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止まらない車輪が動くまで  作者: 空雨 素志


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2/12

第二話 娘


 美穂の葬儀は、雨だった。


 春先の冷たい雨が、葬儀場の屋根を細かく叩いている。


 野上圭司は、黒いスーツのポケットに両手を入れたまま、入口の前に立っていた。


 昨日まで、美穂が死んだという事実が、どうしても現実のものとして感じられなかった。


 十四年前に離婚した元妻。


 長い間、連絡を取っていなかった女。


 それでも。


 昨日、電話越しに聞いた声は、確かに美穂だった。


『十五年前の事故のことなんだけど』


『あなたのせいじゃなかったのかもしれない』


 そして――


『あなたに、会わせたい人がいる』


 あの言葉が、頭から離れない。


「……誰なんだよ」


 圭司は小さく呟いた。


 その答えを、彼はまだ知らなかった。


     *


 葬儀場には、美穂の親族や昔からの知人が集まっていた。


 圭司はその中に、自分の居場所がないことを感じていた。


 元夫なのだから当然だった。


 十四年も前に離婚している。


 美穂がその後、どんな生活をしていたのか。


 誰と付き合い、誰を頼り、どんな仕事をしていたのか。


 圭司は何も知らない。


 いや。


 知らないようにしていたのかもしれない。


 そのときだった。


 祭壇の前に、一人の少女が立っているのが目に入った。


 黒いワンピース。


 肩まで伸びた髪。


 伏せた目。


 年齢は――十四歳くらいだろうか。


 少女は、じっと遺影を見つめていた。


 泣いてはいない。


 ただ、唇を固く結んでいた。


「……あの子」


 圭司は近くにいた親族に尋ねた。


「あの子、誰です?」


 相手は一瞬、言葉に詰まった。


 そして、困ったように答えた。


「美咲ちゃんよ」


「美咲?」


「美穂さんの……娘さん」


 圭司の表情が止まった。


「娘……?」


「はい」


 その言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。


 美穂に娘がいる。


 それ自体は、おかしくない。


 離婚してから十四年。


 その間に、子供を産んでいても不思議ではない。


 だが。


 なぜだろう。


 胸の奥に、嫌な感覚が走った。


「……何歳ですか?」


「十四歳です」


 圭司は少女を見る。


 十四歳。


 その数字が、妙に引っかかった。


 自分と美穂が離婚したのは――十四年前。


「まさか……」


 声が漏れた。


 そのとき、少女がこちらを見た。


 目が合った。


 圭司は息を止めた。


 どこかで見たことがある。


 そんな気がした。


 だが、それがどこなのか思い出せない。


 少女は何も言わず、圭司の前まで歩いてきた。


「野上……圭司さんですか?」


「ああ……」


「母から、聞いていました」


「美穂が?」


「はい」


 少女は少しだけ視線を落とした。


「何かあったら渡してほしいって」


 そう言って、少女は小さな封筒を差し出した。


 圭司は受け取った。


 表には、何も書かれていない。


「これは?」


「分かりません」


「美穂から?」


「はい」


「いつ?」


「ずっと前から」


 圭司の指が止まった。



 美穂から電話があった日。


 そして、美穂が死んだ日。


「君……」


 圭司は少女を見た。


「お母さんとは、昨日会った?」


「はい」


「何か変わった様子はなかった?」


 少女は少し考えた。


「……いつもより、優しかったです」


「優しかった?」


「はい」


 少女は遺影を見た。


「それから……」


「それから?」


「何度も、私の顔を見てました」


 圭司は黙った。


「どうしてって聞いたら……」


 少女は少しだけ笑った。


 悲しそうな笑顔だった。


「『あなたは、会わせなきゃいけない人がいるの』って」


 圭司の背中に、冷たいものが走った。


 ――あなたに、会わせたい人がいる。


 昨日の電話。


 美穂が言った言葉と同じだった。


「その人って……」


 圭司が尋ねる。


 少女は圭司を見る。


「あなたのことだと思います」


 圭司は何も言えなかった。


 少女はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で言った。


「母は、ずっとあなたに会わせたかったんだと思います」


「……どうして?」


「私の父親だから」


 雨音が遠くで響いていた。


 圭司には、その言葉だけが異様に大きく聞こえた。


「……父親?」


「はい」


「誰が?」


「あなたが」


 圭司は少女の顔を見た。


 冗談を言っているようには見えない。


 むしろ、少女自身もこの瞬間を恐れているようだった。


「待ってくれ」


 圭司は首を振った。


「俺には……子供なんて」


「母から聞いてます」


「俺は知らなかった」


「……はい」


「美穂から何も聞いてない」


「はい」


「十四年間……?」


 少女は黙って頷いた。


 圭司の手の中で、封筒がわずかに震えた。


 十四年前。


 美穂と離婚した。


 そのとき、美穂は何も言わなかった。


 ただ、何度も何かを言いかけていた。


 そして――


 別れた。


 あのとき、もし美穂が妊娠していたのなら。


 すべての時間が、意味を変える。


「君の名前は……?」


 圭司は、ようやく尋ねた。


 少女はまっすぐに彼を見た。


「野上美咲です」


 その名前を聞いた瞬間。


 圭司の胸が大きく鳴った。


 美穂が最後の電話で言った。


『あなたに、会わせたい人がいる』


 その意味が、初めて分かった。


 美咲。


 自分の娘。


 十四年間、一度も知らなかった娘。


 圭司は手の中の封筒を見つめた。


 そこには、美穂が最後に残した何かが入っている。


 だが。


 封を開けることができなかった。


 怖かった。


 中に何が書かれているのか。


 そして――


 なぜ美穂は、十四年間も美咲の存在を隠していたのか。


 その理由を知ることが、怖かった。


 圭司は顔を上げ、美咲を見る。


 娘は何も言わず、ただそこに立っていた。


 初めて会ったはずなのに。


 どこか懐かしい。


 その感覚だけが、胸の奥に残った。



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