


 空からは、祝福するように白い雪が舞い降りてきていた。

 その時、背後から「パーン!」とクラッカーの音が響き渡った。


「「「「おめでとうーー!!」」」」


 突然、物陰からアジーンたちが飛び出してきた。


「えっ、か、奏ちゃん!?」


「猛くんたちまで! って、うわっ! なんですかその下手くそな変装!」


 驚く俺たちをよそに、抱き合って喜ぶ奏ちゃんとアジーン。

 猛くんは「やったな、千堂さん!」と笑顔で親指を立てている。

 いつの間にかサンタの格好をした博人くんは、盛大な拍手を送っていた。


「も、もうっ! あなたたちー!」


 ドヴァーさんが真っ赤になって叫ぶが、その顔にはこの上ない笑みが浮かび、瞳は幸せそうに潤んでいた。


 ブラック企業を辞めて、色を失いながらも彷徨い歩いたあの日。

 その果てにたどり着いた悪の組織は、俺にとって世界で一番温かくて、一番熱い場所になった。

 俺の「史上最大の戦い(プロポーズ)」は、こうして幕を閉じた。

 ――けれど、ここからが本当の始まりだ。

 愛する人と、騒がしい同僚、そして最高のライバルたちと共に、これからも毎日は紡がれていく。

 俺たちの新しい旅路は、降り始めた雪のように真っ白で、どこまでも美しく続いていくのだ。


「行きましょう、ドヴァーさん!」


「ええ、戦闘員くん!」


 俺たちは手を繋ぎ、輝く未来へと歩み始めた。

本編はこれにて完結です。

次回からは番外編を少しだけお届けしていきます。

今暫くお付き合いいただけると嬉しいです。

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