第四章:聖地への遠征、そして新たなシーズンへ
M-1グランプリ準決勝の朝。航は、慣れない東京・竹芝のホテルで目を覚ました。 カーテンの隙間から差し込む冬の鋭い朝陽が、安っぽいビジネスホテルの壁を白く焼き、東京湾の海面を銀色に輝かせている。大阪の、あの安いたばこと情熱が混ざり合った泥臭い熱気とは違う、どこか無機質で、それでいて巨大な何かが蠢いているような、冷徹な都会の気配。 かつてアンダーの代表合宿で、日の丸と八咫烏のエンブレムを胸に何度も訪れたはずの東京が、今は全く別の、攻略を拒む「難攻不落のアウェイ」のように感じられた。
「航、これ見てみ。ホテルの朝食バイキング、一通り回ったけど、焼きそば置いてへんぞ。東京の奴らは、何と一緒に飯食うてんねん」 隣のベッドで、阿久津が場違いなほどリラックスして欠伸をしていた。「当たり前やろ。…阿久津、浮き足立つなや。今日は有料の生配信があんねんけど、チケットは数分で完売したらしいで」「生配信? ほな、大阪の劇場の奴らも、実家のオカンも、なんなら俺を振った元カノも見てるんか。緊張して、ボケる前にオシッコ漏らしてまうわ。東京の公衆衛生を乱してまうんちゃうか」「漏らすんやったら舞台の上で漏らしてやな、それも計算されたボケに見えるようにせぇや。てか、お前に元カノなんておらんやろ」 「お前、コンビ組んでから性格が歪んだなぁ。ストライカーの精神やな」
航は笑いながら、鏡の前でスーツの襟を正した。 枕元のスマホが震え、一通のメールが届いた。それは、かつて航に戦力外を告げた、ガンバ大阪の強化部長からだった。『お前の漫才を動画で見た。お前は相変わらず、ディフェンスが一番嫌がるスペースを見つけるのが上手い。今日はテレビの前で応援している。日本中に、お前らしい決定的なパスを一本通してこい。結果はどうあれ、お前はもう俺たちの誇りだ』
その言葉を反芻しながら、航は鏡の中の自分を見つめた。 あの日、雨のスタジアムで「途中交代の途中交代」を告げられ、泥にまみれてピッチを去った時、自分はもう二度と誰にもパスを通せないのだと思っていた。誇りも未来も、すべてあのぬかるみに埋めてきたつもりだった。 だが、今は違う。隣には、どんなに無茶なボールでも笑って追いかけ、全力でダイビングヘッドをかます、最高に泥臭い相方がいる。
会場となる「ニューピアホール」は、開演前から異様な熱気と、ある種の殺気に包まれていた。 楽屋には、全国数千組の頂点付近まで這い上がってきた、文字通り「怪物」たちが集結している。洗練された構成で客を翻弄する東京の若手、人生のすべてをドブに捨ててでも笑いを取りに来る地方のベテラン。スタッフたちの動きは軍隊のように統制され、分刻みのスケジュールが容赦なく芸人たちを追い詰めていく。
「航…。俺、ちょっとトイレの個室で、今のうちに遺書書いてきてええか? 遺品整理の指示も出しとくわ」 阿久津が、顔を真っ白にして小刻みに震えていた。「遺書を書く暇があるなら、一本目のボケの角度を微調整しろ。阿久津、思い出せ。お前は野球部のスタンドで、九回裏二死、絶望的な点差からでも『逆転するぞ!』って叫んでたんやろ。あの根拠のない、狂気じみた自信を今ここで出せ。マウンドはお前のもんや」 航は阿久津の背中を、手のひらが赤くなるほど強く叩いた。
出番直前、舞台袖の暗転したスペース。 航は、自分の右足のつま先をトントンと地面に打ち付けた。現役時代からの、自分を戦闘モードに切り替えるためのルーティンだ。 モニター越しに、会場の三千人と、生配信を見守る数万人の視線が、熱線となって押し寄せてくるのを感じる。(見える。どこに笑いのスペースがあるか)
「おふさいど」の名前が呼ばれ、出囃子が鳴り響く。 サンパチマイクが一本立つだけの、銀河のように眩しいステージ。 航は、阿久津と共に、自分たちの人生を賭けた光の中へと踏み出した。運命の四分間が始まる。
阿久津:僕ね、将来の夢が「日本の大統領」なんですよ! この国を根底から変えたいんです!
航:日本に大統領制はないけどな。まあええわ、予行練習や。やってみ。
阿久津:国民の皆さん! 私が大統領になった暁には、全国の信号機をすべて「青」にします! 止まる必要なんてない! 突き進め日本!
航:はい、出ました。交通インフラの全壊。これはもう、国家レベルの自殺点です。彼は今、平和な日本をマッドマックスのようなディストピアに変えようとしています。
航が阿久津と作り上げた「おふさいど」の新しい型の漫才は、確実に観客に受け入れられていた。この日もパスがズバズバと決まり、最後の一言を放った瞬間、東京のホールが文字通り「爆発」した。 三千人の笑い声が壁を揺らし、床を伝って航の足首を震わせる。 航は視ていた。客席の観客だけでなく、カメラの向こう側で配信を見ている数万人が、阿久津の放った馬鹿げたボケを、自分のツッコミという「パス」によって受け取り、納得し、そして爆笑という名のゴールに変えていく完璧な放物線を。
「ありがとうございました!」
舞台を降り、カメラの列を通り過ぎて暗い袖に戻った時、航の目から熱いものがこぼれ落ちた。サッカーを辞めた時に流した、あの惨めな雨のような涙とは、全く違う、沸騰するような熱さだった。
その夜。結果発表は無情だった。「おふさいど」の名前が呼ばれることはなかった。決勝の切符、テレビの向こう側への切符には、あと一歩、届かなかった。 だが、楽屋に戻った二人のもとには、これまで誰も見向きもしなかったメディアの記者たちが押し寄せていた。
「瀬戸口君! 面白かったよ! 配信のチャット欄、君らへの絶賛で埋まってたよ!」 スタッフの声を聞きながら、航は悔しそうに鼻をすする阿久津の隣に座った。
その時、航のスマホが激しく震えた。着信表示は、佐々木だった。 会場の外へ出て、東京湾から吹き付ける冷たい夜風の中で電話を取る。
「…見たぞ、航」 佐々木の、これまでに聞いたこともないような興奮した声が聞こえてきた。「配信で見てた。…悔しいけど、腹抱えて笑った。お前のパス、やっぱり世界一だよ。サッカーのピッチじゃない場所で、あんなに人を熱狂させるなんてな。お前、本当に化け物だな」「…うるさいわ。お前も次のメキシコ代表戦、ハットトリックくらい決めろよ。俺の笑いの数より少なかったら許さねえぞ」 「ああ、決めてやるよ。…航、お前はもう、ただの『元代表』じゃない。一流の漫才師だ。」
電話を切ると、続いて母親からのLINEが入っていた。『航、お父さんと一緒にスマホの画面にかぶりついて見たわよ。あんたは、私たちの自慢の息子ね。次はもっと大きな舞台で、私たちを死ぬほど笑わせてね。でも、身体だけは大切に。』
航は、もう過去を振り返らなかった。 かつての栄光も、雨のスタジアムでの屈辱も、すべては今日この日の出囃子に繋がっていたのだと、今は確信を持って言えた。
「なぁ、航。俺ら、明日から何する?」 阿久津が、いつの間にか横に立っていた。その目は、敗北の痛みを超えて、すでに次の戦いを見据えていた。「決まってるやろ。今日の録画を百回見返して、来年のM-1のための『戦術会議』や。俺らには、オフシーズンなんてないねんからな」
翌朝、航は、朝日が昇り始めた竹芝の埠頭を、阿久津と肩を並べて歩き出した。司令塔の視界には今、真っ白だった未来が、光り輝くスタジアムへと完全に塗り替えられていた。
ピッチを去って、たどり着いたこの場所。ここが、瀬戸口航の新たな舞台のスタート地点だ。 二人の影が、長い朝陽に引かれながら、どこまでも続くアスファルトの先へと消えていった。




