第五章 母親
生き返った息子は、三人分の朝食を食べた。
薄い麦粥を二杯。
固いパンを一つ。
干した林檎を四切れ。
まだ欲しがったが、止めた。
死ぬまで病人だった腹に、どれだけ入れてよいか分からない。
「ぼく、死ぬ前も食べてないよ」
トマが言った。
「覚えてるの?」
「覚えてない。だったら、食べてないのと一緒」
九歳の子供は、自分の腹に都合のよい計算をする。
「吐かなかったら、お昼にもう一つ」
「お昼、いつ?」
「鐘が四回鳴ったら」
「さっきから鳴ってる」
「あれは違う鐘」
王宮では朝から捜索鐘が鳴っていた。
旧洗濯小屋の小窓から、清掃係が空き部屋を開けて回るのが見える。
昨夜まで、ここは隠れ場所だった。
今朝は順番待ちの部屋になった。
「着替えるよ」
病院の寝間着を脱がせた。
「また?」
「その青は目立つから」
「リゼ先生がくれたのに」
「返すよ。あとで」
「昨日もいた?」
「いた」
「覚えてない」
復生した者は、死ぬ直前の七日間を失う。
トマは舌で歯の裏についた林檎を探した。
「もったいない」
なくした七日に、王女が一度だけ病室へ来た。
私は洗濯場にいて、会っていない。
帰ると、トマは眠っていた。
何を話したのか、聞けないまま死んだ。
「これ、取っていい?」
トマが左手首の赤い糸を掻いた。
地下堂で命札が砕けたあと、床に残った糸だ。
オルド様は捨てろと言った。
私は前掛けへ押し込み、夜中に何度も指へ絡ませた。
朝になって、自分で持つのが嫌になり、トマへ結んだ。
「痒い」
「取らないで」
「右につける」
「右も痒くなるよ」
「やってみないと分かんない」
新しい服は、洗濯場の見習いが置いていったものだ。
袖が長い。
左手首の黒い輪まで隠れた。
「外でも袖を上げないで」
「暑い」
「上げない」
「どうして?」
「あとで話す」
「あとでって、何回目?」
「数えてたの?」
「途中でやめた」
トマは頬を膨らませ、残った麦粥を匙で集めた。
※ ※ ※
一昨日の午後六時七分。
トマは息を三度吸った。
四度目を吸わなかった。
リゼ先生が胸へ耳を当て、目に灯りを入れた。
「六時七分」
助手が記録した。
昼には、あと二日か三日かもしれないと言われていた。
夕食用の林檎を煮ている間に、二日がなくなった。
リゼ先生は埋葬同意書を寝台の脇へ置いた。
私が署名するまで、椅子から動かなかった。
書けなかった。
やがて助手に呼ばれ、空欄の紙を残して出ていった。
トマの手は、まだ温かかった。
握っている間に、指先から少しずつ冷えていった。
窓が暗くなり始めた頃、オルド大神官が来た。
病室へ黒い箱を置く。
「トマを戻す札があります」
蓋の中に、白磁が二枚あった。
表にトマ・リード。
裏にエステル・セレス。
三か月前、王女が病室で作った命札だった。
私は止めた。
トマも、王女様が死ぬのは嫌だと言った。
王女様は、死なせないために病気を治すのだと笑った。それでも間に合わない時だけ、と箱を閉じた。
「王女様は、今も知っていますか」
オルド様は白磁の血印を見せた。
「ご本人のものです」
「五日前に、病室へ来ました」
「伺っています」
「看護係は、王女様が『札は使わない』と言ったのを聞いています」
「私は同席していません」
「では、王女様へ聞いてください」
「今夜は戴冠前の誓約に入られます」
オルド様は懐中時計を開いた。
「札を使うなら、王宮へ運べるのは今です」
「七日あるでしょう」
「明日から王家の命札は封庫へ移ります。私には、その後を約束できません」
冷えていくトマの手を、両手で挟んだ。
「王女様は、嫌がりませんか」
「命札は有効です」
私は黒い箱を閉じなかった。
※ ※ ※
洗濯物の台車へ、トマを載せた。
汚れた敷布をかける。
吸入薬を二本、前掛けへ入れた。
もう使わないと分かっていたのに、置いていけなかった。
裏口から病院を出たのが午後七時十二分。
王宮の地下堂へ着いたのが七時二十分。
洗濯係の台車を止める者はいなかった。
地下には、オルド様だけがいた。
石台へトマを寝かせる。
「すぐ、戻してください」
「本鈴は八時半です」
「一時間も?」
「王家から指定された時刻です」
誰が指定したのかは言わなかった。
トマの腕が台から落ちた。
戻す。
もう一度落ちる。
青い毛糸を丸め、肘の下へ置いた。
二本の薬瓶のうち、大きい方が床へ転がった。
拾う気になれなかった。
待つ間、私は洗濯場の話をした。
ユリウス王子の赤い上着から、葡萄酒の染みが三度出たこと。
厨房のマルタが、粉袋へ穴を開けたまま運び、廊下に白い足跡を残したこと。
トマはいつも途中で笑う。
その夜は、私の声だけが石壁から返ってきた。
オルド様は音道の鉄板を開けた。
午後八時二十分。
予鈴が鳴る。
思っていたより、小さな音だった。
オルド様はすぐに鉄板を閉じた。
「誰へ知らせる鐘ですか」
「地上の王位継承者へ」
「王女様に?」
返事はなかった。
十分後、赤い糸が鐘の縄へ結ばれた。
白磁が炉へ入る。
「王女様は、眠っているんですね」
私は聞いた。
「急に心臓が止まれば、長くは苦しみません」
オルド様が縄を引いた。
鐘が鳴った。
白磁に亀裂が走り、灰が散った。
トマの背中が石台から浮いた。
水を吐くように咳き込み、息を吸う。
「お母さん」
抱き起こすと、冷たい腕が私の首へ回った。
指が動いた。
服をつかんだ。
「苦しい?」
「お腹、空いた」
笑った。
声の途中から、泣いていた。
「今夜は、外へ出さないでください」
オルド様は床の灰を集めていた。
「王女様は?」
「王家が対応します」
「死んだんですか」
オルド様の包みへ、赤い糸が入りきらず垂れていた。
私はそれを拾った。
「息子を連れて、古い洗濯小屋へ」
もう一度聞けばよかった。
けれどトマが、私の首へ顔を押しつけた。
※ ※ ※
旧洗濯小屋の扉が叩かれた。
一度。
間を置いて、二度。
「王宮清掃部だ。中を確認する」
トマが匙を置いた。
「お医者様?」
「違う」
食器を布へ包み、残ったパンと一緒に袋へ入れた。
裏口の先は干し庭だ。
低い塀を越えれば市場へ出られる。
病み上がりの子供と逃げ切れるとは思わない。
それでも、扉の向こうへは渡せなかった。
もし王女様が命札をやめていたなら。
黒い輪ごと、トマを返せと言われたら。
返す場所などなかった。
「行くよ」
「市場?」
「走れたら、パンを買う」
トマは立ち上がった。
「二つ?」
「一つ」
「生き返ったのに?」
「生き返ったから、ゆっくり食べるの」
裏口を開けた。
朝の光に、トマは目を細めた。
死ぬ前の一か月、ほとんど外へ出ていない。
袖の中で、小さな手を握る。
昨日より、温かかった。
「お母さん」
「今度は何?」
「王女様は、どうして死んだの?」
私は答えず、息子を連れて塀を越えた。




