14「おかえり」
いまは夏も真っ盛り。毎日熱くてうんざりするけどおかげで畑は豊作だ。ここ数日は収穫続きでてんてこ舞いだったけれど、それもなんとか終わらせた。だからこれからしばらくは、トリーといっしょにゆっくりできる。
思う存分朝寝して、ご飯を食べたらまた寝転んで。家の中が暑くなったらクヌギの木陰に避難して。セミの声を聴きながら、日が暮れるまでトリーと一緒にのんびり過ごす。
いつもなら、この時期に休むだなんてありえない。でも僕は、今日どうしてもトリーのそばにいたかった。それにこうしていれば、きっとトリーも安心するし喜ぶだろうって思っていた。
けれど、それはどうやら勘違いだったようだ。トリーは枕の上で行儀良く「伏せ」をして、「お仕事はどうしたの?」って、小首をかしげて無言で僕に問いかけた。
「今日はお休みなんだよ」
くるるーう
「本当だって。そのためにずっと夜遅くまでがんばってきたんだからね」
きゅるる、きゅる
「そうだけどさ、トリーだっていっしょにいて欲しいだろ?」
きゅー……
また心配かけて、ごめんなさい。
トリーは首をすくめて小さく鳴くと、尻尾を丸めてうなだれる。
はっとした。同時に深く後悔した。
情けない。トリーは背中が痛くて歩けないのに、文句も言わずに我慢してる。なのに僕は、なんとなく気まずいからって意地悪してしまったんだ。
トリーのそばにいたいのは僕なのに。この大事なときを、見守りたいのは僕のほうだったのに。
「……ごめん。畑のこと、心配してくれてありがとう。でも本当に大丈夫。……だから、ね? 一緒にいさせて?」
腹這いになって顔を近づけお願いすると、トリーは「いいよ」って僕と鼻をくっつけた。そこで「ありがとう」って耳の後ろをくすぐると、トリーも頬をすり寄せ甘えてくれる。
自分のことでいっぱいだろうに、僕のことまで気遣って。
そんなトリーが愛おしくてたまらない。
だから僕は、トリーになんだってしてやりたい。
「でも、いまなにができるかっていうと……うーん。そうだな……じゃあ、散歩する?」
きゃう
思いつきの提案だけど、トリーが賛成したから僕は急いで準備した。つばの大きな帽子をかぶって日除けの布をトリーにかぶせ、前足の間に手を入れる。背中が腫れて痛いから、曲げないように慎重に持ち上げて、胸の下で抱えこんだら出発だ。
くるくるる、くるるー
「うん、痛くないね? じゃあ、行こうか」
玄関を一歩出ると鋭い陽射しが目に痛い。日なたはじりじり焼けるように暑いけど、風がそよぐと気持ちがいい。そして見上げれば、山の濃い緑の向こうに真っ青な青い空。
胸一杯に空気を吸って、ことさらゆっくり吐き出すと、身体がすうっと楽になる。トリーも長い耳をぴっと立て、鼻をひくひく動かしながら風の臭いを嗅いでいる。そして黒い瞳をきらきらと輝かせ、僕を見上げて嬉しそうに「きゃう!」と鳴く。
「──よし! トリー、どこに行く? 全部つれていってあげるからね!」
きゃー、きゅるっ!
あっち!
トリーは声をあげて畑のほうに目を向ける。僕がその方向に歩き出すと長い尻尾が上向いて、頭の飾り羽がふんわりと広がった。
(あ、ひょっとして……)
畑の周りをぐるりと回り、ひとつひとつの畝を辿る。ときどき下をのぞき込むから、地面に降ろすと首を伸ばして土の臭いを確認する。きっと背中が痛むのだろう、なんどか動きを止めたけど、トリーはとても真剣だ。
(──そうか)
不意に、なにかがすとんと胸の中に落ちてきた。
自由に歩けないから外に出るのは辛いだろうって、僕は勝手に思っていた。けれどそうじゃない。歩けなくてもトリーはこんなに楽しそうだ。その生き生きとしたまなざしに、僕はやっと気がついた。
ここは、僕が畑仕事をしているあいだ、いつも歩いている場所だ。昨日、トリーは元気がなくて心配したけど、それは歩けないからじゃない。畑を見回るっていう「仕事」ができなくなったから、しょんぼりしていたに違いない。
「……本当に……トリーは偉いね」
きゃー
満足そうな声をあげ、トリーは「つれてきてくれてありがとう」と僕に頬をすり寄せた。僕も「どういたしまして」と首筋をなでてやると、気持ち良さそうに喉が鳴る。
トリーの機嫌は上々だ。
けれど。
翼の内側に、そっと指を入れてみる。するとそこは付け根からは離れているのに、じわりと熱を持っていた。夕べよりも腫れたのか、火照りが広がっているようだ。
(きっと今夜で終わるはず── もう少しだよ。がんばるんだよ)
想いを込めて、そっとトリーを抱きしめる。するとトリーは平気だよ、と言いたげに、僕を優しくなめてくれた。
◇ ◇
気がついたのは6日前。トリーが飛べるようになってから、5日目の夜だった。
僕はそのとき、いつものようにトリーの身体を拭いていた。まずは頭、それから首、そして胴体へと進めていって背中を拭こうとしたそのときだ。
ぎゃう!
「わっ、なに?」
ぎゅーうぅぅ
悲鳴をあげて身をよじり、トリーは僕から距離をとる。そして両前足をきちんとそろえ、そこにちょこんと顎を乗せ、鼻の頭にしわをよせて僕に向かって抗議した。
痛くしてごめんなさいって謝ろうとしたけれど、黒い瞳をわずかに潤ませ、上目遣いで僕をにらむトリーの姿があまりにも可愛くて、自然に頬が緩んでしまう。
でもこんな顔をしていたら、きっとトリーは拗ねるだろう。
だから僕は急いで口を覆ってみたけど、それでもトリーの機嫌を損ねたようだ。
ぎゅううぅ……きゅるっ
「あっ、トリー、ごめんってば! ちょっと待ってよ」
さっきの指先のあの感触。トリーが痛がったのはひょっとして。
確かめようとしたけれど、トリーは伸ばした手をかいくぐって逃げ出した。でも本気で嫌がっているわけではないようで、少し離れて立ち止まるとじっと僕を待っている。そのくせ僕が近づくと、またすぐに身をひるがえして逃げてしまう。それをなんども繰り返すから、僕もつい熱くなった。いつのまにか鬼ごっこになった挙げ句疲れ果てて寝てしまい、結局次の日の朝、僕はばあちゃんの傷薬に頼るハメになってしまった。
くるるー……くーぅ
「まったくもう……最初からこうすればよかったんだ」
容器を見せたとたん、すり寄ってきたトリーを膝に寝かせて翼をそっと持ち上げる。明るい場所で根元のあたりをよく見ると、そこにはぽつ、ぽつ、と3つのふくらみが並んでいた。
これは、ひょっとして。
どきどきしながら反対側を確認すると、そこにも同じように3つ並んだふくらみがある。目にしたそれがとても信じられなくて、腫れた場所にそっと触れるとトリーは「やめて」って嫌がった。
やっぱりそうだ。これは、虹色の羽が生えてくる前触れだ。最初に生えてきたのは寒くなってからだったから、今度も同じぐらいの時期だろうって思っていた。それが、こんなに早く生えてきた。
ぎゅーうぅ、ぎゃう
「凄い、トリー! 羽が生えるよ。もっともっと、自由に飛べるようになるよ!」
……きゃー……きゅるっ
くるるるーう
さわらないでって怒っていたトリーだけど、「良かったね」と抱きしめたらきょとんとした。毒気を抜かれたような顔をして、僕の頬をぺろりとなめて、それから喉を鳴らして甘えてくるから僕もいっぱいなでてやる。そして腫れた部分に薬を塗ると、トリーはうっとりと目を閉じた。
薬が効いてひと安心だ。でも、これがいつまで保つだろう。虹色の羽は固いウロコを突き破って生えてくる。だから羽が生えるそのときは、トリーはまた苦しまなくてはならないんだ。
もう、トリーにこれ以上辛い思いをさせたくない。
けれど、どうにもならないことはわかっている。
だったらせめて羽が生える直前の、一番辛いときにそばにいたい。トリーの大事な「そのとき」を、いっしょになって迎えたい。そしてトリーが自由に空を駆けたなら、「おめでとう」って伝えたい。
だから僕は、その日のためにがむしゃらに働いた。
予想通り「羽の芽」は日に日に大きくなっていったから、収穫が終わるかどうか、とても危うい状態だった。僕は寝る間も惜しんで働いて、なんとか終わらせる目処が立ったけど、いつのまにか腫れは背中まで広がって、翼を広げられずにトリーは再び飛べなくなった。そして一昨日、おっくうそうに歩いていると思ったら、夜には歩けなくなっていた。
満月の2日前のことだった。
前にこうなったのは羽が生える直前なのに、それがこんなに早く来るなんて。もう薬も効かなくなっていて、「前足が動かないの」って悲しそうに鼻を鳴らすトリーの姿があまりに不憫で苦しくて。
代わってやれればいいのにって、どれだけ願ったかわからない。
なのに祈ることしかできない自分が悔しかった。
だからせめて、少しでも楽になるようトリーを抱いて、僕は優しく語りかけた。
どうかトリー、がんばって。もう少しの辛抱だ。
「──ふごっ!」
急に息ができなくなって、びっくりして飛び起きた。ぜいぜい喉を鳴らして咳き込みながらまぶたを開くと、トリーが僕の頬をなめている。小鼻がなんだかベトベトするから、トリーが口で塞いでいたに違いない。
「……な、な……!?」
きゃう
「……あ……うん。起こしてくれたのは嬉しいけどさ、もう少し優しくして欲しかったな……」
どうやら僕は夕食の後、居間で眠っていたらしい。それをトリーは「時間だよ」って教えてくれたようだった。少し乱暴だったけど、今夜は絶対寝過ごせないからトリーはちっとも悪くない。僕はひとまず礼を言い、まずは月の位置を確認した。
まんまるな月がちょうど真南にさしかかり、夜を青く照らしている。雲はないし、トリーの姿がぼんやり浮き上がって見えているからランプなしでも大丈夫。
「行くの?」
──きゅ
トリーは腕の中で身じろぐと、そろりと床に降り立った。そしてすんすん臭いを嗅いで、行くべき場所を探しだす。
きっとあそこだ。壁の交わる家の角、太い柱を登った先の、斜めに伸びた屋根の骨。去年トリーがしがみついたあの場所は、僕の足でほんの数歩、すぐ目と鼻の先だ。けれど、いまのトリーにとっては果てしなく遠かった。
昼間の暑さが嘘のように涼しくなって、半袖では少し肌寒い。そんななか、トリーは荒い息を吐いている。あごを突き出し引きずるように前足を動かして、懸命に柱へと向かっている。背中が腫れて痛いのに、無理矢理歩いているから動きもどこかぎこちない。見ているだけでも苦しくて、抱いていけばすぐなのにって、なんども手を出しかけた。でもここで下手に触れると、トリーは最初からやり直す。僕は去年、とても後悔したから必死になって自制した。
でも苦しむトリーを目の前にして、なにもしないではいられない。
「……がんばれ」
祈りに近い、囁くような声だった。けれどトリーははっとして耳を立て、僕のほうをちらりと見た。
……きゃう
月の光の加減だろうか。トリーが小さく笑った気がしてぽかんと口が開いてしまう。だって甘えん坊で可愛いトリーが、とても凛々しく大人びて見えたんだ。嬉しいけれど寂しいような、そしてぎゅっと抱きしめたくなるような、そんな気持ちがどんどん大きくなってゆく。せめて邪魔にならないようにと息を潜めていたけれど、いつまで我慢できるだろう。
はらはらしながら見守るなか、トリーは必死に足を動かしついに柱の下までやってきた。そこで念入りに臭いを嗅ぐと後足だけで立ち上がり、天井をじっと見つめてぎりぎりと前足を引き上げる。片手片足を交互に動かし鋭い爪で柱をしっかり握りしめ、息を荒げてじわりじわりと登る姿は鬼気迫るものがある。
(トリー……、トリー……!)
膝を立てた僕のすぐ目の前を、トリーが顔を歪めながら登ってゆく。
苦しげな息づかい。かすかに震える背中の翼。あまりにも辛そうで、手が出せないのが歯がゆくて、なんとかしてやりたいあまりに思わず言葉が飛び出した。
「──がんばれっ!」
トリーの動きがぴたりと止まり、ぐうぅ、と喉の奥から絞り出すような音がした。集中を切らしてしまったかと、ざあっと血の気が引いたときだ。
ぶわっと飾り羽が膨らんだ。尻尾の先がピン、と伸び、まるで痛みが消えたようにトリーはするする柱を登り、あっいう間に「屋根の骨」へと辿り着いた。
ふっふっふっ……
驚いた。たったひとことでこんなふうになるなんて。
トリーもびっくりしたようで、目をぱちくりさせて荒い息を吐いている。少しして落ち着くと、そこからさらに登って背中が下になるよう身体を丸め、手足を揃えて動きを止めた。
いよいよだ。これからトリーはほんの少しの眠りに入る。そして夜が開けるころ、新しい6枚羽が生えてくる。あの綺麗な羽でトリーがまた飛べるんだって思ったら、居ても立ってもいられない。いまはまだ真夜中すぎ。夜明けには時間があるってわかっているのに落ち着かなくて、ついそわそわしてしまう。
……きゅーん……
消え入るような小さな声にはっとした。目を凝らして見上げると、闇の中でトリーの瞳がきらりと光ってなにかを訴えているようだ。浮かれている場合じゃない。慌てて柱の下までやってくると、長い尻尾が僕に向かって伸びてきた。
「さわっても……いいの?」
きゅー……
促され、尻尾の先を伸ばした両手で包み込む。そこはひんやりと冷たくて、そして小さく震えていた。
自分がひどく情けなかった。トリーはいまが一番苦しいときだ。なのに僕は勝手にはしゃいで、トリーの気持ちを考えていなかった。見守って、支えになるって決めたのに、これじゃあぜんぜんなってない。
「ごめんね、トリー……僕」
……きゃ
手の中で、尻尾の先が「違う」と揺れた。僕は一瞬考えて、そしてトリーの願いに気がついた。トリーは謝って欲しいだなんて思ってない。もっと別のことを望んでいる。だから僕は、精一杯の気持ちを込めて「その言葉」を口にした。
「がんばれ、トリー。がんばれ!」
……くーぅぅ
満足そうに喉を鳴らしてトリーは額を前足にくっつけた。背中を下に、斜めにぶら下がるようにしがみつき、そのうえ身体を小さく丸めているから身体全部が痛いだろう。けれどトリーは苦しがる様子もなく、ただ静かに目を閉じた。
そして。
ゆっくりと、ゆっくりと、トリーの翼が広がった。最初は左右に伸びてゆき、やがて2つの翼が背中の真下で合わさって、トリーはまるで蝶のようだ。思ったとおり翼の付け根の3つの大きなでっぱりは、いまにもはち切れそうに膨れている。そしてトリーはぴくりとも動かずに、そのまま深い眠りに落ちていった。
あとは夜明けを待つだけだ。できることはなにもない。でも僕は、祈らずにはいられなかった。
「……大丈夫だよ。トリー、僕はずっとここにいるからね」
それから僕は、床に座ってずっとトリーを待っていた。
窓の外は深い青に満ちていて、山と樹々が影になってそびえ立つ。見慣れた景色がまるで別世界のようだから、眺めるだけでも面白かった。それにトリーの姿を見ていると、時間が経つのを忘れてしまう。
滑らかな青いウロコ、滅多に見れない翼の裏の、綺麗に並んだ風切り羽と綿毛のような白い羽。それが窓から射し込む月の光でぼんやりと輝いて、トリーはまさに「神の遣い」そのものだ。僕はそんなトリーを堪能し、目にしっかりと焼きつけた。
やがて月が傾き東の空が白んでくると、青一色だった世界の中にほんのり色が戻ってくる。すると、トリーの背中に変化があった。
(始まった……!)
トリーの背中のでっぱりが、みるみるうちに大きくなった。
小指の先からあっというまに親指大まで膨らんで、すぐにごつごつとした瘤になる。いびつな形の白い瘤はさらにふくらみ大きくなって、編み目のような白いすじが浮き出てきた。しわしわの6つのそれは次第に伸びて細長になり、トリーの背中にぶら下がる。
あっという間の出来事だった。僕は指先ひとつ動かせず、じっとトリーに魅入っていた。トリーは相変わらずぴくりとも動かない。けれど、しっとり濡れた白い羽は少しずつ伸びていく。
それからはもう、まばたきひとつできなかった。
羽が伸び切り開くと同時、トリーの身体は内側から輝きだした。きらきら、きらきら、まるで光が粒になったようにまとわりついて、その光が収まると、白い羽が透明になっていた。そこにあるのは3対の羽。頼りないほど細い根元から広がって、先がきゅっとすぼまった、セミにも似たトリーの羽。
(……トリー……)
よかった。ちゃんと、無事に生えてきた。
食いしばった歯の間から、ほっと息がこぼれ落ちた。そしてそれが合図になったのか、虹色の羽が一枚一枚ばらばらに動き出す。
そして。
──ふぅんっ
柔らかい羽音を立てて、トリーが柱から飛び立った。
「トリー!」
きゃるりっ!
チョリー、チョリー……
──トリー!
両手を差し出し迎えると、可愛らしい声をあげてトリーが胸に飛び込んだ。
きゅうきゅう、きゅうきゅう、鼻を鳴らしてトリーは僕の顔をなめまわす。
僕はただただ嬉しくて。
早く「おめでとう」って言わなくちゃ。
そう思ったのに、涙があふれてなかなか言葉が出てこない。やっとのことで息を整え口を開いてみたけれど、出てきたのはこのひとことだけだった。
「──おかえり、トリー」




