【番外編】第1話 聖女の独白 前編
「ごめん、好きな奴がいる」
黒髪の青年はそう言った。申し訳なさそうにするでもなく、ただ淡々と。
白髪の女性——聖女イレーナは目を伏せた。身に纏った白いワンピースが視界に入る。今日の祭りのために村で買った刺繍入りのワンピース。
「……そう」
彼女は呟くようにそう言った。他に何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
隣に座る彼は、それ以上何も言わなかった。
少し遠くから、愉快な音楽と人々のざわめきが聞こえる。二人のいる街の高台からは、橙色の光に輝く街が見えた。
ただ今は、それも全部滲んで見えた。
黒髪の青年——勇者アロンと聖女イレーナの出会いは五年前に遡る。アロンは12歳、イレーナは14歳の頃の話だ。
勇者の仲間として王都で彼を待っていたイレーナは、彼を見て酷く驚いたことを覚えている。
女神に選ばれたという彼は、これっぽちも剣やら鎧やらが似合わない少年だった。
少し長めの黒髪に、中性的な線の細い顔立ち。イレーナよりも背が低く、見た目だけでは可愛らしい少女のように見えた。
もう何百年も姿を現さなかった女神が大陸中にその声を響かせて、アロンを勇者に選んだ。
そんな彼はどんなに勇ましい少年なのだろうか、当時の王都は勇者が王都にやってくるのを今か今かと期待していた。それはイレーナも同じだった。
だから、なんとも愛らしい少年がやってきたときは拍子抜けしてしまったのだ。
「よろしくお願いします、イレーナさん」
そう言って辿々しく挨拶をする彼は緊張しているようだった。彼は王国の端にある山奥の小さな村出身らしい。突然女神に名指しで勇者として選ばれた挙句、魔王を倒しに向かって世界を救えだなんて、すぐに受け入れろというのは酷な話ではある。
イレーナは驚きの後に、哀れみの気持ちを持った。
彼女は、屈強な騎士たちに囲まれながらもまっすぐに背を伸ばして立っている小さな勇者の前で優しく微笑んだ。
「よろしくね、アロンくん」
彼女が纏っているのは神官の旅装束。彼女も神殿の代表として、勇者の仲間になるのだ。後方支援がメインとはいえ多少の戦闘には自信がある。
その時点で勇者アロンの仲間として王都に呼ばれていたのは、大魔導士オーレンドルフに、弓使いロビン。
しかし、大魔導士オーレンドルフは杖もついているヨボヨボのおじいさんだった。動きは鈍いし、前線で戦えるようには見えなかった。
しかも、頼りになりそうな弓使いのロビンは王都への呼び出しに応じず、先の街で合流することになっていた。
ここにいる中で動けるのは自分しかいない。彼はまだまだ小さな少年なのだ。イレーナは自分が守らねばと気を引き締めた。
「これから冒険に出るなんて怖いかもしれないけど、ちゃんとお姉さんが守ってあげるわ」
イレーナはそう言って、彼を安心させるように胸を張った。
それから、彼らは共に長い長い旅をした。
「イレーナさん」
一年後、三人は大陸を横断して様々な国を渡り歩いた。最初の頃は、アロンもイレーナも実戦ではこれっぽちも役に立たなかった。いざ生きた魔物と対峙し、闘うのは人相手に訓練を積んでいるのとは全く違った。
一方で、イレーナが動けるか心配していた魔導士オーレンドルフが主戦力となった。彼はその場を一歩も動くことなく魔術で魔物たちを払い退けていた。
若い頃は魔導騎士団に所属していたそうで、彼はアロンに剣術、イレーナに後方支援の戦い方を教え込んだ。一年もすれば、二人は一端の冒険者並みに闘うことができた。
「イ、イレーナ」
二年後、ようやく弓使いのロビンと合流した。彼は、未だ敬称付きで呼び合っているイレーナたちに、堅苦しいのは無しだ!と呼び捨てを強制させた。最初は歳上の彼らを呼び捨てにすることを躊躇していたアロンだが、それも慣れれば一瞬だった。
そのおかげでお互い礼儀として引いていた一線を超えて、本当の仲間になれた気がした。前よりもお互いのことを信頼できるようになっていた。
イレーナよりも三つも上のロビンは、旅に慣れていて近道を見つけたり、道中の村々との交渉にも長けていた。おかげで、それ以降の旅はぐっと楽になった。
「イレーナ!」
三年後、魔界に近づくにつれて、魔族との闘いは過酷になっていった。アロンを筆頭に皆、大きな傷を負うことが増えた。その度にイレーナは彼らの傷を癒す。それでも皆、死にかけたことなんて何度もあった。
後方支援に徹していたイレーナも戦闘に巻き込まれるようになった。戦いに余裕が無くなると、救えない人々も増えた。イレーナは何人も自分の腕の中で冷たくなっていく人たちを見送った。
そうやって死線を潜り抜け、理不尽に傷つきながらも進んでいく。既に、勇者パーティーの絆は強固なものになっていた。
「イレーナ」
王都を旅立ってから五年後、イレーナは19歳、アロンは17歳だった。その頃には、とっくにアロンはイレーナよりも背が高くなっていた。声変わりも済んで、心地良く響く低い声。
線の細い美少年の影はすっかり無くなり、勇者と呼ぶに値する逞しい青年に成長していた。
イレーナは彼に名前を呼ばれるのが好きだった。彼の低くて優しい声に呼ばれるのが——
「振られたわ……」
イレーナはナグの顔を見るなり、すぐにそう言った。宿の部屋に待っていたのは斧使いのナグ。一年ほど前に勇者パーティが立ち寄った戦士の島最強の女戦士であり、それ以降仲間に加わった勇者メンバーである。
途中から仲間になったとはいえ、彼女はすぐに仲間に馴染んだし、イレーナともすぐに仲良くなった。
イレーナにとって同性の彼女は唯一、アロンに対する心の内を打ち明けることができる相手だった。
だから、イレーナは今日この村の祭りでアロンに告白することも彼女に伝えていた。
旅を続けて、早五年。彼らは魔界のすぐ目の前にまで来ていた。この村を出て、果てしなく深い峡谷を越えるとその先は魔界だ。ここから先は一秒たりとも気が抜けない。下手をすれば命を落とすこともあるだろう。
だからその前にイレーナは彼に伝えたかったのだ、自分がどれだけ彼を愛しているかを。彼はイレーナを異性として見るようなことは一度も無かったけれど、きっと想いを伝えれば応えてくれる。この五年間、イレーナは彼を支え続けたのだ。
自分だけが、勇者アロンの隣に立てる存在なのだと、そう思っていた。
「お、おう……」
イレーナの報告を受けてナグは言葉を詰まらせた。
イレーナは情けない気持ちで唇を噛んで俯いた。今日の告白のために、張り切って、目一杯おしゃれをして、意気込んで出かけていったのだ。それがこの結果で帰ってくることになるなんて考えもしていなかった。
ナグはどんよりと落ち込んだイレーナを見て、重くなった空気を振り払うように彼女の背中を叩いた。
「まぁ、とにかくよくやったよ!とりあえずお疲れだな!ほら、菓子買っといたんだよ。お前の好きな花酒もあるぞ!」
ナグはまくし立てるように言いながら、先ほど買って来たばかりであろう大きな紙袋から次々と菓子やお酒を出して、テーブルに並べる。ヘーゼルナッツのクッキー、レーズンの入ったバターケーキ、色とりどりの花が漬けられた甘いお酒。並べられたお菓子もお酒も、どれもイレーナの好物だった。なんとも用意がいい。
もしかしたら、告白の成功を祝うために準備をしてくれていたのかもしれない。そう思うと、イレーナは胸の奥が苦しくなった。
「ほれ、食え、食って忘れちまえ」
ナグが差し出すバターケーキを受け取る。イレーナはそれを一口食べた。ふと、ボロボロと涙が溢れて、止まらなくなった。
「彼……好きな人がいるんですって……」
イレーナは嗚咽交じりにそう言った。
アロンに好きな人がいるだなんて、考えてもいなかった。そんな気配、少しも無かったのに……。
彼に猛アプローチをかけていた帝国の姫だろうか。それともどこかで助けた村の娘なのだろうか。今まで旅で出会った女性たちの顔が次々に浮かぶ。その誰かにアロンが想いを馳せているなんて、考えただけで胸が苦しかった。
イレーナはナグを見た。彼女は目を泳がせて冷や汗をかいていた。
イレーナは息を呑んだ。
(もしかして……)
「アロンの好きな人って……ナグなの?」
「んなわけあるかぁ!」
ナグは叫びながら立ち上がった。ついでに、テーブルをひっくり返しそうになったが、テーブルの上にお菓子の山があるのを思い出して、やめた。
「それなら、一体……」
他に思い当たる相手はいない。イレーナは美しい眉を八の字にして、涙目でナグを見上げる。その様子が何ともいたたまれなくて、ナグはガシガシと頭を掻いた。
「あいつが好きな奴って、幼馴染のことだろ。チチェってやつ」
ナグも直接聞いた訳でもないし、一年ほどの付き合いではあるが、アロンが好きなのはチチェという幼馴染であることはよく分かった。ちょくちょく話題に出してくるし、彼女の話をしている時のアロンの顔はいつも緩んでいたからだ。
だからナグとしては至極真っ当なことを言ったつもりだった。なのに、イレーナは驚いたように目を見開いた。
「え?チチェさんって、男の子でしょう……?」
「は?」
予想外の言葉にナグは聞き返してしまった。
「木登りとか、アロンと一緒に隣村の男の子たちと喧嘩してたって言ってたじゃない」
イレーナは首を傾げながらそう言った。彼女はアロンの話すチチェの人物像から男子であると誤解しているようだった。ナグは呆れてしまった。
「お前は知らない文化かもしれねぇけど、女でも木登りはするし、喧嘩もするぞ。アタシもしょっちゅうしてたしな」
「だって、あなたは戦士の島出身だから……」
ナグは首を振った。出身は関係ない、どの土地にも野生的な女子はいるものだ。
「まあ、あいつの話だとやんちゃすぎて、男に聞こえなくもないけどよ」
ナグは肩をすくめた。イレーナはショックを受けていた。チチェという名前は前々から何度も聞いていたし、アロンがその名前を話題に出すときはきまって、楽しそうだった。
それは彼の幼馴染が同性の大親友だからだと思っていた。とても仲の良い二人なのだと微笑ましく思っていたものだ。だが、その幼馴染が異性となるとまた話は変わってくる。
「気づかなかった……」
「知ってて、告白すんだと思ってたぜ……。すげえ、勇気のあるやつだと……」
アロンの幼馴染を男子と誤解してしまうイレーナの天然ぶりにナグは呆れてしまった。
「皆、知ってるのかしら……」
「さぁ……」
イレーナは落ち込んでぽつりと呟いた。ナグは言葉を濁した。しかし、他の勇者の仲間たちは全員知っているし、多分直接聞いているだろう、と察してはいた。
弓使いのロビンは、アロンが幼馴染の話をするときは毎度ニヤニヤしていたし、大魔導士オーレンドルフは生暖かい目でアロンのことを見ていた。戦士の島で男たちに混ざって育ったナグは、あの空気感が想い人のことを語り出した仲間に向けるものだと理解していた。恐らく、彼らは彼らなりに、恋愛話でもしているのだろう。
「……なんてことなの……」
ナグの表情を見てイレーナも察してしまった。気づかなかったのは自分だけだと。彼女は顔を覆って椅子の上でうずくまる。
「誰か私を罰して頂戴……」
自分を選んでくれると確信していた相手には、自分が出会うより前から心に決めた人がいた。そのことに気づかずに浮かれていた自分が情けなかった。
ざめざめと泣き出してしまったイレーナにどうしていいか分からず、ナグは彼女の背を撫でてやることしかできなかった。




