第二章 五人
ハンナの遺体は、復生堂の隣の小部屋へ移された。
エステル王女は、石台に残された。
国王は僕に着替える時間をくれなかった。
血のついた白衣のまま、窓を板で塞いだ会議室へ連れていかれた。
白衣についた血は、一滴だけだ。
人を一人殺すには、それで足りた。
「息が詰まるな」
ユリウス王子が、卓上の水を飲み干した。
二十歳。金色の髪と目元は姉に似ている。
違うのは、人を見る角度だった。
エステル王女は正面から見る。
弟は、いつも少し横から見る。
「板を外したらどうだ。姉上はもう風邪を引かない」
「殿下」
ガレス・ヴァンが一言だけで止めた。
隣国王の弟で、国境軍の指揮官。そして王女の近衛隊長。
灰色の制服には皺一つない。眠っていないはずなのに、瞬きの間隔まで崩れていなかった。
「私は悲しんでいるんだぞ」
「朝から酒臭い人の台詞ではないです」
リゼが鼻を押さえた。
「素面だと、もっと迷惑をかける」
「胸を張らないでください」
大神官オルドは、二人から離れて座っていた。
銀の法衣。白い髭。柔らかな口元。
右手だけが包帯に包まれている。
復生堂では袖に隠れていた。
扉の脇には、若い復生官が立っていた。
エリク・ヴェル。
神殿ですれ違えば必ず二度頭を下げる男だ。今朝は三度目の途中で僕の白衣を見て、動かなくなった。
書類の束を抱いたまま、親指で紙の角を潰している。
「全員いるな」
ラウル国王が入ってきた。
誰も立たなかった。
国王も咎めず、上座へ座った。
紙を一枚、卓へ置く。
「エステルの死は、当面は重病として伏せる。漏らした者は反逆罪に問う」
「死はずいぶん重い病気だ」
ユリウス王子が言った。
国王は返事をせず、紙へ印を押した。
赤い蝋に、王冠と七つの星が沈む。
右端の星だけ、先が欠けていた。
「ノア・ハーグ。王女の死を調べろ」
「殺人捜査は王都警備隊の仕事です」
「警備隊へ知らせれば、昼前には魚市場まで届く」
「僕には逮捕権も、捜索権もありません」
「今、与えた」
「経験もありません」
「薬師を使え」
リゼが僕より先に答えた。
「嫌です」
「僕も頼んでいません」
「二人とも使う」
国王はエリクへ顔を向けた。
「命令書の写しを三法官へ。別々の使者で送れ」
エリクの腕の中で、紙が鳴った。
「三通とも、ですか」
「王族の血を捜査対象にする。規定どおりだ」
命令書の下には、細い控えが三枚ついていた。
三法官がそれぞれ受理印を押せば、証拠目録に載った物は、その日の日没まで王命でも動かせない。
王家の証拠を、王から一日だけ遠ざけるための書式だ。
裏面には、非常保全の欄がある。
王族殺害の物証を三法官が認め、王位継承者と大神官が連署すれば、遺体と命札を封じ、鐘へ三つの鉄錠を日没まで掛けられる。
封を実力で破った王族は三法官がその場で拘束できる。国王なら、拘束中の王命には王位継承者の副署が要る。
五人分の署名欄は、まだ空いていた。
「一枚でも紛失したら、おまえが探せ」
「はい」
エリクは今度こそ紙の角を折った。
「二日後、見つけたものをすべて持ってこい」
国王が僕へ言った。
「犯人と、エステルが復生を拒んだ理由を見つけろ。次の復生は、その報告を見て決める」
リゼの椅子が鳴った。
「胸に嫌だと書いてあったでしょう」
「理由を見ずに終わらせる気はない」
「理由が気に入らなかったら?」
「戻して、本人から聞く」
リゼが立つ前に、ガレスが言った。
「次は、私が代命人になります」
卓の下で、ユリウス王子の靴が止まった。
「エステルが戻れば、婚姻条約は結べます。国境の兵を退かせられる」
「あんたは死ぬのに?」
「私は弟です。兄には子がいる」
ガレスはリゼを見なかった。
帳簿を読み上げるような声だった。
「鐘の前なら撤回できます」
僕は言った。
「命札の赤糸を切れば、あなたは死なない」
「切らない」
「僕は鐘を鳴らしません」
国王は僕ではなく、扉際のエリクを見た。
エリクは書類を胸へ引き寄せた。
「復生官の配置は神殿が決めます」
オルドが穏やかに言った。
庇ったのが僕なのか、神殿の権限なのかは分からなかった。
「なら、大神官が配置しろ」
国王は立った。
「エステルが戻るまで、代命人は探す」
ユリウス王子が空になった杯を傾けた。
一滴も落ちなかった。
「その前に、確認します」
僕は記録板を開いた。
「王女殿下の胸には代命痕がありました。昨夜八時半、殿下を代命人とする命札が使われています」
「姉上は、誰に命をやった?」
ユリウス王子の声から、酔いが消えた。
「それを調べます。王族の命札を保管しているのは」
「国王、王位継承者、王家付き大神官、保管官です」
オルドが答えた。
「保管官は病で休んでいます。代行は王女殿下でした」
「扉の鍵は私も持っている」
ガレスが言った。
リゼには、王族の血と医療記録へ触れる機会がある。
この部屋に、機会のない者はいなかった。
単独で三つの錠を開けられる者はいない。
だからといって、この場の誰か一人を外すこともできなかった。
「全員、調べます」
ユリウス王子が笑った。
「父上もか」
「陛下も含みます」
ラウル国王は、欠けた星の印を僕の前へ滑らせた。
「好きにしろ」
*
王家の命札保管庫は、会議室から地下二階にあった。
扉は三重。
国王の印。
大神官の鍵。
王位継承者の血。
オルドが鍵を回した時、包帯の端がずれた。
掌まで赤く腫れている。
「香炉へ触れました」
リゼに聞かれる前に、彼は言った。
最後の扉には、保存されていたエステル王女の血を使った。
死んだ本人の血でも、錠は開いた。
中の棚には、黒い箱が並んでいた。
箱の表に代命人となる王族の名、その下に命を受ける者の名がある。
ラウル国王の箱は三つ。
ユリウス王子は一つ。
エステル王女の棚だけ、埃の色が四角く違っていた。
箱が一つ、ない。
オルドが台帳を開く。
百十八頁の次は、百二十頁だった。
紙を切った毛羽立ちはない。
糸の穴が、そこで一度ずれている。
頁を抜いたあと、綴じ直したのだ。
「箱を持ち出して、台帳も直した」
僕が言うと、オルドは首を振った。
「昨夜、王宮の復生鐘は鳴っていません。隠して鳴らせる場所もない」
ガレスの右手が、腰の鍵束を押さえた。
銀の鍵の間に、一本だけ黒い鉄鍵がある。
「その鍵は?」
「古い貯蔵路のものだ」
「今、なぜ隠したんですか」
ガレスは鍵束から手を離した。
しばらくして、黒い鍵を一本外す。
石台へ置くと、乾いた音がした。
「昨夜、エステルが死ぬ十分前に鐘を聞いた」
「どこから」
ガレスは靴の先で、床を一度叩いた。
「この下だ」
返ってきた音は、石の床にしては深かった。




