第二章:ピッチからサンパチマイクへ
NSCを卒業して一年。航が手にしたのは「プロ」という肩書きの免状だけで、生活の実態はむしろサッカーの現役時代よりも遥かに困窮していた。かつてのチームメイトたちがSNSで高級外車や海外遠征の様子を華やかに発信する中、航の銀行残高は、一試合の勝利給にも満たない数千円を行ったり来たりしている。
「『おふさいど』です、お願いします! 本日十八時半からです! 元Jリーガーが漫才やってます!」
難波・千日前。NGK(なんばグランド花月)の向かいにある「YES THEATER」の前で、航は枯れかけた声を張り上げていた。手には自費で印刷した、湿っぽくて端の丸まったカラーコピーのチケット。ビル風が吹き抜ける路地で、薄い舞台衣装のスーツを通り抜けた冬の寒さが、骨の芯まで刺さる。サッカーの試合中、激しいスプリントの後に流した熱い汗とは違う、自分の価値を否定され続けて滲み出るような、粘り気のある冷や汗が背中を伝った。
「すいませーん、お兄さん本当にJリーガーだったの? え、代表なの? どの世代?」 時折、物珍しそうに足を止める観光客がいる。 「…U-17です。昔の話です。今はただの新人芸人です。お願いします、一枚だけでも」「へぇー、頑張ってね。でも、時間もないしチケットはいいわ。頑張ってる姿、写真だけ撮っていい?」 差し出した手は虚しく空を切り、航は引き攣ったような苦笑いを作ってそれを受け流す。かつては一万人の大歓声の中、味方の足元に寸分違わぬ精度でパスを届けていたが、今は千円のチケット一枚を誰にも渡せずに、寒さと情けなさで小さく震えていた。
その夜、航は一人、難波の外れにある古いオフィスビルの深夜警備のバイトに入っていた。誰もいない静まり返った廊下を、一時間に一度巡回する。懐中電灯の細い光が、ワックスの剥げた床をなめ、窓ガラスに映る自分の冴えない表情を照らし出す。 ふと、エントランスの大きな鏡に映った自分のシルエットを見た時、十七歳の頃の記憶が、鮮烈な色彩を伴って脳裏に蘇った。舞台はU-17W杯アジア予選の準決勝だ。
ウズベキスタンの灼熱のピッチ。気温は三十五度を超え、肺に吸い込む空気は焚き火の煙のように熱かった。全身から噴き出す汗は止まることを知らず、喉は砂を飲み込んだように焼けていた。スコアは一対一。アディショナルタイムは残り一分。観客席を埋め尽くす敵地のサポーターが放つ地鳴りのようなブーイングが、選手たちの体力を容赦なく削り取っていく。航が中盤でこぼれ球を拾った瞬間、不思議な感覚が彼を包んだ。スタジアムの喧騒がふっと消え、世界がスローモーションになった。
(あ、あそこだ。あそこに、未来がある)
右サイドを駆け上がる快速ウィング、佐々木健人の足元ではない。その五メートル先の「空白」に向かって、細い一条の光の道が見えた。敵ディフェンダーの意識が佐々木本人に向いているその隙間。 航が迷わず右足を振り抜くと、ボールは敵の間を針の穴を通すような精度で抜け、美しい弧を描いてそのスペースへと吸い込まれた。佐々木が走り込み、ダイレクトでボレーを放つ。ゴールネットが揺れる音が、聖堂の鐘のように響いた。佐々木がガッツポーズをして駆け寄ってくる「ナイスアシスト! 航、お前、すげえな!」 抱き合って喜ぶチームメイト。あの時、航は間違いなく世界の中心にいた。自分の出したパス一本が、敵地を沈黙させ、国の運命を変えた。あの「全能感」――世界が自分の意図通りに動く快感こそが、航を突き動かしていた原動力だった。
「…今は、何も見えへんな」 航は懐中電灯のスイッチを切り、深い暗闇の中で呟いた。 漫才の舞台に立つと、あの時のような「光の道」が全く見えない。客席はただの真っ暗な底なし沼で、自分たちの放つ言葉は、すべてその沼に吸い込まれて消えていく。どこに言葉を置けば客の心が動くのか、その座標が掴めないまま、時間だけが過ぎていく恐怖があった。
翌日、深夜勤務明けの眠い目をこすりながら、航は相方の阿久津と難波のスタバにいた。「阿久津、昨日のライブ、お前のボケの後に三秒の間があったやろ。あれ、俺がツッコミを急ぎすぎたんや。お客さんのディフェンス意識がまだ崩れてへんかった。あと一拍待って、観客が『次に何が来んねん?』と前のめりになった瞬間に刺すべきやった」「航、またそんな戦術ボードみたいな難しいこと言うて…。ええやん、俺がドーンとボケたんやから、航も勢いでバーンと突っ込めば。笑いなんて気合いやろ」「ちゃうねん、それがアカンねん! 漫才は、九十分のゲームを四分に凝縮した、極限の知的格闘技なんや。お前が放り込んだ、予測不能で無茶苦茶なパス。それを、俺がプロの解説者として論理的に処理して、そして最後に、俺自身が前線まで駆け上がって、お前の狂気にオーバーラップするんや」
それが、後に「実況解説スタイル」と呼ばれる、新しい型の漫才の誕生だった。航の司令塔としての冷徹な分析と、阿久津のルール無用の暴走が、最悪の相性から最高の化学反応を起こし始めた。
阿久津:僕ね、世界一の「外科医」になりたいんですよ。命の重みを感じたいんです!
航:まあ、尊い仕事やからな。覚悟があるならやってみ。
阿久津:よし、準備はいいか! メス!(と言いながら、手術台の上でチャーハンを作るように中華鍋を振り始める)
航:…(一秒、二秒、あえて溜めてから)はい、出ました。手術室の完全なキッチン化。これはもう医療ミスを通り越して、厚生労働省に対する武力行使ですね。
観客の頭の中に空いたスペースにくさびを入れるように、航はスルーパスを決め続けた。最後に阿久津のボケに航がツッコミを入れるのではなく逆に乗っかり、数分間のネタが終わった瞬間、かつてウズベキスタンのピッチで聞いた、あの「腹の底に響くような歓声」が、劇場の最前列から最後列まで一気に駆け抜けた。 航の脳内には今、明確な座標が浮かび上がっていた。客席の笑いの分布、温度の変化、そして次の一手を打つべきスペース。 「…見える。これだ、これが俺たちのピッチだ」
しかし、その高揚感は、ライブ後の難波の街ですぐに霧散した。荷物を抱えて御堂筋を歩いていると、高島屋前の巨大な街頭モニターが目に飛び込んできた。そこには、前日に吹田で行われたチリ代表と日本代表の親善試合のダイジェスト映像が華々しく流れていた。
「…あ」 足を止めた航の視線の先で、かつての親友、佐々木健人が鮮やかなボレーシュートを決めていた。そして、その直後、前から歩いてきた男がサングラスをずらしながら、航に声をかけた。
「…航? 瀬戸口航か?」
そこには映像の中と同じ顔があった。高級ブランドのセットアップに身を包み、モデルのような女性を連れた佐々木が、驚いた顔で立っていた。難波でのブランド物のショッピング帰りなのだろう。 佐々木の目は、再会の喜びよりも先に、航の汚れたスニーカーと、小道具を詰め込んだ安っぽいエコバッグに向けられた。その視線の動きだけで、航は自分たちの間に横たわる深くて暗い溝を再確認させられた。
「お前、今何やってるんだよ。消息不明だって聞いてたけど、まさかこんなところで…」 「…見ての通りだよ。今は、お笑い芸人をやってる」「え、芸人…? 嘘だろ」 佐々木は、汚物でも見るような、あるいは信じられない悲劇を見るような目で航を見た。「あんなに天才だったお前が、なんでそんな品なく騒ぐような真似を…。サッカーに戻ってこいよ。お前なら、まだやれるんじゃないのか。そりゃ、面白いヤツだとは思ってたけど、こんなところで燻ってるのは、才能の無駄遣いだよ」
その「善意」が、今の航には何よりも鋭い刃となって刺さった。佐々木にとって、サッカー以外の道はすべて「転落」であり「失敗」なのだ。かつて自分もそう思っていたからこそ、その純粋な同情が、今の自分の選択を根底から否定するように聞こえた。
「健人、心配してくれてありがとう。でも、俺は今、人生で一番頭を使ってる」 航は真っ直ぐに、かつての戦友の目を見つめた。「サッカーのピッチは一〇五メートル×六八メートルだけど、俺は今、サンパチマイクの周り数メートルという極限の空間で、お前とは違うヒリつく勝負をしてるんだ。俺は、『お客さんの笑い』というここでのゴールの快感を知ってしまったんだ」
佐々木は何も言わず、小さく首をかしげながら、ただ哀れみと戸惑いが混ざった顔で、迎えの高級車に乗り込んでいった。走り去るテールランプを見送りながら、航は隣に立つ阿久津を見た。阿久津は、自分の腹の音を鳴らしながら、能天気に笑っていた。
「航、あの車、すごいな。漫才で一発当てたら、俺らもあんなん乗れるんか? 助手席に綺麗な女の子乗せて、大阪中をドライブできるんか?」「…ああ。あんなのより、もっと速くて、もっと目立つやつを買ってやるわ。彼女のことは知らんけど。ま、そのためには、まず明日からのライブを全部『全勝』で飾るで」
航の胸の奥で、静かな、しかし決して消えることのない火が灯った。 司令塔の視界には今、かつては真っ暗な穴だった客席が、光り輝くスタジアムへと鮮やかに塗り替えられつつあった。




