第七章 約束
エステルの血は、硝子の上で金色になった。
赤い糸へ試薬を落とす。
王女の保存血へも落とす。
二つの金色は、乾く速さまで揃っていた。
「真正な命札です」
あたしは言った。
「トマの血も?」
「入ってる。糸の染め方も王家の保管庫と一致」
試料の半分は、三法官付きの薬師へ封じて送った。
ノアは硝子板を灯りへ透かした。
「もう一度」
「嫌」
「誤反応は」
「三百分の一。二回目はあんたの血で試す」
ノアは硝子板を置いた。
診療室の奥で、トマが眠っている。
固いパンを二つ食べ、肺の検査中に寝た。
サラは寝台の横で、息子の胸が上がるたび、指を一本ずつ開いていた。
「代命痕を見た朝、トマの名を出しましたね」
「候補は一人だった」
「今は」
「確定。王女の血も、トマの血も入ってる」
「最初から、そう思っていた?」
「候補と確定を同じ欄に書かないで」
ノアは本当に、記録の欄を分けた。
「エステルが自分から作った札は、あたしが見た限り一枚」
金色になった糸を、硝子ごと伏せた。
「トマのものよ」
※ ※ ※
三か月前、エステルは果物を抱えて病院へ来た。
籠ではない。
本人が抱えていた。
林檎が二十。
梨が十五。
葡萄が四房。
「病棟の子供は十二人です」
「足りませんか」
「一人三個でも余る」
「ハンナが、育ち盛りは食べると」
「ハンナの育ち盛りは騎士団」
王女は買い物が下手だった。
警護を二人まで減らし、果物だけを大名行列にして来た。
廊下の奥で、トマは本を読んでいた。
エステルを見る。
「果物屋さん?」
侍従の顔が青くなる。
「王女です」
「王女様が売ってるの?」
「配っています」
「ただ?」
「ただです」
「じゃあ、梨」
エステルがそのまま渡そうとしたので、取り上げた。
「洗ってない」
「皮を剥けば」
「誰が」
王女と侍従が、同時にあたしを見た。
「薬師の仕事じゃない」
「私は刃物が不得手で」
「冠より先に梨の皮を練習しなさい」
結局、あたしが剥いた。
トマは梨を食べながら、城の部屋の数や王様の冠や、王女の宿題について聞いた。
エステルは、使っていない部屋の方が多いこと、冠は首が痛くなること、宿題は終えると増えることを話した。
「病気は治る?」
最後に、トマが聞いた。
エステルがあたしを見る。
「冬を越せないかもしれない」
あたしが答えた。
「死んだら戻れる?」
「代わりになる人がいれば」
「お母さん?」
「嫌だ」
返事はすぐだった。
「お母さんが死ぬなら、ぼくも死んだまま」
エステルは、剥いた梨の皮を見た。
「私が代わりになります」
「やめなさい」
「命札を用意してください」
王女が侍従へ言う。
「あんたは三か月後に戴冠する」
「三月あるなら、この子の薬も探せます」
「見つからなかった時の話をしてる」
「だから、札も作ります」
「いらない」
トマが梨を皿へ戻した。
「王女様、知らない人だもん」
エステルは目を丸くした。
「では、知り合いになりましょう」
「何回で?」
「三回」
「少ない」
「五回」
「考える」
そのあと、エステルは本当に病室へ通った。
三回目、トマが薬で眠っている時に、命札へ血印を押した。
「起きてから聞きなさい」
「起きていたら断ります」
「もう断った」
「死ぬ時には、考えが変わるかもしれません」
エステルは箱を閉じた。
見舞いは、その後も五回を越えた。
トマは最後まで、考える、としか言わなかった。
※ ※ ※
死の五日前、エステルは梨を一つだけ持ってきた。
買いすぎなかったのは、その日が初めてだった。
トマの病室へ、あたしも入った。
彼女の右人差し指は、爪の脇まで黒かった。
「命札を撤回しました」
エステルが言った。
「原本は、今日中に返してもらいます」
トマは梨を受け取らなかった。
「ぼく、死んだら戻らないの?」
「はい」
「五回来たのに?」
「七回です」
「じゃあ、もっとだめじゃん」
エステルが黙った。
「私が、勝手に作りました」
「勝手にやめるの?」
「そうなります」
「王女様、ばか」
トマは梨を枕へ投げた。
当たらず、寝台の下へ転がった。
エステルは拾わなかった。
「すみません」
「いらない」
「梨が?」
「どっちも」
咳が出たので、あたしはエステルを廊下へ出した。
彼女は扉の前に立ったまま、黒い指を袖へこすりつけていた。
「原本、本当に返るの」
「返らなければ、私が保管庫へ入ります」
「国王には」
「まだ。札を壊してから話します」
あたしは寝台の下の梨を拾い、窓辺へ置いた。
トマが腹を空かせたら食べると思った。
※ ※ ※
死ぬ前の晩、調薬室の瓶が三本倒れた。
エステルが、外套の裾を卓へ引っかけたからだ。
「触らないで」
あたしは床へしゃがんだ。
「毒ですか」
「咳止め。混ざると眠くなる」
「では、少し眠いたいです」
笑わなかった。
袖には書庫の埃がつき、黒い指は洗っても落ちていなかった。
「原本がありません」
エステルは倒れなかった一本を両手で持った。
「撤回記録は?」
「窓口で押しました。控えもあります。でも札が残っていれば、術式は動きます」
「トマの具合は悪い」
「あと二、三日だと聞きました」
「昼の見立てよ。今夜になることもある」
瓶を持つ指へ、力が入った。
「夜明けまで待ってください」
「何を」
「父へは言わないで。朝一番に、保管官の代行印を止めます。そのあと三法官へ」
「あんた一人で回る気?」
「ガレスにも手伝わせます」
また、人の予定を勝手に使った。
「夜明けまでよ」
あたしは言った。
エステルは一度頷き、持っていた瓶を元の場所へ戻した。
向きが逆だった。
翌朝、あたしは記録窓口へ行った。
撤回台帳は王家の確認中だと言われ、見せてもらえなかった。
午後、トマの呼吸が急に落ちた。
午後六時七分、死んだ。
午後六時十二分、死亡報告を王宮へ送った。
備考欄には、王家三一七は撤回済み、原本未回収、起動禁止、と書いた。
六時二十五分、王室医務局の受領印が返った。
同じ文を二通書いた。
一通はエステルへ。
一通は、誓約堂を警護するガレスへ。
「本人へ渡すまで帰らないで」
病院でいちばん速い使いを走らせた。
午後七時十分、使いは二通とも持たずに戻った。
戴冠前夜の王宮には、王室医務局を通さない書面を入れられない。国王府が預かった、と言う。
あたしは病院を出た。
七時三十四分、王宮の南門へ着いた。
門は閉じていた。
「王家三一七は撤回済み。原本未回収。鐘へ運ぶな」
鉄扉の覗き窓へ向かって言った。
門番は復唱した。
中へ伝える、と答えた。
エステルにもガレスにも、届かなかった。
病院へ戻ると、次の病室で子供が吐いていた。
二十時三十分、その札が使われた。
二日後、その札の赤い糸が、目の前で金色になった。
※ ※ ※
「国王陛下は、一週間前にトマの予後を聞いています」
あたしはノアへ言った。
「七日以内に死ぬ可能性がある、と答えた」
ノアは、国王が口にした肺という一語の横へ時刻を書いた。
「撤回窓口へ行きます」
「台帳の頁は抜かれてる」
「抜かれた紙は、前後の紙を押します。綴じ糸も替わる」
ノアは立ち上がった。
「王家の書庫は封鎖中よ」
「開けられる王子がいます」
「酔っ払いの?」
「盗みに慣れている方です」
あたしは薬箱を持った。
それなら、少し信用できた。




