第一話 美穂
ブレーキが、利かなかった。
何度踏んでも。
何度、強く踏み込んでも。
ブレーキペダルは、何も返してこない。
「……止まれ!」
ハンドルを握る手に力を込める。
前方に車。
その向こうに、交差点。
速度は落ちない。
「止まれ……!」
クラクションが鳴る。
タイヤが路面を叩く。
圭司は必死にブレーキを踏み続けた。
だが――。
止まらない。
「くそっ!」
次の瞬間。
衝撃。
視界が白く弾けた。
金属の潰れる音。
ガラスの割れる音。
そして、人の叫び声。
――違う。
――俺じゃない。
――俺のせいじゃない。
そう思った瞬間。
圭司は目を覚ました。
「……っ!」
全身が汗で濡れていた。
暗い部屋。
荒い呼吸。
圭司はしばらく天井を見つめていた。
時計を見る。
午前五時十二分。
まだ夜明け前だった。
「……またか」
十五年。
同じ夢を、何度見ただろう。
圭司はベッドから起き上がった。
台所へ行き、冷蔵庫を開ける。
水を取り出し、一気に飲む。
手が少し震えていた。
窓の外は、まだ薄暗い。
静かな住宅街。
何も起きていない朝。
それでも圭司の耳には、まだあの事故の音が残っていた。
金属の潰れる音。
ガラスの割れる音。
そして――
あの日、自分が聞いた最後の叫び声。
圭司は目を閉じた。
「……十五年か」
十五年前。
自分は二十五歳だった。
トラックドライバーだった。
そして、いつも乗っていた車両が――
**8号車だった。**
圭司はそれ以上、思い出すのをやめた。
---
朝。
圭司はいつものように仕事へ出る準備をしていた。
現在は、昔とは違う。
もうトラックドライバーではない。
事故のあと、運転を辞めた。
今は管理職だ
十五年前の事故以来、人生は大きく変わった。
それでも、朝になると仕事へ行く。
時間は待ってくれない。
それが圭司の口癖だった。
玄関へ向かおうとした時だった。
テーブルの上の携帯電話が鳴った。
知らない番号ではない。
圭司は画面を見た。
表示された名前を見て、動きが止まった。
――美穂。
十五年前に離婚した妻。
もう何年も、ほとんど連絡を取っていなかった。
「……美穂?」
電話に出る。
「もしもし」
しばらく、何も聞こえなかった。
「美穂?」
かすかな息遣い。
そして。
「……圭司?」
聞き慣れた声だった。
圭司の胸がざわついた。
「どうした?」
「今、話せる?」
「……ああ」
美穂は少し黙った。
何かを迷っているようだった。
「圭司……」
「ん?」
「十五年前の事故のことなんだけど」
圭司の表情が変わった。
「事故?」
「うん」
美穂の声は震えていた。
「あなたの事故」
圭司は何も言えなかった。
十五年前。
自分が人生で一番忘れたい出来事。
「なんで今さら……」
「聞いて」
美穂の声が強くなった。
「あなたのせいじゃなかったのかもしれない」
圭司は息を止めた。
「……何?」
「まだ全部は分からない。でも、私……」
そこで美穂が言葉を止めた。
「会って話したい」
「いつ?」
「明日……」
「明日?」
「うん」
少し間があった。
そして美穂は言った。
「それから……」
「何?」
「あなたに会わせたい人がいる」
圭司は眉を寄せた。
「俺に?」
「うん」
「誰なんだ?」
美穂は答えなかった。
「会えば分かるから」
「美穂、何を――」
電話が切れた。
「……美穂?」
圭司は携帯電話を耳から離した。
画面には、通話終了の文字。
部屋が静まり返る。
圭司はしばらく携帯を見つめていた。
十五年前の事故。
自分のせいではなかったかもしれない。
そして――
会わせたい人。
一体、誰なのか。
---
翌朝。
一本の電話が入った。
警察だった。
「野上圭司さんですか?」
「はい」
「突然で申し訳ありません」
警察官の声は、妙に事務的だった。
「昨夜、女性が階段から転落する事故がありまして」
圭司の胸がざわつく。
「女性のお名前が……野上美穂さんでした」
一瞬。
時間が止まったように感じた。
「……嘘だろ」
「残念ですが……」
圭司は携帯電話を握りしめた。
昨日。
美穂から電話があった。
十五年前の事故。
自分のせいではなかったかもしれない。
そして――
「会わせたい人がいる」
あれが。
美穂の最後の言葉だった。
圭司は立ち上がった。
「事故……なんですか?」
電話の向こうが少し黙った。
「現時点では、事故の可能性が高いと考えています」
「……そうですか」
圭司は答えた。
しかし。
胸の奥に、妙な違和感が残った。
なぜ十五年前の事故を突然話した?
そして――
**「会わせたい人がいる」**
とは、誰のことだったのか。




