銀世界より 1
ティアは純白のドレスを身に纏っていた。絹織りの生地が光沢を放ちながら胸や背中の線をなぞり、ティアの華奢さを強調していた。スカートには細かい刺繍がされていて、その上に美しいレースが何層も重なっている。裾はどこまでも長く、一人で歩くのは大変そうだった。
「花嫁衣裳……?」
どうして自分がそんなものを着ているのか、ティアは分からなかった。纏め上げられた髪の上には王女の冠まで乗っている。
周囲の景観には覚えがないが、ウィルノア王都の街並みに似ていた。どこからか鐘の鳴る音が聞こえると、自然と足が音の方へ向かう。
「……そうだ、結婚式に行かなきゃ」
今日はティアの婚儀が執り行われる日だった。どうしてこんなに大事なことを忘れていたんだろう。
人っ子一人いない道を駆けると、周りの風景はすごい勢いで後ろへ下がっていった。気が付けば、国を挙げた祝祭の儀を執り行うための神殿の前に立っていた。正面にそびえる大きな扉が目に入り、ドクン、と胸が鳴る。
「この奥に、私を待っている人がいるんだ」
それは誰だったか。ティアにとってかげがえのない、大切な存在は。
そっと扉に触れると、扉は自然に内側へ開かれた。次の瞬間、視界が真っ白な光に染まった。眩しくて思わず目を瞑る。
「ティア様」
聞きなれた声にそっと瞼を上げれば、数歩先に純白の騎士服に身を包んだロエンが佇んでいた。真っ白な世界の中、真っ白な服のロエン。他には何にも存在しない。彼の黒い髪と瞳だけが世界から浮いて見えた。
――私、ロエンと結婚するんだ。
そう言葉にしてみると、不思議と心の奥が暖かくなった。照れくさいような、嬉しいような。ほっとするし、どきどきもする。じわりじわり、幸せが滲むようだった。
「ダメだよ、姉上」
ロエンへ近寄ろうとするティアの腕を掴んで止めたのは、どこから現れたか分からないユリスだった。
「ロエンは駄目だって、僕言ったよね」
「身分の差なんて、私気にしないわ」
「そうじゃなくって、ほら」
ユリスがティアの背後を指差した。つられて振り返れば、ロエンの隣には花嫁姿のマリーが寄り添っていた。彼女の栗色の髪には桃色の生花が零れんばかりに飾られていて、とても可愛らしかった。ロエンは見たことも無いような優しい笑顔で、マリーの耳元で愛を囁いている。
「ロエン!」
ティアが呼んでも気づいた様子は無い。彼の視界にはマリーしか入っていないようだった。
自分の結婚相手はロエンではなかったのか。鈍器で頭を殴られたような衝撃が走り、ティアはふらつく。そんな時、必ず支えてくれるがロエンだった。でも、ティアの隣にいるはずの彼は、違う人の隣にいる。
「どうして、そこは私の場所なのに……」
ロエンのへの疑心、マリーへの妬み。どす黒い気持ちがじわじわと湧いてくる。大切な人へ向ける感情じゃないけど、溢れたものは止まらない。
ユリスを振り払い、ティアは走った。
「おっと、君の相手は俺だろう」
突如、どこにもいなかったはずのジルヴァが現れ、走っていた勢いのまま広い胸にぶつかる。そのまま強く抱きしめられ、ティアはぎょっとした。
「意外に積極的なんだな、君は」
「やめて、離してください」
「ああ、離さないよ」
全然話が通じない。
その間にもロエンとマリーが互いの顔の距離を縮めていくのが見えた。二人の瞼がそっと閉じられ、ティアは焦った。いやだいやだ、そんな二人は見たくない。早く止めなければ。もがけばもがくほど皇子の拘束が強くなる。
ティアは力の限り叫んだ。
「もう、離してってばー!!」
ティアの叫びに呼応するように皇子は消えた。ロエンとマリーも音も無く消えてしまった。
残ったのはティアとユリスだけだった。
「ひどいよ姉上、二度と僕の傍を離れないっていったのに……」
ユリスがしくしく泣き始めると、彼の姿がどんどん若返っていった。青年から少年へ戻ると、その顔がぐにゃりと歪んだ。
「姉上の裏切り者!」
走り去るユリスを追いかける。どれだけ懸命に足を動かしても、その距離はどんどん広がっていった。弟の後ろ姿が豆粒のように小さくなって、さらにドレスの裾が引っかかり、ティアは派手に転んだ。
「一体なんなのよ……!!」
展開が目まぐるしすぎて訳が分からない。恨み言をつぶやきながら立ち上がると、ティアはまたドレスの裾を踏んで転んだ。白い布は生き物のようにうねうね動き、どんどん絡み付いていく。布の先は次第にティアの足から腰、腰から胸、胸から首へと伸びていった。するりと首を一周し、そのまま思いっきり締め付けられる。
「……っは、」
気管が閉められ、息が吸えない。堪えるように瞳を閉じると、生理的な涙が零れた。苦しくて苦しくてたまらない。布をはずそうと手を伸ばすと、布はいつの間にか誰かの腕に変わっていた。
「…………、手に入らないなら、いっそ、私の手で」
闇の双眸がティアを貫いた瞬間、視界が暗転した。
目覚めたティアは息切れを起こしていた。びっしょり汗もかいている。身体を起こして辺りを見渡すと、先ほどまでの出来事が夢なのだと気付いた。
「……な、なんて夢なの」
絞り出したような声は、自分でもぞっとする程枯れていた。慌てて寝台の横に備えられた水差しに手を伸ばす。冷たい水が喉を潤すと、ティアはようやく落ち着きを取り戻した。
周囲の部屋や廊下からは人の活動音は聞こえない。カーテンを開けると外は暗いが、東の空が少し白んでいた。
夢は人の願望や不安を映すと聞く。人によっては未来を映すともいう。ティアの見た夢はなんだったのか。……夢は夢。ただの夢。さっき見たのはただの悪夢だ。ティアは自分に言い聞かせた。
そうしていると窓の硝子越しに外の冷気が伝わり、身体がぶるりと震えた。
「これも夢の続きかしら……」
それにしては、頬を刺す空気の冷たさも身体に伝わる馬の振動も、何もかもが鮮明だった。そう、これは現実だ。分かっていても思考が逃避しようとする。
早すぎる起床に、それでも再び眠る気にはなれなかったティアは、身支度を済ませると一人でこっそり城の外に出た。外と離宮の周りを散歩するだけの、ちょっとした気分転換のつもりだった。
しかしそこで偶然にも第二皇子のジルヴァードに出会い、半ば強引に馬に乗せられ、何故か今では雪道を走っていた。
「ん、何か言ったか」
なんでもありません、とこたえれば、ジルヴァが手綱を強く握る。ティアが慌てて目の前の広い背中に掴まると、馬は速度を上げた。
攫われるように馬に乗せられたティアは、ジルヴァがどこへ向かっているのか皆目見当がつかなかった。皇都の中らしいが、周りは木々ばかりで森の中のようだ。何度行き先を聞いても意地悪そうに笑うだけで、全然教えてくれない。馬は主人と同じ赤い毛並をしていて、滑りやすい雪道を恐れもせず進んでいた。朝日は出ていたが雪の積もった木々で光が遮られ、周囲は薄暗かった。
「護衛もつけず外に出て、本当に大丈夫なんですか」
「たまには煩わしいものから解放されて、自由になりたいものさ」
君もそうだったんだろう、と言葉が続く。
理由は違うが、気分転換という目的は確かに同じだった。だからさしたる抵抗もせず、ティアは大人しくジルヴァについてきていた。
あんな夢の後だ。最初はティアが一方的に気まずい思いをしていたのだが、ジルヴァの奔放で快活な態度を前にすると、そんな気まずさも立ち消えてしまった。
「ほら、ついた」
ジルヴァの声に顔を上げると、次第に森が開けていく。目に入った光景に、ティアは感嘆の息をもらした。
そこは、一面の銀世界だった。木々も地面も真っ白な雪に覆われ、誰の足跡もついていない。穢れなき白の先には広い湖が厚い氷を張り、朝日を反射してきらきら輝いていた。
「俺のお気に入り。来てよかっただろ?」
自慢げな顔のジルヴァに、ティアは大きく頷いた。先に馬から降りたジルヴァに手を引かれ地面に足をつけると、寒さも忘れてティアは飛び出した。
「すごいすごい!!」
「大人しいかと思えば、意外に無邪気だな」
「だって、見たことありません。こんなに美しい景色」
大きく腕を伸ばして深呼吸すると、ひんやりと澄んだ空気が肺を満たした。味なんてしないけど、それでもこの空気は「美味しい」。
馬を樹にとめたジルヴァも隣に立ち、同じように息を吸っていた。
歩くのがもったいないくらい、本当にどこまでも真っ白だった。でも同時に、子どもみたいにわくわくが止まらない。
「私もう我慢できない、って、そんな顔だな」
「妙に含んだ言い方はやめてください」
「でも本当だろ?」
「……意地悪ですね」
にやつくジルヴァに対抗するように笑ってみせて、ティアは先に飛び出した。慌ててジルヴァが追いかける。
「おいおい意地悪はどっちだよ」
「我慢できなかったんです」
走りながら振り返れば、二人分の足跡がしっかり残っていた。片方は小さく、片方は大きい。歩幅だって違う。その両方が、氷の湖の前で止まる。
ティアとジルヴァは白い息を吐き出しながら、どちらともなく雪の上に座り込んだ。
「……ありがとうございます、ジルヴァ様。こんな素敵なところを教えてくださって」
「俺が勝手に連れ出しただけだ、礼を言われるようなことじゃない」
寒さのせいか、ジルヴァの耳が朱く染まっていた。
「アナスタシアから話を聞いて、ずっと君に興味があったんだ」
あの妹が同性の、しかも一国の姫君と親しくなるなど、ジルヴァは想像もしていなかった。アナスタシアは曲がったものを嫌う、真っ直ぐな人間だ。だから虚飾や偽りで塗り固められた、皇族や貴族の社会に近寄ろうとしない。皇女という立場からは褒められたことじゃないが、彼女は彼女の立場でその務めを果たそうとしている。兄とは違う生き方を選んだアナスタシアが、ジルヴァは誇らしかったし、家族として愛しいと思っていた。
「あんまり君の話ばかりするから、どんな魔性の女が妹を誑かしたのかと思ってな」
「誑かしたって、そんな」
くすくすとティアが笑い、そのたびに空気が白く染まる。
何も気取らず、策略も無い。言葉や振る舞いは立場を弁えているが、意外と感情が素直に表れやすい。ジルヴァがティアに持つ印象はこうだ。
決して悪くない、むしろ高評価だ。もっと長く付き合いを重ねて彼女のことを知りたいとも思う。だが一点だけ、どうしても気にかかる点があった。
「君は優しすぎると、アナスタシアは言った」
それはティアの危うさだった。
「どうして君はあの男達を許せる。君の弟もあの騎士も、手酷く君を裏切った。どんな理由があっても、だ。……彼らの言い分については報告を受けている。しかしそれを知ってもなお、君が二人を許容できた理由が分からない」
ティアは困ったように眉を下げた。どうして、と聞かれても、やっぱり二人が大切だったから、としか答えられない。すれ違っていただけだとか、みんな同じように苦しんでいたからとか、色んな理由はつけられても、結局根本はそこなのだ。
だが、ジルヴァはそれでは納得しなかった。
「それは家族の情か? 主従の、いや男女の信愛か?……仮に俺が同じようにアナスタシアに裏切られたとしても、ティア殿と同じようには受け入れられないだろう」
「私は自分の選択が誤りだとは思いません」
「ああ、誤りではないだろう」
ならばなぜ、責めるような目を向けるのか。
ティアは居心地の悪さを感じて、その場から立ち上がった。くっ付いていた雪を手で払う。
「どうやら迎えが来たようだ」
ジルヴァの言葉に背後を向けば、いつからいたのか、馬を止めた箇所に黒い外套に身を包んだロエンが佇んでいた。手を振ると仏頂面が少しだけ緩む。ジルヴァに一声かけて、ティアは自分の騎士の元へ向かった。
「私を連れずに外に出ないでくださいと、何度言われれば気が済むんですか」
さっそくいつもの御小言がはじまって、やれやれと思う反面、ティアはなんだかほっとした。あれ以上ジルヴァと話をするのが怖かったのだ。
本当はそれより怖かったはずなのに、ティアはもう、今朝の夢のことを思い出さなかった。




