↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/15

第三章 婚約者

死体を守るのは、簡単だ。


命令を聞かないことはない。


勝手に靴を脱ぐこともない。


生きているエステルを守れなかった私に、今朝与えられた任務はそれだった。


婚姻交渉の間だけ、私はセレス側の近衛と共同で王女警護を任されていた。


復生堂の外には十六人を置いた。


東西の扉に四人ずつ。窓に二人ずつ。屋根と地下口に二人ずつ。


「多すぎます」


リゼが王女の胸を縫いながら言った。


「薬箱を運ぶたび、兵の腰に当たります」


「入ってくる者を止める」


「十六人で?」


「足りなければ増やす」


「では、せめて剣を廊下側へ向けないで。患者より先に私が刺されます」


針を持つ手は止まらなかった。


ノア・ハーグは石台の反対側で、記録板を読んでいる。


「ガレス隊長」


顔を上げないまま言った。


「代命人の審査をします」


隣室には、空の寝台があった。


夜明けまで、ハンナ・モールの遺体が置かれていた場所だ。


椅子へ座ると、ノアは時刻を記した。


「九時十四分。年齢」


「二十七」


「病歴」


「ない」


「過去の復生歴」


「ない」


「扶養している家族」


「いない」


「あなたが死ねば、婚姻条約は成立しません」


「弟を婚姻相手に替える条項がある」


筆先が止まった。


「準備がいいですね」


「外交文書は、人が死んでも使えるように作る」


「停戦は」


「婚姻を外して三十日延ばす案を、今朝、自国へ送った」


「なら、死ななくても軍は止められる」


「評議会は拒む。私が国境軍へ一時後退を命じることはできるが、帰国すれば審理だ」


「何の」


「反逆」


ノアは、反逆、と書いた。


書いたあと、紙の三か所を筆の背で叩いた。


「婚姻。国境。王女殿下の死」


「それが?」


「あなたが死ねば、全部片づく書き方です」


「条約は残る」


「あなたはいなくなる」


「代命とはそういうものだ」


ノアは「僕もです」とは言わなかった。


白衣の袖には、ハンナの血が残っていた。


「昨夜の当直記録を確認します」


記録板が一枚めくられる。


「二十時二十分。地下から予定外の鐘を聞いた」


「ああ」


「何をしましたか」


「東詰めの兵を地下の貯蔵路へ向かわせた。もう一人を国王府へ走らせた」


「あなたは」


「扉を壊した」


戴冠前夜、王位継承者は誓約堂へ一人で入り、日の出まで扉を開けない。


内側の閂とは別に、火事や襲撃の時だけ使う非常外錠がある。


人の声は厚い石扉を通らない。地下鐘の音だけが、壁の音道を上がってくる。


婚姻条約中は、私と国王府が一本ずつ鍵を持ち、二本を同時に回す決まりだった。


私の鍵は、腰にあった。


「兵が地下口へ着くまで、何分ですか」


「急げば八分」


「王女殿下が死ぬまで十分ありました」


「国王府の鍵は来なかった」


「だから扉を?」


「二十時二十一分から、槌で打たせた」


「扉が開いたのは」


「二十時三十六分」


ノアが顔を上げた。


「予定外の鐘だけで、そこまでした理由は」


「二日前、エステルは婚姻を延期し、四十二件の復生を止めた」


二日前のエステルが、地図の上に靴を置いていた。


それを思い出した。


    ※ ※ ※


足ではない。


脱いだ靴だけだった。


「そこは我が国の北部です」


私が靴をどかすと、エステルは椅子の上で膝を抱えた。


「足が痛いのです」


「戴冠式用の靴に慣らすためでしょう」


「女王になるには、先に踵の皮を剥くのですね」


「靴職人を呼びます」


「ガレス。あなたは時々、会話を修理依頼だと思っています」


窓の外では、金の布を抱えた職人たちが大階段を上っていた。


二日後、エステルは女王になる。


その翌日、私と婚姻する。


軍の後退命令は署名を待つだけだった。


「婚姻を延期します」


エステルが言った。


「何日です」


「決めていません」


私は靴から手を離した。


「復生制度を止めました。戴冠後、命札を監査します」


「何枚」


「四十二枚」


「期限が最も近い受命人は」


「二日です」


「家族へ通告は」


「まだです。先に知らせれば、書類が消えます」


「二日で四十二件を見るのか」


「手分けをします」


「誰と」


エステルは窓の外を見た。


人は大勢いた。


彼女の手伝いを命じられた者は、まだ一人もいなかった。


「隣国は、代命契約で利益を得ています」


彼女は別の話を始めた。


「婚姻直後に止めれば、取引に使ったと思われます。先に軍を退かせてください」


「条約なしで?」


「前衛だけなら、訓練の名目で動かせます」


私が以前教えた抜け道だった。


「評議会の許可は間に合わない」


「あなたの命令なら間に合います」


伝令が国境へ着くまで九時間。


前衛の撤収に十八時間。


評議会が私を反逆者と決めるのには、おそらく二日。


彼女の計算には、私の帰国後だけがなかった。


「私は便利だな」


エステルがこちらを見た。


「怒っていますか」


「軍を勝手に動かし、婚姻を失い、帰国後は鎖につながれる。それを怒らず聞ける男を選んだのか」


「あなたなら、兵を死なせません」


「また、それか」


エステルは口を閉じた。


卓の端に、戴冠式用の焼き菓子があった。


王冠の形をしている。


彼女は一つ割り、尖った方を口へ入れた。


すぐに眉を寄せた。


「甘い物は嫌いなのでは」


「腹が立つと、お腹が空きます」


残りを差し出してくる。


「いらない」


「婚約者でしょう」


「残飯係ではない」


「先ほどまで、どんな役でも果たす顔をしていました」


受け取った。


砂糖が歯に痛いほど甘かった。


「ガレス」


エステルは裸足のまま、地図の北部を避けて立った。


「女王でない私と会っていたら、婚姻しましたか」


「会っていない」


「仮の話です」


「軍人は、いない人間と婚姻しない」


「そうでした」


彼女は笑わなかった。


床の靴を拾う。


踵の内側に、薄く血がついていた。


足を入れようとして、エステルは息を止めた。


私は膝をつき、留め金を一穴緩めた。


「靴職人は呼ばないのですか」


「これは応急処置だ」


「会話にも、それができればよいのに」


「今日は帰ってください」


「話は終わっていない」


「足が痛いのです」


今度は修理を頼まれたのではないと分かった。


それでも私は、靴職人を呼んだ。


    ※ ※ ※


「消えた命札については」


ノアの声で、空の寝台へ戻った。


「知らなかった」


地下へ出した兵は、二十時二十八分に貯蔵路の鉄扉へ着いた。


内側から鎖が掛かっていた。


国王府へ向かった兵は、鍵を持たずに戻った。誓約を破る許可は出ない、と言われた。


二十時三十分、扉はまだ半分しか割れていなかった。


二十時三十六分、中へ入った。


エステルは倒れていた。


「そのあと、国王府の兵に拘束された。外国人で、現場の扉を壊した容疑者だった」


「いつまで」


「今朝、あなたが鐘を鳴らし終えるまで」


青い封書は、上着の裏に残っていた。


私はノアへ渡せと三度要求した。


三度とも、復生が終わるまで外部との接触を禁じる、と記録された。


ノアは記録板へ書いた。


「現時点で、代命人として受理しません」


「健康上の問題はない」


「審査票の三つを、死んで一度に消そうとしている」


「中間報告のあとには国王命令が出る」


「二日あります」


腹の立つ男だった。


昨夜、私になかった時間を、勝手に作ろうとしていた。


私は上着の内側から、青い封書を出した。


封蝋は割ってある。


「エステルから、死ぬ前日に預かった」


無事に戴冠すれば燃やす。


死んだ場合は、復生の鐘が鳴る前にノア・ハーグへ渡す。


渡す前に戻っていたら、本人へ返す。


そう指示されていた。


「条件は昨夜、果たされた。私は間に合わせられなかった」


中身を、空の寝台へ並べる。


一枚目は、エステルの署名と血印がある復生拒否書だった。


どの代命人による復生も望まないこと。掌の文と一緒に確認すること。戴冠や婚姻を理由に無効としないこと。


青い封書とは別に、紙を一枚置いた。


ハンナ・モールを昨夕四時に呼び出した国王府の命令書。


目的欄だけが空白だった。


エステルが死ぬ、四時間半前だった。


「今朝、ハンナの妹が厨房の炉の横で見つけた」


マルタは復生堂の裏口で、拘束を解かれた私を待っていた。王宮の兵へ渡せばなくなる、と紙を押しつけた。


「本人以外は開けるなと書かれていた。そこは守った」


「ほかは読みましたね」


「隣国の使節と評議会へ、今朝写しを出した。王宮だけに置けば燃える」


ノアは拒否書を一度読み、裏返した。


「封書を預けた時、何と聞きましたか」


「女王になれなかった時のための書類だと」


「開けようとは」


「しなかった」


「なぜ」


答えは簡単だった。


「戴冠まで生かせば、使わないと思っていた」


ノアが青い封書を閉じた。


裂けた封蝋に、今朝つけた私の爪跡が白く残っていた。


石台の方から、糸を切る小さな音がした。


リゼが、エステルの胸を縫い終えたのだろう。


私は立たなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。