〜 空への翼
ついにトリーが空を飛んだ。立派になった翼を広げ、優雅に宙を舞っていた。その姿は相変わらず格好良くて、「神々しい」そんな言葉がぴったりだ。
(……良かった)
これまでミカもトリーもずっと苦労のし通しだった。だから俺は、ささやかだけど2人を祝福したかった。それで次の日の朝、まだ暗いうちに家を出て、魚を釣ってミカの家に押しかけたんだ。
「あ、アキ。おはよう! こんなに早くどうしたの?」
「よお! へへ……これ、みんなで食おうぜ」
「……え。ええ?」
ミカは一瞬、怪訝そうな顔をした。でも「お祝いだ」と差し出した手桶の中をのぞき込むと、目を見開いて満面の笑みになる。中にいるのはハヤとアマゴが合わせて5匹。どれもそこそこ大きくて、短い時間で釣ったにしては上出来だ。
「ずっと魚はトリーに食わせてたんだろ? 昼は俺が作るからさ、今日は少しゆっくりしろよ」
「アキ……ありがと。魚はホント、久しぶり」
こめかみを掻きながら、ミカがそっと俯いた。そのとき目尻をぬぐったことに気づかない振りをして、魚を大きな桶に入れ替える。ちょっと気恥ずかしかったけど、俺もとても嬉しかった。
トリーは狩りの名人だ。だけど羽が抜けて飛べなくなって、狩りがまったくできなくなった。それでトリーは気落ちしたのか、いつものうるさい「おしゃべり」までしなくなるほど弱ってしまった。食もすっかり細くなり、ただでさえ過保護なミカはものすごく心配した。それでミカは、トリーが早く元気になるよう、少しでも食べられるよう、いろんな獲物を試したんだ。
ヒナのころよく食べた地虫、セミの幼虫、ウサギ、キジ、ヤマドリや川魚。たくさんあれば、なにか食べられないだろうか。
ミカの狙いはぴたりと当たった。トリーの食事は徐々に増え、少しずつ元気になった。だけどミカは……というか俺たちは、トリーほど狩りが巧くはない。たくさん罠を仕掛けて山の獣は獲れたけど、魚だけは別だった。どういうわけかミカは釣りが苦手だから、仕掛けでなんとかしようとしたけれど、それだっていつも獲れるわけじゃない。現に今朝、中をのぞいてみたら一匹もいなかった。
だからミカは、少ないながらも獲れた魚は全部トリーにあげていて、自分はまったく食べなかった。それで俺は、魚を「お祝い」にしたんだ。
「今日は俺が作るから。香草もさ、いろいろ持ってきた。な、どう料理する?」
「そうだなあ。うーん……塩焼き?」
「おいおい、そんなんでいいのかよ」
「うん。これが一番魚の味がわかるだろ?」
ミカは照れくさそうに頭をかいた。俺は母さんから教わったネギソースを試すつもりでいたけれど、ミカがそう言うならまた別の機会に披露するか。
「じゃあ、俺たちは塩焼きで決まり! トリーはどうしようか?」
「んー。魚は生きたままあげると喜ぶかな」
「……すげ。さっすがドラゴン」
「なんだかね、最近は狩りっぽいことするんだよ」
「はは。それじゃあ、もうすぐ完全復活ってことだな」
やったじゃないかと肩を叩くと、ミカは心底嬉しそうにうなずいた。この夏、ミカも少し痩せたから、これできっと元に戻る。ミカもトリーも元気になって、なにもかもうまくいく。
「んで? 肝心のトリーはどこよ」
「さっきまで畑の見回りをしてたけど……」
──きゃーう!
トリーだ。どこだと探すと昨日とは別の樹のてっぺんで、飛ぶから見ててと、そう言っているようだ。俺とミカは手を振って、トリーのことを見守った。トリーはゆっくり枝の先まで歩いてゆくと身体を沈め、そして──
ばさばさばさっ
ぎゃぎゃっ、ぎゃ!
「ああっ、トリー!」
真っ逆さまにトリーが落ちた。ミカは悲鳴を上げて駆け出したけど、俺はまだ冷静だった。トリーの落ちた先は葉が生い茂った枝の中、あれなら大きな怪我はしないだろう。新しく生えた羽が少し心配だったけど、昨日着地であれだけ派手に転がったのに傷はひとつもなかったんだ。きっとトリーは大丈夫。だけど、どうして今日になって飛べなくなったか、それが不思議でならなかった。
ミカに遅れて樹の根元に駆けつけると案の定、トリーは枝の中から転がるようにぽとりと落ちて、目をぱちくりさせていた。いったいなにが起きたのか、まるでわかっていないようだ。
「トリー、トリー、怪我はない? 大丈夫?」
ミカが抱き上げトリーを優しく労った。トリーはきゅうきゅう鳴いてミカに甘え、なんというか、見事に2人だけの世界を作っている。そこに割って入るのは気が引けたけど、俺は確認したかった。このままじゃ、トリーはまた飛べなくなるかもしれないからだ。
「なあ、トリーは平気?」
「うん。羽も無事だし、怪我もないみたい。……よかった……」
きゅーうぅう
「そっか……あのさ、ミカ。悪いんだけど、ちょっとトリーのこと貸してくれね?」
「かまわないけど……どうしたの?」
「いや、ちょっと」
「優しくしてよ? ──トリー、アキのところに行こうね」
きゃー
トリーを抱き上げまずは背中をなでて機嫌を取る。それから腰を下ろして膝の上で仰向けにして、俺はしっかりと確認した。
トリーが樹から落ちたのは、このせいだ。
「やっぱり……ミカ、これじゃトリーは飛べないよ」
「えっ。どういうこと?」
「ほら、これ」
脇の下に手を入れて、トリーを立たせてミカのほうに向けてやる。そしてお腹を撫でて軽く叩くと「ぽこん」といい音がした。
「ここんとこ、ずーっと食っちゃ寝してたんだろ? こんなに腹が出ちゃって、まあ」
「…………」
「さっきさ、尻から落ちてったから、気になったんだ」
ミカはあんぐりと口を開けて固まった。トリーは首をかしげて不思議そうに自分の腹を見つめている。
そこはぽっこりと丸く膨れ、いかにも重たげに垂れていた。
「で、でも! 昨日はちゃんと飛べたのに!」
ミカがぱっと手を出しトリーを奪って抱きしめた。そして恐る恐るトリーの腹に手を伸ばし、口を曲げてなんとも情けない顔をする。がっくり項垂れるミカをトリーがなぐさめているけれど、あんまり効果はないようだ。
「それが不思議なんだよ。なあ、昨日なに食べた?」
「……お祝い、だったから。肉に『トリーの草』まぶして、たくさん」
「うーん……食べ過ぎたんだろうけど」
「うっ……だけど。夕べご馳走だったからって、こんなにすぐ──!」
と、ミカがひゅっと息をのむ。両手でトリーを抱き上げて、まじまじと腹を見て、そして俺に顔を向けると真剣な目で問いかけた。
「ちょっと……聞きたいんだけど」
「う、うん」
「今朝、川で仕掛け……見た?」
「ああ。中は空っぽだった、けど」
「……いつもはさ。毎日、1匹は入ってるんだ」
ふうっと肩から力を抜いて、晴れやかに微笑みながら、ミカはトリーを降ろして両手で顔を包み込む。けれど不穏な空気を感じ取ったかトリーの腰は引けていて、逃げ出そうともがいていた。トリーが身をよじったその一瞬、尻尾が伸ばされ助けを求められた気がしたけれど、俺にどうこうできるもんか。だってそのとき、ミカの目はじっとりと据わっていたんだ。
「ふ、蓋にさ、微妙な隙間があったから……夜中にイタチが来たかも!」
それでも俺はトリーとの友情のため、助け舟を出してみた。だけどミカは「昨日、ちゃんと閉めたの覚えてるから」とばっさりと切り捨てた。そしてトリーとしっかり目を合わせ、ことさら優しく語りかけた。
「トリー? 今朝、食が細かった理由がわかったよ」
きゅー……
「具合が悪くなったんじゃなくて、本当に良かった……だけど!」
こつんとおでこを合わせてトリーの喉をくすぐって、ミカはトリーを開放した。そしておもむろに立ち上がり、両手を握ると鼻息荒く宣言した。
「ちゃんと飛べるようにならないと! トリー、一緒に走ろう!」
きゃー
「ほら、アキも! いくよ!」
「なんで俺!?」
「いいから、早く!」
ミカは頬を紅潮させて、ひとりでさっさと駆け出した。俺はトリーと顔を見合わせ、仕方がないと肩をすくめて立ち上がる。
「おまえ、さっさと痩せないといつまでたっても飛べないぞ?」
きゃう
わかっているのかいないのか、トリーはミカを追ってちょこちょこと走りだす。それを見ながら、俺はひっそりたまった息を吐き出した。
こうなると、トリーが痩せて飛べるまで、つき合わされることになりそうだ。どういうわけか、ああなったミカに俺は逆らえたためしがない。
「アキー! 早くー!」
「はあ……いま行くー!」
トリー、早いとこ痩せてくれ。
心の底から、俺はそう祈らずにはいられなかった。
◇ ◇
理不尽だ。
ミカとトリーにつき合って筋肉痛になったのを、父さんに「家の手伝いをしないからだ」って決めつけられて、めちゃくちゃ仕事を押し付けられた。おまけに身体中が痛いってのに婆ちゃんは「あの薬」を使わせてくれないし、勉強だって容赦ない。油が勿体ないからさっさと寝ろ、でも明るいうちは畑仕事って、これでいつ「勉強」できるってんだ。
本当に、世の中って理不尽だ。
だけど今日は久しぶりにミカとトリーに会えるから、俺の機嫌は上々だった。なのに会うなりミカは肩を落とし、大きな息を吐き出した。
「……なんだよ」
「アキ。僕、どうしたらいいのかな?」
ほとほと困り果てたといった様子が気になって、俺は説明を促した。
ミカは蜜柑の下に腰をおろし、ぽつりぽつりと語りだす。
聞けばそれは、なんとも難しい問題だった。
「着地か……」
「前に飛ぶ練習はしたんだよ。でもそっちのほうまで気が回らなくて」
ミカの悩みはこうだ。
飛べるようにはなったけれどトリーの着地はイマイチで、なんとも危なっかしいらしい。
豪快に地面を転がるか、あるいはセミのように樹に張りつくか。
これじゃいつか怪我をするって、ミカはずっと心配してる。それで、もっと安全な着地の仕方を教えてやりたいんだけれど、どうすればよいのかわからないって悩んでいるんだ。
「うーん。俺たち、飛べないもんな」
「そうなんだよ。だから困っちゃって。……前は、もう少し巧かったはずなんだけど」
「じきに思い出すんじゃないの?」
「そうかな……」
「こればっかりはさ、トリーに任せるしかないと思うけど」
こうして話している間にも、トリーは畑の上を気持ち良さそうに飛んでいる。
くるり、くるりと旋回しながら高度を落として家のほうにやってきて、そして。
──がすっ!
「うわあっ!?」
トリーは勢いを殺さぬままに家の壁に突っ込んだ。凄い音にびっくりしたけど、ここからでは影になってトリーの様子が分からない。俺は慌てて立ち上がって駆け出しかけて、ミカの様子がおかしいことに気がついた。いつもなら真っ先にトリーに向かって走り出すのに、その気配がまったくない。
どうした、と振り返ると、ミカは真っ青な顔で突っ立ったまま、じっと家のほうを見つめている。
「だだだ、大丈夫! ……お、一昨日は屋根の上を転がって、向こう側に落ちたけれど、怪我しなかった!」
「…………ミカ?」
「そ、それに! 昨日だって樹の枝に跳ね返されて地面に突っ込んだけど、羽は折れずに無事だった!」
落ち着かなくちゃ、落ち着かなくちゃ。
ミカは虚ろな目でぶつぶつと呟いている。
マズい。
これではミカが先にまいってしまう。
俺は、急いでトリーを連れてこようと駆け出した。
「トリー、無事かっ!?」
きゃあーう
トリーは必死の形相で壁にへばりついていた。情けない声で助けを求めているけれど、怪我している様子はみられない。元気な様子にひとまずほっとしたけれど、俺は首をひねらざるを得なかった。
「なあ、降りてこいよ」
きゃーう!
「大丈夫だって。怖くないから」
きゃーう!
「アキ! トリー、トリーは……」
「あ、ミカ。大丈夫、平気みたいだ」
「でも、『助けて』って……!」
「落ち着けよ。ほら」
息も絶え絶えにやってきたミカを宥めて、トリーのほうに押し出した。
ミカは、あれだけ激しくぶつかったのに元気そうなトリーの様子にほっとして、それから怪訝そうに眉をひそめて呟いた。
「ねえ……あれ」
「降りられないんじゃないの?」
「でも」
きゃーう!
きゃーう!
きゃあーぅうぅ……!
助けて、助けて。
トリーは必死になって叫んでる。
確かに壁にしがみつくのは大変だろう。でも、あの場所なら飛び降りても問題はないはずだ。
「……自分がどこにいるか、気がついてないとか?」
「やっぱり……そうなのかな」
言うなりミカはそそくさと踏み台を持ってきて、そしてトリーに手を伸ばす。
「トリー。ほら、もう大丈夫だよ」
トリーの足を窓の雨除けに乗せてやる。するとトリーはぴたりと鳴き止み、ゆっくり足もとに目を向けた。それからひょいと地面に降りて、ばつが悪そうな顔をする。
……きゃう
目を逸らしながらひとこえ鳴いて、トリーは家の中に入っていった。それからしばらくトリーは姿をくらませたけど、次の日からは、少しずつ着地が上達したということだ。
◇ ◇
久しぶりに訪ねてみたら、トリーはすっかり元通りになっていた。
「よお、トリー!」
きゃるりっ!
カワイイトリー、ダイスキトリー
きゃるきゃるりっ
トリーは屋根からついっと滑空しながら飛んできて、透明な羽で減速すると、ふわりと俺の胸に張りついた。
「よーしよしよし。着地も巧くなったな」
きゅうきゅうきゅう
「歌も復活したんだな。ずいぶん遠くまで聞こえてたぞ?」
きゅーう、きゅーう
トリーハカワイイ!
ダイスキスキ!
「ははは、相変わらずだな」
玄関脇に荷物を降ろし、畑のミカに呼びかける。しかし手が離せないのか、ミカは片手を大きく振って合図をすると、またすぐ仕事に戻ってしまった。仕方がないので俺も勝手に用事を済ませることにする。
きゃー、るるるーう
「うん、これはな、白黄瓜っていうんだ。井戸で冷やすと美味しいんだぞ?」
瓜を洗って桶にいれ、井戸の中につけておく。トリーは興味津々で見ていたけれど、一度なめて食べられそうにないとわかると、さっさと玄関に向かって行った。
きゃう! きゃう!
「はーいはい」
水を張ったタライの中で「早く!」と待ち構えるトリーの足を綺麗に洗い、布で丁寧に拭いてやる。それからぽいっと放り投げると、トリーは危なげなく着地して、俺の足にまとわりついた。
「靴脱ぐからさ、ちょっと待てって」
ぎゃ!
ところが家の中に入ろうとすると、トリーが威嚇のポーズで邪魔をした。
「なんだよ、ほら、裸足だろ?」
ぎゃぎゃっ!
ダメだよ。
トリーは自分の使ったタライを見ると、俺に向かって抗議するようひとこえ鳴いた。俺がそのまま動かずいると、トリーはまた、タライを見つめて「きゃう!」と鳴く。
もしや、トリーは俺にも足を洗えと言っているのか。
「……こう?」
きゃう!
ちゃぷ、と片足をタライに突っ込むと、トリーはぴょんと飛び跳ねた。巧い具合に置かれた椅子に腰を下ろし、両足を水の中ですりあわせるよう動かすと、トリーは布をくわえて俺の手元に持ってきた。
「ありがと……」
きゅ!
トリーに使った湿った布で足を拭くと、トリーは「こっち!」と振り返りながら居間のほうに歩いてゆく。後を追って居間に行くと、トリーは今度は身体用の布をくわえて座布団にごろりと横になった。
白い腹を上にして、前足をちょいと動かして。つぶらな瞳でじっと見つめられて、どうして逆らうことができるだろう。
「はーっ。おまえさぁ、俺が断れないって、わかってんだろ?」
きゅーう
喉の下をくすぐると、トリーは気持ち良さそうに目を閉じた。そしてそのまま力を抜いて、全身を俺に委ねてくる。抱き上げればすり寄って甘えてくるし、身体を拭けば気持ち良さそうに喉が鳴る。
隅々まで拭いてやって、いい具合に溶けたところで翼も軽く揉んでやる。するとトリーは手足の指を大きく開いて「くくくくくっ」と笑いながら身をよじらせた。
「……お? なんだ、ここ、気持ちいい?」
くくっ、くくっ、くくくくくっ
……はーう
「そうか、そうか。ほーれ、ほれ。どうだ?」
くっ、くっ、くくくっ、くーう
トリーは長い尻尾をぴーんと伸ばし、それからくたりと力を抜いた。縦に抱き直して背中をさすると「きゅーん」と鼻を鳴らして俺の頬をぺろりとなめる。
ガトー、ガットー
くう
「トリー、それなら『ありがとう』だ」
ガットー、ガットー
アリガットー
「よーしよし、よく言えたな」
きゃう
俺にぴったりひっついて、甘えるトリーはやっぱり可愛い。
ミカが帰ってくるまでのほんの少しの蜜月を、俺は存分に楽しんだ。




