序章 復生
王女を生き返らせるために、僕は一人の女を殺した。
女の名はハンナ・モール。
六十四歳。元は王女の乳母で、今は王宮の厨房でパンを焼いている。
まだ死んではいない。
僕の前で、椅子に座っていた。
「ねえ、復生官さん」
ハンナは僕を見上げた。
「今からでも、朝飯を食べてきちゃ駄目かい?」
「駄目です」
「最後の食事くらい、好きにさせておくれよ」
「胃に物が入ると、死亡時刻の判定に誤差が出ます」
「死ぬのは、鐘を鳴らした時だろう」
「その前後も記録します」
「あんた、女にもてないね」
知っている。
僕は答えず、命札を持ち上げた。
掌より少し小さな白磁が二枚、赤い糸で綴じられている。
表には、受命人エステル・セレス。
裏には、代命人ハンナ・モール。
エステル王女の血は、王家が毎年保管する保存血から採られていた。死者は命札へ署名できない。鐘が鳴ると、死者は死ぬまでの記憶を持ったまま、反響板を通る声を聞き、帰るかどうかを決める。帰って最初の息をした時、直前の七日間が失われる。
ハンナの側には、今朝押した血印と、少し右へ傾いた署名がある。
「代命の確認をします」
「さっきも聞かれたよ」
「僕からは初めてです」
「役人は、同じ話を人だけ替えて聞くのかい?」
「僕の前で撤回できます」
ハンナの口が閉じた。
復生堂には、僕たちのほかに四人いた。
白い石台に横たわるエステル王女。
父親のラウル国王。
大神官オルド。
王室薬師のリゼ。
全員が、ハンナの返事を待っている。
「私が死ねば、あの子は帰ってくるんだね?」
ハンナが尋ねた。
石台の上で、エステル王女は胸に両手を組まされていた。
白い寝間着。金色の髪。閉じた瞼。
眠っている人間の顔には、起こされた時の顔がうっすら残る。
死人にはない。
「復生できる状態です」
僕は言った。
「殿下が亡くなったのは、昨夜の八時半。今日の日没が一日目の終わりになります。七回目の日没まで、あと六日半です」
「六日あるなら、帰るんだね?」
「殿下が望めば」
復生は、死んだ者と生きた者の場所を替える。
死者が帰らなくても、差し出した側の心臓は止まる。
ハンナは石台ではなく、王女の左手を見ていた。
組まれた指の下から、掌が覗いている。
青い文字があった。
わたしを、生き返らせないでください。
昨夜、遺体が見つかった時から消えていない。
「エステルの字です」
リゼが言った。
「爪にも藍砂が残ってる。本人が書いたと考えるのが普通です」
「死後に手を動かされた可能性がある」
国王は娘を見たまま答えた。
怒鳴らない声の方が、よく通った。
「復生を妨げたい者なら、そうする」
「死人の指で、これを一文字ずつ?」
「戻った本人へ聞けば済む」
リゼが国王へ近づいた。
オルドが、その間へ入る。
「薬師殿。まずは儀式を」
「まず一人死ぬんですよ」
リゼは僕を指した。
「あんたも見えてるでしょ」
「見えています」
「じゃあ止めて」
命札を見る。
白磁に欠けはない。糸も切れていない。ハンナは成人で、酒も薬も入っていない。撤回の記録は届いていない。
掌には、拒否がある。
手順書のどこにも、どちらを信じろとは書かれていなかった。
「王女殿下が戻らなければ、今日の戴冠は行えない」
国王が言った。
「婚姻条約も止まる。国境では両軍が動いている」
「それを、この人の心臓に載せるんですか」
「ハンナは望んでいる」
また、全員が彼女を見た。
小柄な老女だった。
白い髪を後ろで丸め、厨房の茶色い服を着ている。指の節には古い火傷があり、爪の脇まで小麦粉が入り込んでいた。
ハンナは膝の上で、右の親指だけを擦っていた。
「私は、あの子が生まれた時から知ってるんだ」
乳を飲むのが下手だったこと。
祝いの菓子を甘すぎると言って厨房へ返したこと。
戻された菓子を妹のマルタが全部食べ、三日寝込んだこと。
「あの子は、人の話を聞かない。自分で決めたら、痛い靴でも歩いていく。だから、あの文字も本物かもしれない」
「それなら」
「死んだ娘が馬鹿なことを言ってるなら、生き返らせてから叱る。私はそうしたい」
「生き返っても、あなたは叱れません」
リゼの声は低かった。
「その時は、あんたが代わりに叱っておくれ」
ハンナは僕へ向き直った。
「復生官さん。私は決めたよ」
唇は乾いていた。
右の親指は、まだ動いている。
「最後の確認です」
「何度目だい」
「これで終わりです」
「そうかい」
「ハンナ・モール。あなたは、自分の命をエステル・セレスへ渡すことを望みますか」
「望むよ」
「殿下が帰還を拒んでも、あなたは死亡します」
「聞いた」
「赤い糸を切れば、今なら撤回できます」
ハンナは糸を見た。
指を伸ばせば届く。
伸ばさなかった。
「早くおやり。腹が減ってきた」
僕は命札を鐘へ運んだ。
赤い糸を縄の留め具へ結ぶ。
鐘は、引いた者の資格を見分けない。だから、引いてよい人間を法律で決めている。
今ここで資格を持つのは、僕とオルドだけだった。
表の名を読み、裏の名を読む。
床の二つの円へ、死者と代命人の血を一滴ずつ落とした。
白い線が伸び、二人の身体を結んだ。
ハンナの親指が止まる。
僕は縄を引いた。
低い音が、腹の底を通り抜けた。
白磁へ亀裂が走る。
ハンナの身体が傾いた。
椅子から落ちる前に、リゼが抱き止めた。
赤い糸が焼け、白磁は灰になる。
王女の胸は動かない。
一息。
二息。
十まで数えた。
リゼがハンナの首へ指を当てる。
「死んでる」
国王が石台へ近づいた。
「エステル」
王女は答えない。
「聞こえているのだろう。戻れ」
掌の文だけが残っていた。
わたしを、生き返らせないでください。
時計を見る。
午前六時三分。
僕は記録板の儀式結果へ、失敗と書いた。
リゼが僕の胸倉をつかむ。
「失敗じゃない」
顔が近かった。
泣いてはいない。
「あんたが殺したの」
記録板の下に、執行者の欄がある。
そこへ、自分の名を書いた。
ノア・ハーグ。
王女は生き返らなかった。
死人が一人、増えただけだった。




