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第九章 撤回

エステルの爪から、黒い石が出た。


砂より細かい欠片だった。


リゼが右人差し指の脇へ油を落とし、薄い刃で掻き出す。


死後に身体を洗っても、爪と皮膚の間へ入ったものは残る。


「葬送粉じゃない」


白い皿の上で、黒い粒だけが光った。


僕は書庫から持ち出した撤回印を、試験布へ押した。


命札の撤回に使う黒泥には、砕いた黒曜石が混ぜてある。


二つへ薄い酢を落とす。


銀色の筋が浮いた。


「一致」


リゼが言った。


「似た印泥の可能性は」


「王国で黒曜石を混ぜる公印は、これだけ。まだ言うなら、あんたの爪も剥がして比べる」


「言いません」


ユリウス王子は、検死台の横で姉の手を見ていた。


昨夜から同じ服だ。


酒の匂いはなく、肩に濃青の糸がついている。


「姉上自身が撤回印を押した」


「少なくとも、死の五日前に触れています」


「頁の裏にも黒印が残っていた」


「はい」


「なら、撤回した」


僕は検査結果を記録した。


否定するための別の可能性は、もう書かなかった。


「それなのに、なぜ札は動いた?」


王子が聞く。


「撤回した札を、誰かが壊さず持っていたからです」


「頁まで抜いて」


「はい」


リゼがエステルの指を布へ戻した。


「それで、エステルを殺した」


「はい」


言ったあと、時刻を書いた。


午前零時四十一分。


ユリウス王子は姉の手から目を離さなかった。


「父上の印と、地下の欠片は?」


僕は捜査命令書を開いた。


ラウル国王が僕へ渡した原本だ。


赤い封蝋には、王冠と七つの星。


右端の星が欠けている。


地下堂の水時計脇で拾った欠片を、透明な板へ挟み、上へ重ねた。


欠けた先の斜線。


星と王冠の間隔。


王冠の左側にある、針ほどの傷まで重なった。


同じ印面だった。


「自分で捜査令へ押した印が、比較資料になるとはな」


ユリウス王子が言った。


「父上も親切だ」


「印を使える者は陛下だけではありません」


「私印だぞ」


「殿下は昨夜、王家の封鎖書庫へ入りました」


「窓からだ。印は使っていない」


「侵入したことは否定しないんですね」


「散歩だと言っている」


廊下を走る靴音がした。


扉を三度叩き、ベン・コールが入ってきた。


兜をかぶっていない。


右手に通行簿、左手に消火砂の袋を持っている。


「書庫が燃えています」


「人は」


「残っていません。燻蒸係を一人入れた記録があります」


「入れたのか」


ユリウス王子が立つ。


ベンは通行簿を開いた。


午後十一時五十二分。


書庫の虫害処理。


王室文書局の命令番号と、燻蒸係の署名。


「命令書がありました。火鉢を運び、半刻で出ると言った。出た記録がないので見に行きました」


「男は?」


「別の窓から消えています」


「窓が多すぎる」


「殿下が使った窓です」


ベンは自分の署名欄へ指を置いた。


「私は命令番号を写しました」


火を消したいのか、自分を守りたいのか分からない顔だった。


おそらく両方だ。


僕たちは書庫へ走った。


廊下の曲がり角から、黒い煙が床を這っている。


夜警兵が砂袋を回し、扉の内側へ投げ込んでいた。


燃えているのは、撤回簿の棚だった。


棚の下に油壺が割れ、細い麻紐が扉近くまで伸びている。


先端には、燃え尽きた短い蝋燭。


誰かが火のつく時刻を置いていった。


「王家三一七の台帳は」


リゼが叫ぶ。


僕は持っていた金属箱を上げた。


昨夜、三法官の証拠封をつけて運び出している。


「中央の撤回簿は?」


ベンが首を横へ振る。


棚の上段が崩れた。


火の粉が廊下へ飛び、ユリウス王子の肩へ落ちる。


リゼが薬箱から濡らした布を出し、叩き落とした。


「姉上の証拠に焼かれるところだった」


「喋ってないで砂を運んで」


王子が袋を担いだ。


僕も列へ入った。


砂袋を受け取り、投げる。


三つ。


四つ。


五つ目で、撤回簿の棚が内側へ倒れた。


炎は低くなったが、紙は黒い塊になった。


ベンが通行簿を胸へ入れる。


自分の首と、火をつけた者の署名が同じ場所に入った。


「国王陛下へ報告しますか」


リゼが聞いた。


「報告します」


「印も、肺も、受領印も?」


「全部を証拠箱へ入れてから」


ベンが通行簿の間から、薄い控えを二枚出した。


「火の命令番号を照会した時、同じ綴りにありました」


エステルが死んだ日の午前八時四十分。


中央法官との面会申請。


正午十二時十分。


ガレスとの面会申請。


どちらにも、国王府の不許可印があった。


理由は、戴冠前の隔離。


本人へ届けた署名はない。


国王の名を口で決めるつもりはなかった。


僕は煙のない廊下まで戻り、記録板を開いた。


調査対象の最後へ一行を足す。


ラウル・セレス。


午前一時三分。


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