青鬼
最初に戻ってきたのは、音だった。
波が砂を洗う音。寄せては引く、規則正しい水の呼吸。それが耳の奥で脈打つ血の音と重なっていることに気づいたとき、俺はようやく、自分がまだ生きているのだと理解した。
口の中は塩と砂でざらついていた。咳き込むと、肺の底から海水が逆流してくる。四つん這いになって吐けるだけ吐き、肘で身体を引きずって、波の届かない乾いた砂まで這い上がった。
船医の習い性で、俺はまず自分の身体を検めた。指を一本ずつ曲げる。動く。両腕も動く。肋骨を順に押さえていくと、右の下から三本目で鋭い痛みが走った。折れてはいない。ひびだろう。額に触れると、乾きかけた血が指についた。頭皮の裂傷は出血のわりに浅い。左の足首は腫れているが、体重をかければ耐えられる。
「上等だ」
声に出してみると、ひどく掠れていた。あれだけの海に呑まれて、この程度で済んだのだから、診断としては上等の部類に入る。そう下してしまってから、俺は自分の冷静さに苦笑した。
身を起こして浜を見渡す。砂浜は左右に長く弧を描き、その背後には黒々とした松林が迫っていた。波打ち際には船の残骸が散らばっている。折れた帆桁、裂けた板、もつれた縄、割れた樽。船尾の彫り物が半ば砂に埋もれて空を向いていた。出航の朝、船主が自慢げに撫でていた彫り物だった。
俺は声を張り上げた。母語で、次に船乗りの共通語で、最後には思いつく限りの名を呼んだ。返ってくるのは波音と鷗の声だけだった。足跡もない。人影もない。あれほど大勢が乗っていた船が、嘘のように静かだった。
残骸のあいだを、足を引きずって歩いた。使えるものを探すのも医者の仕事だ。今あるのは、革紐で肩に掛けられる小ぶりの薬箱だった。いつでも使えるように肌身離さず持ち歩いていたことが功を奏した。蓋は歪み、留め金は曲がっていたが、中の硝子瓶の半分は割れずに残っていた。メス、鉗子、縫合の針と絹糸、鎮痛の薬液。そして、持病の薬。
まだ余裕があるが、どこかで材料を調達しなければ己の命が詰むだろう。
少し離れた岩陰に、鉄の箍を嵌めた樽がいくつか流れ着いていた。蝋で封じた口は無事で、海水が染みた様子もない。船の火薬樽だ。濡らさなければ、船乗りの命綱にも、人殺しの道具にもなる。だが、元来脆弱な俺に持ち運ぶ力はない。持ち運ぶ理由も思いつかなかった。
樽の位置だけを頭に留めて、その場を離れることにした。
歩きながら、嫌でも思い出されることがあった。嵐の夜、船底の暗がり。膝まで浸かった水の冷たさ。鉄鎖の擦れる音。昇降口の扉は歪んで開かず、俺は必死で板を叩いたのだった。あの下に繋がれていた者たちを、誰も救えなかった。自分は船医なのに。
乗船のとき、船主は繋がれた者たちを蔑んでいた。俺は蔑むことはせず、頻繁に健康状態を確認していた。人を蔑むことが昔から嫌いだった。結局のところ、肌の色が異なるだけで、皮膚の下は同じだからだ。
そして何より、病弱で青白い俺にとって、体が大きく力も強い彼らを、羨ましくも思っていたからだ。結局、何ひとつ変えられなかったことが、いまは喉の奥に苦く残っている。
俺はその苦い記憶を腹の底へ沈めた。感傷は、傷口の消毒の役には立たない。生き残った者の最初の仕事は、生き続けることだ。
そのとき、背後で小石の転がる音がした。
振り返ると、浜の端、松の根元に小さな人影があった。七つか八つの子供だった。腕いっぱいに流木を抱えている。薪拾いの途中だったのだろう。子供は口を半ば開けたまま、ぴくりとも動かなかった。
「怖がらなくていい」
俺は両手を開いて見せ、ゆっくりと言った。通じるはずのない言葉でも、声の調子は伝わると信じていた。
「私は医者だ。怪我をしている。何もしない」
子供の視線は、俺の目に釘付けになっていた。そして私も。子供の目はきれいな黒をしていた。しかし、私の目は氷のように澄んだ青だ。生まれてこのかた、俺自身は何とも思わなかったその色が、この土地では違うらしいと、そのとき初めて気づいた。
子供は抱えていた流木をばらばらと落とし、悲鳴を上げて林の中へ駆け込んだ。叫び声のなかに、ひとつだけ繰り返される音があった。
「オニ」
意味は知らない。だが、その音に込められた恐怖の質は、どの言葉でも同じだった。
追うべきでも、待つべきでもなかった。逡巡しているうちに、答えは向こうからやって来た。
人の声、枝を踏み折る音、金物の触れ合う音。現れたのは十数人の男たちだった。粗末な麻の衣に、手には鍬、鎌、漁に使う銛、縄。武人ではない。おそらく里の民だ。けれども俺らの目は、さっきの子供と同じ色をしていた。
恐怖と、恐怖が裏返った敵意の色。
先頭の壮年の男が何かを叫び、銛の穂先をこちらへ向けた。後ろにいた女がひとり、幼子を胸に抱いたまま、山の方角を指さし、次に俺を指さした。同じ仕草を繰り返す。山。俺。山。俺。
指の先を目で辿ると、遠く、海へせり出した険しい山稜の上に、細い煙が一筋、白く立ちのぼっていた。
(山にいる何者かと、俺を、結びつけている?)
言葉はわからなくとも、そのくらいの推論はできた。この里の者たちにとって、山の上には何かがいる。そして俺はその仲間だと見なされているのだ。
俺は両手を高く上げ、ゆっくりと後ずさった。
「待ってくれ。話を聞いてほしい。私は何も——」
最後まで言えなかった。飛んできた石が側頭部をかすめ、視界が白く弾けた。続けて二つ、三つ。男たちが叫びながら詰めてくる。
その瞬間、俺は悟った。この者たちは憎んでいるのではない。怯えているのだ。
怯えた群れは、いちばん近くにいる異物に向かって、手にした道具を振り下ろす。理不尽だ、と思った。理不尽な暴力には、これまでの人生で何度も出会ってきた。あの船の上でも。
足首の痛みを無視して、俺は走った。
松林に駆け込む。枝が頬を打ち、薬箱の硝子が背中で鳴る。背後で悲鳴が上がった。振り向くと、追ってきた若い男が、潮に濡れた岩で足を滑らせ、膝を抱えて転がっていた。脛が不自然な角度に曲がっている。骨折だ。
足が、勝手に止まりかけた。
引き返して添え木を当てなければ。そう思ったのは理屈ではなく、二十年かけて身体に刻んだ習性だった。だが、倒れた男に仲間が群がり、そのうちの一人がこちらへ鎌を投げつけた。刃は松の幹に突き立ち、乾いた音を立てて震えた。
俺は踵を返した。助けたい相手に、助けさせてもらえない。それがこれほど口惜しいことだとは、知らなかった。
追っ手の声が遠のくまでに、どれほど走ったのかわからない。松林は雑木林に変わり、やがて足元が上りになった。獣道とも踏み跡ともつかない細い道が、断崖と山襞のあいだを縫って上へ延びている。海の側は切り立った岩壁で、下では波が白く砕け、そこが行き止まりだと教えていた。選べる方向は、上しかなかった。
息が切れ、肋骨の痛みは一歩ごとに増した。崩れかけた岩棚で一度だけ足を止め、薬箱から絹糸と布を取り出して、腫れた足首を固く巻いた。手は震えていたが、結び目は正確だった。自分の身体を縛り上げながら、俺はようやく、さっきの女の指先を思い返した。山、と、俺。
(あの煙の下に、何がある)
里の者たちは、そこにいる何かを恐れている。恐れられている者と、恐れる者と、どちらへ近づいても、安全の保証はない。だが海辺には戻れず、里にも入れない。ならば行き先は、はじめから一つしか残されていなかった。
日が傾き、海が橙に染まった。稜線の影が長く伸びる。風が出て、潮の匂いに、何か焦げたような匂いが混じりはじめた。
鉄だ。炉で熱された鉄と炭の匂い。船の鍛冶場で毎日嗅いできた、あの匂いだった。
そこには人の手があり、火を扱う技がある。火を扱う者は、石を投げる前に、相手の目を見る眼を持っているかもしれない。
根拠のない願いにすぎないことは、自身がいちばんよく知っていた。匂いもあそこからとは限らない。だが、右も左も、言葉すらわからない地で、他に選択肢は無い。
薬箱の革紐を掛け直し、折れた松の枝を杖にして、俺は立ち上がった。遠くに見える稜線の向こうで、白い煙は変わらず、一筋、暮れてゆく空へ昇っている。
一人称は変更するかもしれません。




