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第一章:鳴り止んだホイッスル、響き始めた出囃子

芝生の匂いは、成功の匂いだと信じていた。 霧吹きで湿らせたような、重たくて青々としたあの匂い。それを吸い込むたびに、自分の血管に新しい酸素が巡り、世界が自分を中心に回り始める予感がしたものだ。


瀬戸口航せとぐち わたるが最後にその匂いを嗅いだのは、十一月の冷たい雨が降る、地方の小さなスタジアムだった。 J2リーグ第37節。彼がガンバ大阪からのレンタル移籍で在籍していたザスパクサツ群馬は、降格圏ギリギリを彷徨っていた。スタジアムを包むのは、熱狂というよりは、じっとりとした焦燥感。灰色の空からは、体温を奪うためだけに存在するような氷雨が降り注いでいた。


「航、準備しろ」


監督の乾いた声が、冷え切ったベンチに響く。後半三十分、〇対一の劣勢。 かつてU-17日本代表で、フランスやブラジルの同世代を相手に魔法のようなスルーパスを通し、「和製ピルロ」とまで称賛された司令塔に与えられた時間は、わずか十五分だった。


「中盤を落ち着かせろ。いいか、無闇に突っ込むな。前線にクサビを入れろ」


ピッチに足を踏み出した瞬間、航はかつての自分を探した。視界を上空へ飛ばし、敵と味方の配置を三次元の座標として把握する「神の視点」。かつては芝生の上に光の道が見えた。どこにボールを転がせば、敵のディフェンスラインが崩壊するか、呼吸するように理解できた。だが、現実は残酷だった。ぬかるんだピッチは航のステップを狂わせ、一歩踏み出すたびに、対峙するボランチの圧倒的なフィジカルに押し戻される。脳内ではパスコースが視えている。しかし、凍えた身体はそのイメージを具現化できない。そこへボールを届けるための、わずか「数センチ」の余裕が作れなかった。


後半四十分。航が溜めに溜めて前線へ放った浮き球のパスが、相手ディフェンダーにあっけなくカットされた。最悪の形でのロスト。そこからのカウンターは、航の横を一瞬でつき抜けていった。 必死に食らいつこうとしたが、軸足が泥に滑り、もつれるように転倒した。顔面に泥水が跳ねる。直後、自陣のゴールネットが揺れる音と、得点を示すホイッスルの音が、連続して鼓膜に響いた。試合を決定づける二点目だった。


「航! 何やってんだお前は! 勝ちたくないのか!」


隣を走っていた味方のベテラン選手が、形相を変えて怒鳴り散らす。「綺麗なパスなんていらねえんだよ! 泥臭く走れねえなら、今すぐ消えろ!」 その二分後、航の番号が交代ボードに赤く表示された。投入からわずか十分あまりでの途中交代の途中交代、いわゆる「インアウト」だ。これ以上の屈辱はない。ピッチを去る航の背中に、冷たい雨が容赦なく突き刺さる。スタンドのサポーターからは怒声すら上がらず、ただ重苦しく言葉にならない溜息が漏れた。電光掲示板に映る自分の顔は、ひどく惨めで、何より「終わって」見えた。これまで自分を形作っていた誇りが、雨水と共に排水溝へ流れ落ちていくのを感じた。


その夜。ビジネスホテルの狭いシングルルームで、スマホが震えた。届いたのは一通のLINE。 『航、お疲れ様。途中で交代になったけど、怪我はない? お父さんとテレビで観てたよ。また次があるから、焦らず頑張りなさい。あんたのパス惜しかったって、お父さんが言ってたわよ。来年はガンバに戻れるといいわね』


母親からの、何の悪気もない、純粋な励まし。それが航の心を決定的に折った。「次なんて、もうないんや、母さん…」 暗い部屋で、航は声を殺して泣いた。枕を顔に押し付け、自分の弱さを呪った。


一ヶ月後、ジュニアユース時代から九年間所属していたガンバ大阪から契約満了を告げられ、JFLのチームからのオファーも自ら断り、泥に汚れたスパイクを脱いだ。期待されて、ガンバユースから世代唯一のトップ昇格だったが、J1リーグ0試合、J2リーグ15試合1得点が航のプロ三年間の全成績だった。


半年後。 航がいたのは、大阪・難波にあるNSC(吉本総合芸能学院)の稽古場だった。ユース時代にサッカー界の至宝と呼ばれた男は、今や「出席番号12番」の無名な生徒に過ぎない。冷房の効きすぎた教室には、汗と、安っぽいワックスの匂い、そして剥き出しの承認欲求が充満していた。


「おい、ガンバ! お前の自己紹介、全然おもろなかったぞ! もっと自分を壊しや!」


講師の厳しい声が、コンクリートの壁に反響する。 NSCの楽屋――というより、ただの雑居ビルの一室は、常に殺気立っていた。 数百人の生徒が、数少ない「Aクラス」への昇格を狙って、お互いを敵として睨み合っている。そこにあるのはサッカーのセレクションよりも、ある意味では陰湿で、暴力的なまでの熱量。才能という名のアウトバーンを走ってきた航にとって、この鈍色の競争はあまりに過酷だった。


「……すんません」


航は頭を下げ、隅っこでボロボロのノートを広げ、台本を書き直していた。周囲では、誰かが一発ギャグの練習をし、誰かが相方と怒鳴り合いの喧嘩をしている。 そんな混沌の中に、土足で踏み込んでくるような大きな足音があった。


「なぁ、お前! さっきの『パス回し』の例え、俺は好きやで! 誰も笑ってへんかったけどな!ハハッ!」


それが、阿久津剛あくつ つよしとの出会いだった。 阿久津は、首元が伸びきったヨレヨレのTシャツを着て、場違いなほどデカい声で笑う男だった。 高校時代は地方予選の一回戦で負けるような弱小野球部の、さらに補欠。「俺、野球やってた時な、ずっとベンチで野次飛ばしてたんや。でもな、ある時気づいたんや。俺が『ピッチャーびびってる!』って叫んだ瞬間、相手のエースがほんまにビクッとしよってん。その時思ったね。あ、俺、ボール投げるより言葉投げる方が、相手の心臓を直接狙えるわって!」


航は、そのあまりにも浅はかで、かつ純粋な動機に、不覚にも少しだけ救われた。「お前、元日本代表なんやってな! すごいな! 代表なんて、テレビの向こうの生き物やと思ってたわ!」「代表言うてもアンダーやし。しかも、もう終わった話や」「ええやんけ、代表! 俺なんて補欠代表やぞ! 誰も代表してへん、ただの野次馬代表や! 代表同士、仲良くしようや!」


その底抜けの明るさに、航の閉ざされていた心がわずかに動いた。 二人は試しにコンビを組み、稽古場の近くにある吉野家で初めての「ネタ合わせ」という名の雑談をすることになった。カウンターに並び、紅生姜を山盛りに乗せる阿久津を、航は観察した。


「航、お前サッカーやってたから足めちゃくちゃ速いんやろ?」 「まあ、五十メートル六秒フラット。短距離の瞬発力には今でも自信あるで」「この前な、一緒に昼飯食いに行った時思ったんやけど。牛丼が出てくるスピードより、お前が食い終わって店出るスピードの方が圧倒的に速かったからな。あれ、物理法則無視してるで」「それ、食い逃げみたいやないか。ちゃんと金は置いてきたで。ただ、急いでただけや」「速すぎて、店員さんが『あ! お客さん、オフサイドです!』って旗揚げて追いかけてきたで。あんなん、飲食店のルールやないで、スポーツのルールや」「飲食店にオフサイドがあるかいな。…あ、でもそのフレーズ、悪ないな」


航はボロボロのネタノートに「飲食店」「オフサイド」と書き留めた。 サッカーと漫才。一見無関係な二つの世界が、航の中で重なり始めた瞬間だった。論理で笑いを作る航と、直感で空気を壊す阿久津。「阿久津、コンビ組まへんか。で、コンビ名やけどな」「おう、なんや。かっこええの頼むで。『レアル・マドリード』とかか?」「『おふさいど』にせえへんか。ひらがなで『おふさいど』。ルールからはみ出してるけど、ギリギリを攻めるっていう意味で」「ええやん!『おふさいど』! なんか、俺らみたいなはみ出し者にぴったりやわ!」


阿久津は、歯を見せてニカッと笑った。 航は思った。今の自分に必要なのは、緻密な戦術でも、輝かしい経歴でもない。ルールを忘れ、ただがむしゃらにバットを振るような、この男のエネルギー。泥臭くても、最後に客の心に届く一言だ。


しかし、現実は甘くない。 NSCの初舞台。満員の客席の前で放った最初のボケは、豪快な空振りだった。 静まり返る客席。阿久津の空回り。 航は、あの雨のスタジアムで感じたのと同じ、絶望的な感覚を味わっていた。 笑いのピッチには、まだ「神の視点」など存在しなかった。ただ、一筋縄ではいかない観客という名の「敵軍」が、冷笑を浮かべて自分たちを待ち構えていた。

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