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第三章:死の準々決勝 ―― 見える「ライン」

M-1グランプリ、三回戦突破。 そのニュースは、お笑い界よりも先に、刺激的なネタを求めるスポーツ紙のWeb版で皮肉な火をつけた。『元Jリーガーで元U-17日本代表歴もある瀬戸口航、M-1準々決勝進出。ピッチから漫才へ異例の転身』


SNSのタイムラインには、かつての自分を知る者たちの「懐かしい」「そこにいたのか」という無責任な声に混じって、鋭い棘のような言葉が容赦なく並んだ。 《元アスリートの売名行為》《お笑いを舐めるな。ピッチで通用しなかった奴がM-1で通用すると思うな》《落ちぶれた司令塔。次は舞台上で途中交代か?》 航は、深夜の警備バイトの休憩室、湿ったコンクリートの壁に背を預けながら、青白いスマホの光を見つめていた。かつて期待の若手として「未来の日本サッカー界を背負う天才」とまで書いていた同じメディアが、今は自分を「珍獣」か「道化師」のように扱っている。その手のひら返しに、航は乾いた笑いと溜息しか出なかった。


「航、ネットで何かすごい言われてるで。お前、ホンマに有名人やったんやなぁ。俺なんて『左のうるさい奴』って書かれてるわ。完全な格差社会やで」 準々決勝を数日後に控えた楽屋で、阿久津がスマホを見ながら、自分の鼻をすすりつつ呑気に笑った。 そこは、NGKの地下にある、冷え切ったコンクリート打ちっぱなしの控え室だ。壁には過去数十年分の芸人たちのサインや呪詛のような落書きが刻まれ、空気には安いたばこの煙と、人生の瀬戸際に立つ芸人たちが放つ強烈な焦燥感が混ざり合っている。


「放っといたらええねん。俺らがやることは、ピッチの上でも、サンパチマイクの前でも変わらへん」


航は表情を崩さなかったが、胸の中にはモヤモヤとした何かが確実に溜まっていた。 楽屋の隅では、結成十年を超えるベテランコンビが、血走った目で一語一句のネタの微調整を繰り返している。彼らにとって、ここは「異例の転身」を楽しむレクリエーションの場ではなく、明日を食い繋ぐための血みどろの戦場だ。そんな彼らからの視線は、針の筵のように痛く、冷ややかだった。


「おい、『おふさいど』。お前ら、次は代表のユニフォーム着て舞台出るんか? それともスパイク履いてセンターマイクまで走ってくるんか?」 通りすがりの先輩芸人が、口角を歪めて声をかけてきた。周囲から、同調するような冷たい失笑が漏れる。「…いえ、普通にスーツで出ます」 「そうか。期待してるで。お前のツッコミがオフサイドにならんようにな。あ、そもそも客にレッドカード出されたら一発退場やからな。ベンチ外に飛ばされんように気ぃつけや」 若手、それも他ジャンルからのエイリアンに対する風当たりは、想像以上に険しかった。サッカー界では「期待の星」として保護されていた航も、この狭い楽屋では、ただの新人に過ぎない。


準々決勝の当日。なんばグランド花月の舞台袖は、独特の魔物に支配されていた。 出番直前、モニターに映し出される一組前のコンビが、百戦錬磨のプロでありながら、客席の静寂という名の「鉄壁のディフェンス」に阻まれて撃沈していく様を、航は目の当たりにした。舞台上から戻ってきた彼らの背中は、まるで引退試合を終えた選手のように小さく、震えていた。


「…阿久津、ビビるなよ」「お、おう。大丈夫や、航。俺は野球部で三年間、ずっと補欠代表やったからな。ベンチを温めるのは得意中の得意やけど、このステージは、ちょっと設定温度が高すぎるわ。火傷しそうや」 阿久津の手が、隠しようもなく小刻みに震えている。無理もない。ここを突破すれば、決勝進出をかけた準決勝。そこはもう、テレビの向こう側、雲の上の世界だ。


「阿久津、思い出せや。お前は野球部ではスタンド専門で、一度も試合に出られへんかったんやろ。俺は、代表のユニフォームもJリーグのユニフォームも脱がされたんや。俺たちはな、もう失うものなんて一ミリもないんや」 航は阿久津の震える肩に、あえて力強く手を置いた。そして、その目を真っ直ぐに見つめた。かつて、アジア予選の灼熱のピッチで、疲弊しきった仲間を鼓舞した時と同じ、魂の温度で。 「ピッチに立つのも、舞台に立つのも同じや。客席は敵とちゃう。俺たちのパスを受ける『味方』や。お前がどれだけ不恰好で無茶な走り方をしても、俺が必ず、決定的なパスを通したる。俺の視野を、俺のツッコミを信じてくれ」


阿久津は大きく深く、肺の空気をすべて入れ替えるように息を吐き、一つ頷いた。「…おう。お前、ほんまにキャプテンみたいやな。ついていくわ。心中したるわ」


「おふさいど」の名前が会場に響いた。 センターマイクに向かう、わずか十数メートルの短い距離。航の感覚が、かつての極限状態のように研ぎ澄まされていく。 照明が落ち、サンパチマイクを照らす眩い光の中へ踏み込む。 その瞬間、航の脳内に、かつてのピッチの光景が完全に重なった。


客席の空気の重さ、湿り気、そして笑いの「沸点」がどこにあるか。 最前列の冷ややかな品定めから、最後列の漠然とした期待感まで。すべてが座標データのように、航の脳内に三次元で展開される。準々決勝の出囃子が鳴り終えたとき、「今だ」 航は心の中で、キックオフのホイッスルを鳴らした。



阿久津:僕、最近「一人暮らし」を始めたんですけど、寂しすぎて「家電」と会話できるようになったんですよ。

航:深刻な病み方やな。どんな感じか、やってみて。

阿久津:おーい、冷蔵庫。今日の僕の晩御飯、何かな?

冷蔵庫(阿久津の裏声):そんなことより、お前、さっきから「開けっ放し」なんだよ! 冷気が逃げるだろ! 扉、早く閉めて!

航:はい、出ました。家電側の正論ディフェンス。阿久津のルーズな生活習慣を、節電でCO2削減というスライディングで完璧に刈り取りに来てますね。


「つかみ」の笑いは小さかったが、その笑いは着実に広がり、ネタの終盤に航が阿久津のボケに便乗したところで、会場は爆発的な、そして地鳴りのような笑いに包まれた。 航は見えていた。客の笑い声が共鳴し、大きな物理的な波となって舞台を飲み込んでいく様子が。 阿久津の予測不能な「家電の反乱」に対し、航がサッカー実況風の戦術的解説を加えながら、最終的に自分もその狂気に飲み込まれていく。その計算された「落差」が、NGKの厳しい観客たちの心のディフェンスを、完全にこじ開けた。


「ありがとうございました!」 深々と頭を下げ、舞台袖に消える瞬間、航は誰にも気づかれないように拳を握りしめた。 プロの舞台で一度も感じることのできなかった、完璧な「決勝ゴール」の感触が、そこにはあった。


その夜。 合格者発表の掲示板の前で、二人は肩を並べて立っていた。 スマホでの発表を待つこともできたが、どうしても、自分の足でこの結果を勝ち取りに来たかった。 電光掲示板に並ぶ無数のコンビ名。その中ほどに、確かにその名前があった。


『おふさいど』


「……通った。通ったぞ、航! 俺、補欠卒業や!」 体の大きな阿久津が子供のように飛び上がり、航の首にしがみついた。周囲の落選した芸人たちの視線を気にする余裕もないほどに。 航もまた、震える手で掲示板の文字を指差したまま、言葉にならなかった。


準々決勝突破の報が流れてから二日後。 航のスマホが鳴った。長らく距離を置いていた母親からだった。


「航、ニュースで見ました。準決勝進出おめでとう。実は昨日、佐々木くんからうちに電話があったの。『航君は才能を諦めたんじゃなくて、別の才能に気づいたんですね』って、すごく感動した様子で言ってたわよ」


佐々木。あの日、難波の路上で、自分を見下すような哀れみの目を向けていたかつての親友。 彼は、航が芸人になったことを「才能の浪費」だと否定した自分を、配信での漫才を見て恥じたのかもしれない。母親はさらに続けた。


「あんたがサッカーを辞めるって言ったとき、お父さんと二人で、将来が真っ暗になったんじゃないかって本当に心配したのよ。でも、あの頃の、重圧で顔を歪めていたあんたよりも、今の漫才をしてるあんたの方が、ずっと楽しそうに見えるって佐々木くんが言ってた。頑張りなさい。次はテレビの前で、お父さんと二人で応援してるから」


航は、スマホを壊れるほど強く握りしめたまま、凍てつく冬の夜空を見上げた。 かつての栄光を食い潰す「元U-17日本代表」という忌まわしい過去は、もう重荷ではなかった。 それは、今の自分という漫才師を形作る、絶対に欠かせない大切なピースだったのだ。


「阿久津、まだ終わりちゃうで」 航は静かに、しかし腹の底から響く声で言った。 「次が本当の試合や。そこを通過すれば、全国放送のテレビに映る。日本中に、俺たちの漫才というパスを届ける。あいつら全員、腹を抱えて笑い死にさせてやろうぜ」


航は、自分の衣装である安物の革靴を、かつてのスパイクと同じように丁寧に磨き上げた。 準決勝、大舞台の幕が上がるまで、あとわずか。 司令塔の目は、すでにサンパチマイクの向こう側、日本中の笑いの頂点ゴールを、一点の曇りもなく捉えていた。

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