21 家族
ぱち、と薪が小さく爆ぜた。
火の粉が炎に煽られて、ふわりと飛んで消えてゆく。
同時にまぶたの裏から涙がにじみ、僕はぎゅっと目を閉じた。痛みがあるのは乾きすぎたせいだろう。瞳を湿らせ、それからゆっくり目を開ける。
(ここは──?)
いつのまにか、僕は家に戻っていた。
家の中は真っ暗だ。けれど暖炉だけが赤々と燃えていて、僕はそのすぐ目の前に腰を下ろして揺らぐ炎を見つめていた。
ここは、寒い季節のトリーお気に入りの場所だった。火があると、ご飯と寝るとき以外はずっとここから動かない、それほど好きな場所だった。
毎日ふかふか座布団を引きずってきて、そこに寝転び背中と腹をじっくりと暖めて。あまりに火の近くにいるものだから、羽が焦げると座布団ごと少し後ろに引っ張ると、「ぎゃう」って怒って牙を剥く。
なのにいま、僕が暖炉を独り占めしてるのに、トリーはここにやって来ない。
ここはボクの場所だよって、ぎゅるぎゅる文句を言ってこない。
どうしてだろう。
とても不思議だったけど、僕はひどく疲れていた。
そこで考えることをひとまず止めて、僕はそのまま目を閉じた。
気がつくと、今度は明るくなっていた。
頭と肩のあいだの隙間、そこはすっかり冷たくなっていて、いつもの窪みもなくなっていた。トリーはとっくに目を覚まし、遊びに行ってしまったんだ。だから僕も慌てて布団を抜け出して、朝ご飯の支度をする。
いつものようにお皿を並べて肉を盛る。トリー最近のお気に入りは、強火で焼いて外側だけ焦げ目をつけた肉と骨のスープ。いつもなら、皿に盛るのを待ちきれず、「はやくはやく」って急かしてくる。なのに今日はトリーの声が聞こえない。もう食べるだけなのに、いつまで待ってもトリーは来ない。
外で獲物を狩って、そのまま食べちゃったのかな。
だからお腹が空かないのかな。
僕はテーブルに頬杖をつきながら、そんなことを考えた。
昼を過ぎて部屋の中が暗くなり、そして夜になってもトリーは帰ってこなかった。家の中はしんとして、床を蹴る軽やかな爪音も、座布団を引きずる小さな音も、そしてお腹が空いたと急かす声も、なにも聞こえてこなかった。
目の前に、すっかり冷たくなった肉とスープと僕の芋の皿がある。
手を伸ばせばすぐ食べられるはずなのに、口にしたいと思わなかった。それになんだか力が抜けて、僕はテーブルに突っ伏した。頬がひんやりして気持ちいい。目を閉じるとあたり一面真っ白で、まるで深い霧の中にいるようだ。
と、目の前を影がよぎった。
長い尻尾、獣の足に少しだけ小さな翼、そしてふんわりと広がった耳の後ろの飾り羽。
トリーだ。
どこに行くの、僕はここだよ。
手を伸ばすとトリーの影が3つに増えて、楽しそうに踊りだす。
「そうか…… トリーは」
あの碧の川と赤い岩の崖の上、真っ青な空のもと、トリーたちは舞っていた。くるりくるりと楽しそうに光を弾いて踊るたび、きゃーう、きゃーうって喜びの声をあげるたび、僕もたまらなく嬉しくて、そして幸せな気持ちになった。
良かった、トリーはひとりぼっちじゃなかったんだ。
目を閉じれば目蓋の裏に、楽しそうなトリーの姿がはっきりと蘇る。
もう一度、あの光景を見たかった。
だから僕は、布団に潜ってゆっくりと目を閉じた。
あの姿を忘れないよう、しっかり心に刻んでおこう。
◇ ◇
「ミカ、ミカ!」
目が覚めた。
なに、って答えようとしたけれど、がくがく揺さぶられて声が出ない。おまけに視界がぐるぐる回って気持ち悪くなってきた。
アキのヤツ、いきなりなんなんだよ、止めてくれよって思っていたら、いきなり頬を張られて舌を噛んだ。
「──いっ!」
「おい、しっかりしろ!」
しっかりもなにも、あんなに激しく揺すられてたら返事なんかできやしない。それにせっかく気持ち良く寝てたのに、なんで邪魔して起こすんだ。本当にアキは、いっつも勝手で無茶ばかり言ってくる。
苛立つまま、無言でアキの腕を振り払った。ところがアキはあからさまにほっとして、僕の頭を乱暴に掻き回す。
「……よかった。目ぇ、覚めたか」
「な、ん……ごほっ!」
文句を言おうと口を開けたら、声がひしゃげて掠れていた。喉がすっかり干上がって、ひりひり痛みが増してくる。
「待ってろ。水、持ってくる」
アキは僕を布団に押しつけ出て行った。
起きろだの寝てろだの、さっぱりわけがわからない。でも窓の外が眩しいから、僕は寝坊したんだろう。喉も痛いし、きっと風邪をひいたんだ。そうか、それでアキは心配して来てくれたのか。なら、ありがとうって言わなくちゃ。でもあんなに乱暴しなくてもって、少しだけ注文もつけておこう。そんなことを考えながら寝台からはい出して、僕は立てずに床の上にへたり込んだ。
(あ、れ……?)
足に力が入らない。両手も小刻みに震えているし、なんだか寒いし身体が重くて座ることさえおっくうだ。どうしようって寝台にもたれかかって呆然としていると、ばたばたと音がして、おじいさんがやってきた。
「ミカ! ……ああほれ、そのままで。いまアキくんが、薬を煎じているからの」
信じられない。おじいさんが来てくれた。おまけに僕のこと「ミカ」って呼んで、水を飲ませてくれている。優しく背中をさすりながら、もう大丈夫だよって力づけてくれている。
涙が出るほど嬉しかった。トリーがいなくて寂しくて、ずっと会いたかったんだ。
(ああ、そうか……これは、夢なんだ)
おじいさんが帰ってくるのはまだまだ先。だから、これは全部夢だ。現実は辛いばかりで都合良くいくはずないって、僕は身をもって知っている。
でも、夢なら。
少しだけ、我侭言ってもいいんじゃないか。
「僕、ずっと……おじいさんに、会い、たかった。どう、して。……もっと、早く……来れなかった、の?」
「……すまなかった。寂しい思いを、させてしまったの」
「うん……」
口がうまく回らない。だけど、おじいさんにはちゃんと伝わっていたようだ。
おじいさんは僕の隣に腰を下ろすと腕を回して僕をゆっくり引き寄せた。肩に乗ったぶ厚い手から伝わる熱にほっとする。トリーも抱っこが好きだったけど、きっとこんな気持ちだったんだ。可愛くて、とっても優しい僕のトリー。そんなトリーを思い出したら小さな子供みたいな我侭が、ひどく恥ずかしくなってきた。
「ごめ、なさい。僕……ちゃんと、待てる、から。だから、村の人、と。きちんと、お話、してくだ、さい」
「ほ。もう終わったよ」
「……え?」
「用事は済んだということさね」
なにか変だ。おじいさんはまだ戻っていないはずだ。これは夢で、だから目が覚めたら僕は布団にいるはずなんだ。だっていつの間にか喉の痛みが引いていて、身体も楽になっている。こんなことはありえないから夢のせいに違いないのに、突然お腹がウシガエルのように鳴き出した。そのうえすぐに猛烈な空腹感が押し寄せて、唾が口の中にあふれてくる。
(夢って、お腹が空いたっけ……?)
目が回る。
ぐらりと世界が傾いて、僕はもう、なにがなんだかわからなかった。
◇ ◇
それから僕は、アキにこれ以上ないってぐらいに呆れられ、そして盛大に叱られた。おじいさんも庇えないほど、僕は馬鹿をしてしまったんだ。
「──丸3日、寝っぱなしで飲まず食わず? ありえねぇ。普通、一度ぐらい起きんだろ!?」
「少しは、起きたよ……たぶん」
「目ぇ開けたのを『起きた』とは言わないんだよ! ああほら、少しずつ、ゆっくりだぞ?」
「うん……」
暖炉が赤々と燃えている。その正面、一番火の当たる場所に腰を下ろして湯飲みをそっと包み込む。震える手をいなしながら恐る恐る口にするのは、アキが作ったトリーの草を煎じた薬。爽やかな森の香りがほんのり甘く、そして少しだけ酸味があってとても優しい味がする。
アキに背中を支えてもらって湯飲みに手を添えられて。子供みたいに世話を焼かれて飲むあいだ、おじいさんはすりつぶした花芋スープを作ってくれた。お腹がびっくりしてしまうから、これも匙を使ってひとくちずつ口にした。それらを全部飲み干すころには足の先までほかほかしてきて、頭もすっきり澄みわたる。すると手足に力が湧いて、僕はやっと「いつもの僕」に戻れたようだ。
立とうとして止められたから、背筋だけはしゃんと伸ばす。そして心配かけてごめんなさいと謝ると、アキもおじいさんも笑って僕を許してくれた。ただ、どうしたんだ、なにがあったと訊かれると、胸が詰まって言葉が出ない。
そんな僕に、アキはあごの先をこすりながら呟いた。
「なあ、トリーと喧嘩でもした?」
「……なんで」
「だってさ、こんなに『あれ』の香りがするのに、あいつ、『ちょうだい』しに来ないから」
「…………」
「おやおや、トリーは拗ねてしまったのかの。大丈夫、じきに戻ってくるだろうて」
心配するなと励ますように、おじいさんが僕の背中に手を当てた。2人は僕たちが喧嘩したって思ってる。トリーは帰ってくるって信じてる。
言わなくちゃ。
もう、トリーはいないんだ。
だから精一杯息を吸い、背中の温もりに勇気をもらって僕は一気に言い切った。
「……トリーは戻らないよ。仲間といっしょに……行っちゃったんだ」
トリーに北の山に誘われたこと。
そこにトリーの仲間がいたこと。
トリーが飛んでいったこと。
僕は全部説明した。
アキとおじいさんは、まず危険な山に行ったことで僕を叱り、トリーの仲間で目を丸くして、そして最後に笑いだした。アキなんか腹まで抱えて笑っていて、まるきり信じていないようだ。
「あのときだってトリーは戻ってきたんだぜ? 仲間に誘われたからって、帰ってこないなんてありえねえ」
「そうさ。トリーはミカが大好きだからの、いま、戻っている途中かもしれん」
「……でも。もう5日目だ」
「遊びに夢中になったんだろ? そんで遅くなってんじゃないの?」
案外近くにいるかもよ、とアキは口の端を引き上げる。だけど僕の想いは別だった。
「僕は……トリーが戻らないほうがいいって、思ってる」
トリーが仲間と共に宙を舞う。上に、下に、錐揉みしながら急降下して、くるくる螺旋を描いて高度を上げて。生き生きと空で遊ぶトリーの姿に僕はひどく驚いて、そして同時に気がついた。
これが、トリーの本当の姿だ。
トリーの卵が親元に残っていたら、いまごろトリーは仲間と一緒、あんなふうに楽しそうに飛んでいた。ひとりきりで寂しい思いもしなかった。僕といっしょに地べたなんかを歩かなくても、行きたいところにひとっ飛びで行けたんだ。
僕の願い、それはトリーが幸せになることだ。
だったら戻してあげなくちゃ。
トリーは絶対手放さないって決めていた。けれど自由自在に空を舞い、心底楽しそうなトリーを見たら、それではダメだって思い直した。トリーは仲間のところに行くべきなんだ。
「おい。──本気か?」
「うん。僕は本気だよ」
「ばか。そうじゃなくて!」
「トリーは家族、だったかの?」
「……はい。でも、家族だから」
トリーの幸せを願うなら、自由にしてやらなくちゃ。たとえ一緒に住んでなくても、僕とトリーは家族だって信じてるし、僕も安心できるんだ。だっていまみたいに具合が悪くなったとき、僕にはアキやおじいさんがいてくれる。でも、トリーはずっとひとりで頼れる仲間がいなかった。それに僕らはこうして言葉を交わすことができるけど、トリーの言葉はわからない。こうして欲しいって気持ちはわかってやれるけど、それも完璧じゃない。トリーは仲間といたほうが、絶対幸せになれるんだ。
僕はトリーの親だから、だから、トリーを応援してやらなくちゃ。
「おまえ……いいよかよ、それで」
「…………」
俯いたその先で、アキの拳が震えていた。おじいさんの暖かい手のひらが、背中でゆっくり動いている。無理をしなくていいんだよ、と労る気持ちが伝わって、僕はもう、涙をこらえるのが精一杯になっていた。
「本当に、トリーが帰ってこなくてもいいのか!?」
「……そんなの……決まってるじゃないかっ!」
アキがぐすっと鼻を鳴らし、叫びながら床に拳を打ちつけた。
僕も負けないぐらいの声を出し、アキに向かって叫び返した。
あれが最後になるってわかっていたら、もっと肉を焼いていた。トリーの好きな草をまぶして、お腹いっぱい食べさせてやっていた。ばあちゃんの傷薬をたっぷり塗って、ウロコをつやつやに磨き上げて送り出してやりたかった。
「トリーに会いたい! 声を聞きたい! 抱っこしたい!」
トリーになにもしてやれなかった。いつかは巣立ちのときが来るだろうって思っていたのに、なにも準備をしてこなかった。僕はずっと後悔ばかりだ。だけど許されるなら、もういちどトリーに会いたかった。
涙があふれて止まらなかった。もう遅いのに。いくら泣きわめいても、アキに当たり散らしても、トリーは戻ってこないのに。
あまりにも情けなくて膝を引き寄せ丸くなり、顔を伏せて目を閉じた。
少しひとりになりたかった。
もう夢の中に逃げたりしない、ちゃんと立ち直ってみせるから、だから時間が欲しかった。
「おい、ミカ!」
「ミカ、ほら!」
僕の願いは通じなかった。
アキが肩をつかんで揺すってくる。おじいさんが背中をなんども叩く。顔を上げろと言われたけれど、とてもそんな気になれなかった。
トリーの巣立ちを喜べない自分がたまらなく嫌だった。
こんな情けない顔、とてもじゃないけど見せられない。
きゃう!
ああ、トリーの声だ。
床を蹴る爪の音、これはちょっと伸びてるな。しばらく恨まれるだろうけれど、切ってやらなきゃ。最近は、ばあちゃんの傷薬でもなかなか許してくれなくなった。今度はどうやって機嫌をとろう。ああ、でも。もうこんなこと、考える必要なくなったのに。
きゃううっ!
胸の隙間に「なにか」が無理矢理押し込まれ、僕のあごをぺろりとなめた。その暖かい舌と荒い息にはっとする。
まさか。
確かめる間もなく押し倒された。「それ」は僕の上で跳ねまくり、勢いよく顔中をなめ回す。確かめる暇もない。けれどうっすらと見えた先には振り回される長い尻尾。ぶんぶん唸りをあげているのは虹色の6枚羽。
トリーだ。
鼻の奥がつんとした。嗚咽がもれて、さっきとは別の涙があふれだした。するとトリーは「きゃうう、きゃうう」鼻を鳴らしてますます激しく顔をなめ、それで気づくのが遅れてしまった。
けろけろけー!
最悪だけど、僕はとても幸せだった。




