赤鬼②
北海から吹きつける湿った風が、平原の運河を白く波立たせる。そんな場所で私は生を受けた。
見渡す限りの湿地と干拓地が広がるその片隅に、私が生まれた古びた石造りの砦があった。父はかつて戦場を駆けた下級騎士だったが、私が物心ついた頃には、その栄光などすっかり錆びついていた。
鉄砲と傭兵の台頭によって重装騎兵の時代は終わりを告げ、家に残されていたのは埃をかぶった甲冑と、家系図に誇らしげに記された紋章、そして家族を養うだけで精一杯のやせ細った領地だけだった。
家には三人の兄弟がいた。長男は父の騎士の位とわずかな所領を継ぐことが決まっており、次男は信心深く、叔父の伝手で修道院へ入った。そして三男の私には、最初から何も用意されていなかった。
何よりも厄介だったのは、私自身の生まれ持った身体だった。 生まれた時から、頭には燃え盛る火炎のような鮮やかな赤毛が生え揃っていた。十歳を迎える頃には大人の男の背丈を軽々と追い越し、太い腕の骨は丸太のように頑強だった。父は私の怪力を喜び、騎士として育てようと重い木剣を握らせたが、その瞳の奥にはいつも、隠しきれない当惑と忌避の色が揺れていた。
領地を分ける余力のない我が家では、大食らいで、常人離れした巨躯を持ち、燃えるような赤髪を揺らす三男坊は、持て余すのだ。礼儀作法を教え込まれようとしても狭い部屋の調度品を壊してしまい、母は私の怪力を不気味がり、兄たちは遠巻きに私を見ていた。
「お前のその力は、我々では扱いきれん」
父のその言葉は、残酷な拒絶の宣告だった。兄たちがそれぞれの居場所を見つけていく中で、私だけが、宙ぶらりんだった。窮屈な革鎧に巨体を押し込め、儀礼的な剣術を繰り返すたび、息が詰まるような息苦しさを覚えた。
十七歳になった年の秋、父が私に隣領の老貴族の警護兵としての仕官を命じた夜、私は誰にも告げずに砦を出た。持っていたのは、腰に差した無骨な短剣一本とわずかな金銭だけ。家督も、名誉も、騎士の家の三男という肩書きも、すべて冷たい運河の底へ投げ捨ててやった。
逃げるようにたどり着いたのは、巨大な港町だった。 そこには、砦の黴臭い静寂とは正反対の、剥き出しの力と欲望が渦巻いていた。林立する船の帆柱、威勢よく飛び交う見知らぬ異国の言葉、荷揚げされる香辛料のむせるような香り。海を越えてきた商船が、潮の飛沫を浴びながら悠然と錨を下ろしていた。
甲板を忙しなく駆け回る船乗りたちは、家柄も、血統も、生まれ持った髪の色も気に留めていなかった。ただ風を読み、太い麻のロープを力任せに引き絞り、命がけで大自然と渡り合っていた。私は波止場の荷役として働き始め、やがて北海を巡る沿岸貿易船の水夫となった。誰もが恐れる荒波の中で、私の巨躯と怪力は仲間たちの頼もしい命綱となった。ロープを握る掌の皮は何度も裂け、血が滲み、やがて岩のように硬いタコへと変わっていった。
「おい赤毛、ロープを引け!」
「頼むぞ、怪力男!」と呼ばれるたび、私はこの船の上にようやく自分の居場所を見出していた。
そして、二十を過ぎた頃、私は生涯で最も愛する女と出会った。
波止場の船具屋で働いていた、 亜麻色の髪と、冬の陽だまりのように柔らかな茶色の瞳を持つ彼女は、町中の男たちが恐れる私の赤毛と異様な巨躯を見ても、決して怯えなかった。作業で裂けた私の掌に優しく布を巻き、「大きな手ね。とても暖かくて、優しい手だわ」と微笑んでくれたのだ。
生まれ落ちて初めて、誰かに自分の存在を丸ごと肯定された瞬間だった。 私たちは小さな教会で慎ましやかな式を挙げ、運河沿いの傾いた借家で暮らし始めた。やがて、息子が生まれた。
産着に包まれた我が子を抱いた時、手のひらに収まるほどの小ささに、私は涙が止まらなかった。丸太のように太い私の指を、赤ん坊の小さな手がぎゅっと握り返した。
少し物心がつく頃には、息子は私の真似をして小さな木切れを振り回し、「父ちゃんみたいに強い男になるんだ」と誇らしげに笑うようになった。
私の肩車に乗り、天高く持ち上げられた息子が無邪気に笑う声を聞くたび、かつて自分の身体を呪っていた暗い記憶が綺麗に消え去っていくようだった。
私の人生のすべてが、その小さな家の中にあった。守るべき妻と息子ができた私は、どれほど危険な航海でも歯を食いしばって耐え抜くことができた。
だが、現実はあまりにも厳しかった。度重なる戦争と増税により、港町の物価は跳ね上がり、ただの沿岸水夫の稼ぎでは家族三人が食べていくことすらおぼつかなくなった。冬になると借家は隙間風で凍りつき、妻は咳き込み、息子の小さな手足は寒さで赤くひび割れていた。夜、飢えと寒さで泣き濡れる息子の背中をさすりながら、私は己の無力さに激しい悔し涙を流した。このままでは、愛する家族を飢えと寒さで失ってしまう。
そんな折、波止場に巨大な遠洋航海船が姿を現した。喜望峰を回り、世界の果てまで行って生きて帰ってくれば、一生遊んで暮らせるほどの銀貨と香辛料が手に入るという。だがそれは、生きて生還できる確率は極めて低い、命をかけた死の航海でもあった。
「行かないで。貧しくてもいい、生きて側にいてほしい」 妻は泣いて縋り付いた。
だが、私は首を振った。
「小さな庭のある、頑丈な石造りの家を買ってやる。息子腹いっぱい温かいスープを飲ませて、立派な学校へ通わせてやるんだ。私は絶対に死なない。必ずお前たちの元へ帰ってくる」
出航の朝、妻は涙を拭い、自らの亜麻色の髪を編み込んだ小さなお守りの紐を私の手首に結びつけてくれた。五歳になった息子は、泣き顔を必死に堪えながら、自分が木片を削って作った小さないびつな小舟の細工を私の掌に握らせてくれた。
「父ちゃん、これ持ってって。僕、いい子で待ってるから、絶対に早く帰ってきてね」
私は二人の温もりを魂の奥深くに焼き付け、船へと乗り込んだ。
船上の生活は、本当にきつかった。
猛烈な壊血病、腐った水、荒れ狂う海。何人もの仲間が病と海に呑まれて命を落としていく中、私を動かし続けたのは、手首に巻かれた髪紐と、懐の木彫りの小舟、そして「必ずあの家へ帰る」という執念だけだった。どれほど過酷な嵐でも、私はマストにしがみつき、怪力を振り絞ってロープを引き絞った。
だが、数年の航海を経たある日、海が漆黒に染まった。
それは嵐などという生ぬるいものではなかった。天と地がひっくり返ったような大暴風雨が船を襲い、山のような黒い波が船体を容赦なく叩き折った。
「 沈むぞ!!!」
叫び声が響いた瞬間、巨大な波が甲板を直撃した。
そして人間も積荷も、夜の海へと叩き落とされていった。
次に感覚を取り戻した時、感じたのは熱い砂だった。
引き波がザザと音を立てて足首を洗っている。全身の骨が軋むように痛み、口の中は血と潮の味が広がっていた。 重い瞼を押し上げると、目の前にはどこまでも広がる鈍色の海と、見たこともない奇妙な形の松の木が生い茂る、荒涼とした海岸線があった。
私は激しく咳き込み、砂混じりの海水を吐き出した。体にはあの嵐の中手に入れた太い麻ロープが食い込むように巻きついていた。そして左手首には妻の髪紐が、懐の奥には息子が彫ってくれた小さな木の舟が、奇跡のように残っていた。
生き延びたのだ。 あの地獄のような海を越え、私は浜辺へと打ち上げられたのだ。身体を引きずりながら、私は手首の紐と木彫りの小舟に唇を寄せた。生きている。生きてさえいれば、いつか必ずあの故郷の小さな家へ、妻と息子の元へ帰る方法が見つかるはずだ。
そう思い、よろめきながら立ち上がり、変える手段を探すために、こうして砂浜を歩いている。
しばらく歩いていると、松林の向こうから、人の気配がした。
そちらを見ると、粗末な布をまとい、腰に筵を巻いた現地の人間たちが、十人ほど姿を現した。手には魚を突く竹槍や、錆びた鎌、木の棒を握りしめていた。
私は助けを求めようと、敵意がないことを示すために両手を広げ、足元をふらつかせながら彼らへ近づこうとした。
「……おい! 船が難破したんだ、助けてくれ……! 私には、国に残してきた妻と息子がいるんだ……!」
掠れた声で、必死に言葉を絞り出した。だが、彼らの瞳に浮かんだのは、遭難者を憐れむ情けなどではなく、純粋な恐怖だった。
「……ひっ!?」
彼らの目に映っていたのは、嵐の海から這い上がり、塩を吹いて逆立つ燃えるような赤髪。二メートル近い屈強な異形の体躯。知らない言葉で叫び立てる、血走った巨大な男だ。
「ば、化け物……!」
「海から……海から這い上がってきたぞ!」
「赤鬼だ……! 赤鬼が出たァーーッ!!」
裂けるような絶叫が浜辺に木霊した。その言葉の意味は分からなかった。だが、向けられた剥き出しの憎悪と恐怖は、皮膚を焼くほど生々しく伝わってきた。
「待ってくれ、私は怪しい者ではない! 頼む、家に帰りたいだけなんだ!」
必死で説明しながら一歩足を踏み出した瞬間、先頭の男が金切り声を上げ、手にした拳大の石を力任せに投げつけてきた。
石は鈍い音を立てて額を直撃した。額が割れ、生温かい鮮血が目元へと垂れ流れる。
「あっちへ行け! 化け物め!」
「殺せ! 槍を構えろ! 鬼を殺せ!」
雨のように投げつけられる石。切っ先を震わせながら突き出される何本もの竹槍。額の血で片目を塞がれながら、私は歯を食いしばり、砂浜に背を向けた。
愛する妻と息子の元へ生きて帰る。
その僅かな希望を守るためだけに、私は背中に打ち据えられる石の痛みに耐え、海岸の背後にそびえる深い山林へと向かって、砂を蹴って走った。
タコ=蛸ではありません。念のため。




