黒鬼
差別的と誤解されるような表現がありますが、そのような意図はありません。
日本の中世が舞台なので、その時代にあったであろうことを表現しております。
ご了承ください。
船が悲鳴を上げていた。梁がたわみ、釘が抜け、無数の板が一斉に軋む。船底の闇のなかで、俺はその音を、自分の骨が軋む音のように聞いていた。
左の足首に鉄の輪が嵌まり、そこから伸びた鎖が、床に打たれた鉄環に繋がっている。何ヶ月も同じ鎖だった。輪の数も、錆の浮き方も、掌が覚えている。眠るときも、食うときも、この冷たい重さは付いて回った。
揺れが変わった。それまでの揺れは、船が波を越える揺れだった。いまのは、船が波に殴られる揺れだった。傾いた床を、水が走ってくる。冷たい水が足首に届き、膝に届き、腰に届いた。暗がりのあちこちで、繋がれた者たちが叫んでいた。故郷の言葉も、船で覚えさせられた言葉も、祈りも罵りも、すべてが一つの塊になって闇に満ちた。
そのとき、頭上で板を叩く音がした。
重く、乱れた音だった。誰かが昇降口の扉に、拳を打ちつけている。開けようとしているのだ。ここへ降りてこようとしている。俺は顔を上げ、暗闇の向こうを見上げた。
やがて、音は途切れた。扉が歪んで噛み込み、人の力ではもう開かないことを、示していた。
誰も来ない。
驚くほどのことではなかった。ここへ来る前から、誰かが自分のために来てくれたことなど、一度もなかった。水が胸まで上がった。轟音とともに船体が何かに乗り上げ、床板が大きく跳ねた。鉄環を打ち付けた梁に細い亀裂が走るのが、闇のなかで音でわかった。
死ぬのか。こんな、光も射さぬ汚泥の底で、誰にも知られず、鉄に繋がれたまま魚の餌になるのか。
ーーーふざけるな。
怒りが、全身の血管を沸騰させ、俺は鎖を両手で掴んだ。
息を吸い、背を丸め、全身の筋を一本ずつ引き絞る。両脚を床板に突っ張り、腕を引く。鉄の輪が掌に食い込み、皮が裂けて血が出た。歯を食いしばる。鉄環が軋み、梁が呻き、足首の輪が骨に当たって痛みが走った。それでも、引いた。
何のために生きるのかは、考えなかった。考える前に、身体が先に決めていた。
ここで死ぬものか、と。
甲高い音が、闇を裂いた。鎖の輪のひとつが、飴細工のように伸びて、開き、弾けた。
自由になった反動で、彼は水の中に尻もちをついた。足首の輪はまだ嵌まっていた。そこから垂れた鎖は、腕の長さほどのところで、不揃いに引きちぎれている。俺それを拾い上げ、掌に巻きつけた。冷たかった。だが、もう床には繋がれていなかった。
隣で、水に顔を沈めた男が動いていなかった。俺はその男の鎖を掴んで引いた。鉄環は動かなかった。男の指が、水の中で力なく揺れていた。やがて、船体のさらに大きな軋みが、男を引き剥がした。
裂けた船腹の隙間から、黒い海が入ってきていた。俺はその隙間へ向かって泳いだ。
あとは、ほとんど覚えていない。冷たさと、泡と、白い波頭と、頭上をかすめる折れた帆桁。流れてきた太い木材にしがみついた感触だけが、掌に残った。
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次に見たのは、空だった。
薄青く、高く、雲がちぎれて流れていた。仰向けになったまま、俺は長いあいだ、その空を見ていた。船底に閉じ込められてから、空など一度も見ていなかった。背中に当たっているのは、波に洗われた、硬くて平らな岩だった。揺れていない。足の下の世界が、動いていなかった。
身を起こす。全身の筋肉が悲鳴を上げた。喉は塩で灼け、胃は空っぽで、左の手首には鎖の端がまだ巻きついている。足首の輪の跡は、赤黒く腫れていた。それでも、骨は折れていない。俺は自分の身体の頑丈さを、生まれて初めて、ありがたいと思った。
そこは岩場だった。黒い岩が鋸の歯のように海へ突き出し、その背後に、垂直に近い断崖がそびえている。崖の上は松の緑で、さらにその上に、山の稜線が重なっていた。波が岩に砕けるたびに、細かい飛沫が朝日に光った。
声は出さなかった。呼ぶ対象がいなかったからだ。船の連中は俺を「ズワルト」と呼んだ。黒、という意味だった。買い手が肌の色につけた、荷札のような名。俺の本当の名は、故郷の言葉でしか響かない。それを口にしてくれる者は、もうこの世のどこにもいないのかもしれなかった。だから、呼ぶ声は喉の奥にしまっておいた。
湿った苔を辿り、岩肌を伝うわずかな滴を見つけ出した。泥混じりの水を、掌で掬って貪るように喉へ流し込んだ。五臓六腑に冷たさが染み渡り、止まりかけていた心臓が力強く脈打ち始めた。
飢えを満たすため、岩場に張り付いた貝を素手で引き剥がし、石で叩き割って生のまま胃袋に流し込んだ。潮だまりを逃げ惑う小さな蟹を掴み、甲羅ごと奥歯で噛み砕いた。塩気と泥の味しかしなかったが、それは確かに俺の血肉となった。
生き延びたのだ。
あの地獄の底から、俺は生きて陸を踏んだ。岩のあいだに、船の残骸が打ち上がっていた。板切れ、縄、割れた木箱。その中から、乾いたパンのかけらを見つけた。
そのとき、風に乗って、人の声が聞こえた。
俺は岩陰に身を沈め、呼吸を止めた。声は、磯の向こう、崖の切れ目のあたりから来ていた。三人か、四人。聞いたことのない言葉だった。男の声と、子供の声が混じっている。
ーーー見つかれば、どうなる
答えは、考えるまでもなく身体が知っていた。見つかった者は、繋がれる。それがこの世の仕組みだと、骨の髄まで教え込まれていた。この土地の人間がその仕組みの外にいるのか、中にいるのかは知らない。確かめる気もなかった。
崖の根元に、人ひとりがやっと入れる割れ目があった。波が届かない高さだった。身を押し込み、鎖の音を殺すために、手首の鎖を胸に抱え込んだ。そのまま、動かなかった。
陽は高くなり、また傾いた。割れ目の外で、漁師らしい男たちが磯に降りてきて、残骸を拾い、何かを話し合い、去っていくのが気配でわかった。ひとりが、割れ目のすぐ近くまで来た。足音が止まった。自分の心臓の音がその男に聞こえはしないかと思った。やがて足音は遠ざかった。
待つことには慣れていた。待つことにかけては、この世の誰にも負けないと思った。それが誇れることなのか、呪うべきことなのか、もうわからなかった。
日が落ちた。
岩の割れ目から這い出したとき、海は黒く、空には星が出ていた。腹が鳴った。パンのかけらを噛みしめ、飲み込んだ。身体の中心に、微かに温度が戻ってくる。
崖の上が、ちらちらと明るかった。
火だった。松明が、いくつも、列を作って動いている。崖の上の道を、磯のほうへ降りてくる。男たちの声が、昼より多く、昼より荒く響いた。そして、その声のなかに、同じ音が何度も混じっていた。
「オニ」
意味は知らない。その音に込められた響きを、もう知っていた。獲物を探す者の声だった。火の列。叫び声。同じものを、別の言葉で、別の場所で、見たことがある。
ーーー今度は、繋がれない
はじめて、その言葉が胸の内で形になった。祈りでも、願いでもなかった。決めたのだ。
ーーー二度と繋がれるものか。
手首から鎖を解き、輪のいくつかを掌に握り込んだ。残りは、右腕に二重に巻きつける。鳴らないように、布切れを噛ませた。
松明の列は、磯の左右から迫っていた。残っているのは、崖だった。
崖に取りついた。
濡れた岩に、指をかける。足の指が、わずかな凹凸を探り当てる。数ヶ月ぶりに、身体が思うままに動いていた。力は、まだ失われていなかった。奪われていたのは、使う場所だけだった。
登る。
半ばまで登ったとき、下で声が上がった。見つかったのだ。松明の火が磯の岩を照らし、いくつもの顔が、こちらを仰いでいる。石が飛んできた。肩をかすめ、岩に当たって砕けた。
さらに登る。
崖の縁に手をかけたとき、そこに、ひとりの男が立っていた。若く、細身の男だった。松明を持ち、鎌を握りしめている。ふたりの目が合った。
男は、俺を見ていた。腕に巻かれた鎖を見ていた。闇のなかの黒い顔と、その顔が引き上げてくる身体の大きさを見ていた。男の唇が震えていた。
手を伸ばせば男の足を掴んで引きずり落とせる距離にいた。鎖を一振りすれば、男の頭は割れるだろう。だが、鎖を握らなかった。代わりに、ゆっくりと、空の掌を男の前に差し出した。何も持たない、血まみれの掌を。
男は、悲鳴を上げて後ろへ転んだ。松明が落ち、草が小さく燃えた。男は這って逃げた。
俺は崖の縁に身を引き上げ、荒い息を吐いた。振り返らなかった。松林へ駆け込む。闇のなかで、枝が顔を打った。
走り、登り、また走る。追う声が遠ざかる。里の灯が、背後で小さな星のように散らばった。
どれほど登ったか。木々が切れて、岩場の稜線が見えたとき、立ち止まった。
遠く、山の上に、赤い光が見えた。
松明の黄色ではない。もっと深く、もっと静かな、橙の赤。炉の火だった。鉄を炊く火の色を、彼は船の鍛冶場の前を通るたびに、横目で見ていた。自分を繋いだ鎖も、そんな火で打たれたのだ。
(あの火は、鎖を作る火だろうか。それとも)
答えはなかった。ただ、さっきまで背中を追ってきた火とは違って、その赤は動かず、じっとそこに在った。逃げる者を呼ぶとも、拒むとも言わずに。
俺は手首の鎖を巻き直した。それから、赤い光に向かって、再び登りはじめた。




