第一章 拒否
人を一人殺しておいて、ノア・ハーグは記録板へ字を書いていた。
丁寧な字だった。
それが余計に腹立たしい。
「その板、頭に叩き込んでやろうか」
あたしが言うと、ノアは顔を上げた。
「記録が読めなくなります」
「あんたの頭が悪くなるだけよ」
「変化は少ないかもしれません」
「冗談?」
「違います」
本当に違うらしい。
こういう男は嫌いだ。
殴ったら、殴られた時刻から先に書くのだろう。
あたしは胸倉から手を離した。
床ではハンナが、石台ではエステルが死んでいる。
国王は娘の名を何度か呼び、大神官と復生堂を出た。もう一枚の命札を作る相談だろう。
「ハンナを台へ」
「そこは王女殿下の復生台です」
「床で胸を開けろっていうの?」
「別の台を運ばせます」
「王女の死を知る人間を増やして?」
ノアは扉を見た。
呼びに行かなかった。
二人でハンナを持ち上げ、エステルの隣へ置いた。
軽い。
昨日まで、この腕で粉袋を運んでいたはずなのに。
「灯り」
ノアが壁の燭台を動かす。
あたしはハンナの瞼を開いた。瞳孔は動かない。首にも手首にも脈はない。
胸元を緩める。
左の乳房の上に、白い輪が浮いていた。
「代命死。心臓だけ止まってる。傷はない」
ノアの筆が動く。
「書かなくても、あんたの鐘で死んだことは消えない」
筆先が、紙へ小さな染みを作った。
あたしはハンナの手を取る。
爪の間に小麦粉。右の人差し指に、昨日できたばかりの火傷。呼び出される直前まで炉を使っていた。
マルタは、姉が仕込んだ生地を見つけただろうか。
「ハンナは終わり。次」
エステルへ向き直る。
ノアが記録板を置いた。
「昨夜の診断は、あなたが?」
「そうよ」
「死因不明」
「腹まで切らせてもらえなかったからね」
「毒物は」
「口、鼻、目に変色なし。吐いた跡もない。否定はまだ」
「外傷は」
「見つからない。首も頭も綺麗。心臓は止まってる」
「死亡推定時刻は、昨夜の八時半。前後二分」
「読めるなら、手を貸して」
エステルの右手を持たせた。
硬直は始まっているが、指はまだ開く。
右の人差し指。その爪の下に、青い粉が詰まっていた。
「誓約堂の藍砂。水で溶いて書く。乾けば表面は薄くなるけど、爪と皮膚の溝には十日ほど残る」
「王女殿下が書いた」
「右の指で、左の掌に」
組まれていた左手をほどく。
わたしを、生き返らせないでください。
最初の文字は濃い。最後の二文字は、指が滑って線の端が割れていた。
「死後に、誰かが指を持った可能性は?」
「ある」
ノアがあたしを見た。
「何よ」
「否定すると思いました」
「友達を信じる仕事じゃないの」
死後硬直の前なら、死人の指で字は書ける。爪へ顔料も押し込める。
ただし、時間が合わない。
「遺体を見つけたのが八時三十六分。あたしが入ったのが九時十二分。そのあとなら、文字の溝に水分が残る」
「発見前なら」
「誓約堂は内側から施錠。窓なし。ガレスが近衛用の非常錠を開けた時、中にはエステルしかいなかった」
「隠し通路は」
「壁は診てない。あんたが調べて」
ノアは掌へ顔を寄せた。
「本人が書いた可能性が高い」
「そう言ってる」
「確定はしていません」
「近い。息がかかる」
ノアが離れた。
あたしはエステルの指を閉じた。
掌には、まだ空いているところがある。
犯人の名くらい書けた。
理由も、一語なら入った。
エステルはどちらも残さなかった。
「胸を見ます」
寝間着の紐へ手をかけると、ノアが目を逸らした。
「死人に恥ずかしがらないで」
「王女殿下です」
「死体よ」
「両方です」
衝立を動かした。
ノアのためではない。灯りを近くへ寄せると、外から影が見えるからだ。
寝間着を開く。
昨夜は上から触れることしか許されなかった胸に、白い葬送粉が塗られていた。
「検死前に?」
衝立の向こうからノアが聞く。
「国王が戴冠衣へ着替えさせろって急がせた。死因より見た目が先だったのよ」
水へ浸した布で、鎖骨の下を拭う。
白い肌が出る。
二度目で、左胸の下に細い線が現れた。
指で押しても消えない。
輪になっている。
ハンナの胸と同じ形だった。
古さだけが違う。
「ノア。来て」
「検死中では」
「目を閉じて歩けば?」
衝立から顔だけ出した。
白い輪を見た瞬間、目を閉じるのを忘れたらしい。
「代命痕」
「九時間くらい前」
「王女殿下は、誰かの代命人として死んだ」
毒も刃物も、誓約堂へ入る必要もない。
命札を別の鐘へ結び、鳴らせばいい。
ノアが左の手袋を外した。
手首を、途切れない黒い輪が一周している。復生した人間にしか残らない痕だ。
「昨夜、誰かが戻った」
彼は手首を隠さなかった。
「八時半。王女殿下の心臓が止まった時に」
あたしは、九時間前に書いた死亡記録を思い出した。
「一人、候補がいる」
「誰ですか」
「トマ・リード。九歳。昨日の六時七分に死んだ」
エステルは三か月前、その子を受命人にして、自分の血を命札へ入れた。
五日前に撤回したが、原本は戻っていない。
「それを先に」
「代命痕は今見つけたの。候補と確定は違う」
「その人間を見つける」
「命札の残りも」
「鐘も」
あたしはエステルの寝間着を戻した。
掌の青い字は、もう遺言に見えなかった。
罠が閉じる前に書いた警告だ。
「あんた」
ノアを見る。
「ハンナのことで自分を軽くしたいなら、邪魔」
「軽くはなりません」
「じゃあ、何をするの」
「国王が次の命札を作る前に、昨夜の受命人を探します」
記録板を取り上げた。
「一つ条件。命令を待たないで」
「捜査命令は必要です」
「次に鐘を鳴らしたら殴るって意味」
「一度目は、まだ殴っていません」
「そこから書くな」
復生堂の外で、朝の鐘が鳴った。
王女の死も、ハンナの死も、まだ国民は知らない。
けれど昨夜まで死んでいた誰かが、もう王都の朝を歩いている。




