13 勇気を持って踏み出す一歩
「ああっ、トリー!」
「大丈夫かっ!?」
青い身体が枝に揉まれながら落ちていく。
その姿が溺れたときと重なって、血の気が一気に引いていった。
「トリー! トリー!」
無我夢中で駆けつけた。もんどりうって落ちた姿があまりも恐ろしく、クヌギの下で必死にトリーの名を呼んだ。落ちた場所に目星をつけて探したけれど、枝が邪魔でトリーの姿が見つからない。
「トリー、どこ!?」
……きゃーう……
上のほうで弱々しい声がした。間を置いて、がさ、がささ、と葉っぱを揺らしてトリーが姿を現したのに僕はひとまずほっとする。痛がる素振りも見せずにちゃんと歩いているようだから、大きな怪我はなさそうだ。
……きゃう
失敗しちゃった。
情けない顔をして、トリーが枝の上から僕のことを見下ろした。確かに怪我はなさそうだけど、葉っぱを1枚乗せた飾り羽はぺたりとしぼみ、尻尾もくたりと垂れている。
ひどく落ち込んだ様子のトリーが可哀想でたまらなかった。僕は早く慰めてやりたくて、背伸びをしながら手を伸ばす。
「怖かったね。ほら、こっちにおいで」
きゅーう……
黒い瞳がじっと僕を見つめている。
いつもならこんなとき、トリーはすぐに「抱っこして」って甘えてくる。なのに今日は違っていた。トリーは頭を振って葉っぱを落とすと僕のほうにお尻を向けて、再び樹に登ろうと幹に足をかけていた。
「トリー……?」
……きゅ
振り返って僕のほうを見たけれど、トリーは降りてこようとしなかった。でも抱っこして欲しいって、そんな気持ちもあるようだ。
ひょっとして、落ちたことが恥ずかしいから素直になれないのかもしれない。
そう思って僕は優しく声をかけた。
「どうしたの? 怪我してないか、確かめるだけだよ。おいで」
「──ミカ」
僕の肩をぽん、と叩いてアキが首を横に振った。そして僕の腕をぐいと掴むと後ろに下がり、トリーを見上げて声をかける。
「もう一度やるんだろ? ほら、行けよ」
「アキ! なに言って──つっ」
抗議しようと口を開くとアキが手に力を込めた。そして痛みに気をとられたそのすきに、僕を引きずりどんどん樹から離れてしまう。僕は手を外そうともがいたけれど、アキの指はがっちり腕に食い込み外れなかった。そんなことをしている間にトリーはするすると樹を登っていって、葉っぱの影に隠れてしまう。
「なにするんだよ、アキ! トリーの翼を確かめなくちゃ!」
「あれだけ動けりゃ大丈夫さ。それにトリーだってもう子供じゃないんだ。無理だと思ったら降りてくるだろ」
「だけど!」
「ミカが心配するのはわかるよ? でもそうやって甘やかしてたら、トリーはいつまでたっても飛べないだろ」
「甘やかすって……これは違うよ!」
どうしてアキにはわからないんだ。
やっと生えたあの羽は、トリーにとって命も同然のものなのに。もしまた抜けたり折れたりしたら、今度こそトリーは弱って病気になってしまうだろう。だからなにより大切なものなんだ。
「トリーがもう傷ついたりしないようにって! 僕はただそれだけで……っ!」
「うん。でもあいつなら大丈夫」
「なんでそんなことわかるのさ!」
「いま落ちただろ? それで頭も冷えたんじゃないかって、な」
「落ちたことが問題なんだよ!」
アキはやっぱりわかっていない。風切り羽が抜ける前、トリーはとても上手に飛んでいた。それに昨日練習したときだって、トリーの翼は風をとらえて確かに身体が浮いたんだ。だからあんなふうに落ちるなんてありえない。なのにアキときたら、話を聞くなりぷっと吹き出し笑い出した。
「見てなかったのか? あいつさ、飛ぼうとして真上にジャンプしたんだぜ? だから頭が枝にぶつかって、そのまま下に落ちたんだ」
「え? 頭……?」
「そうさ。早く飛びたくて焦ったんだろうな。だから今度は、ほら」
顎をしゃくられ見上げると、すでにトリーはてっぺんの細い枝まで登っていた。そこより上に枝はなく、確かにアキの言うように、トリーは頭上に注意しているようだった。
トリーはそこから周りをぐるりと見渡し確認すると、先の方へと注意深く歩きだす。不安定な足場だけれど、長い尻尾と翼のおかげで足取りは危なげない。でも一歩進むたびに枝がしなってゆらゆら揺れて、折れやしないか僕はひやひやし通しだ。
やがて枝先近くにやってくるとトリーはぴたりと動きを止めた。頭を低く、少しお尻を高くして、風が来たらいつでも飛び出せるよう準備をする。
その様子を目を細めて見守りながら、アキはぽつりと口にした。
「トリーはさ、ミカに礼がしたいんだよ」
「──え?」
「ずっと心配かけたって、あいつ、ちゃんとわかってる。だから格好よく飛んで、ミカを喜ばせたいんだ」
アキの言葉にはっとした。それでさっき、僕が呼んでもトリーは戻ってこなかったのか。でも、礼だなんてみずくさい。家族の具合が悪いとき、助け合うのは当たり前のことじゃないか。それに僕はトリーが元気だったら、それだけでじゅうぶんなんだ。
「礼なんて……いらないのに」
「ミカにとってはな。でも、トリーはそう思うかな?」
「え……?」
「弱っているとき優しくされたら『ありがとう』って言いたくなるだろ。なのに『いらない』って断られたら、どんな気持ちになる?」
「…………それは」
「あのさ、難しく考えるなよ。ミカだってトリーが飛んだら嬉しいだろ? だから素直に喜べばいいんだよ」
な、と僕の背中を軽く叩いてうなずくと、アキはふたたびクヌギのほうに目を向けた。僕は言い返そうとしたけれど、結局なにも言えなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。トリーが僕のために飛ぼうとしてるって思ったら、たまらなく嬉しかった。けれどちゃんと飛べるだろうか、また落ちないだろうかって、不安も同じぐらいに大きかった。
(どうしよう……僕)
いま、トリーはクヌギの樹のてっぺんで、ゆらゆらと揺れている。風はなんどか吹いたけれどやはり足場が悪いのか、飛ぶタイミングが合わないようだ。そして良い風を逃すたび、今度こそってひとり気合いを入れている。
きっとトリーは怖いのだろう。けれど僕を喜ばせたいその一心で、もう一度、もう一度って挑戦してくれている。ここでトリーを止めて、「また明日」って言うのは簡単だ。だけどそれでトリーの気持ちはどうなるだろう。心配だから、危ないからって理由をつけてトリーの「心」を無視したら、かえって傷つけることにはならないか。
──僕は、トリーを守るって決めたんだ。
でもそれは、赤ちゃんみたいに扱うことじゃないはずだ。
僕とトリーは対等だから。
だったら、僕は。
僕にできることは──
しっかり地面を踏みしめて、腹にぐっと力を込める。そして大きく息を吸い込んで、僕はありったけの声を出した。
「がんばれーっ!」
視界の端でアキの身体がびくっと揺れた。なにか言ったようだけど、ちっとも聞こえてこなかった。目も耳も、向かっているのはクヌギのてっぺん、小さな青いトリーだけ。僕はそこをしっかり見つめて口の両側に手を当てた。
「がんばれ、トリー!」
ここからだと遠くてトリーの様子はわからない。でも、トリーは僕を食い入るように見つめている。
わかるんだ。僕とトリーの間になにかがあって、それが2人を繋げている。トリーはいま、びっくりして、けれどとても嬉しいって思っている。
「トリーは飛べる! がんばれっ!」
「そうだ! ぜったい、飛べる! がんばれー!」
僕は声を張り上げた。隣でアキも一緒になって叫びだす。
2人して精一杯、トリーを励まし応援した。
そしてさわわと優しい風が僕らのまわりを包んだとき。
──きゃーう!
ひとこえ鳴いて、トリーは枝から身を投げ出した。
きらきらと光を弾いて輝く青。
それが頭から、まっすぐ斜めに落ちてゆく。
(う、そ──)
飛ぶのだと思った。
なのにトリーは一直線に地面に向かって引かれている。
(枝、は!?)
ない。先にあるのは──固い地面。
(トリー!)
どくん、と耳の奥から音がした。
喉がからからに干上がって、頭が芯から凍りつく。
足を踏み出しとっさに手を伸ばしたけれど、僕の腕は届かない。
その間にも落ちる速度はみるみる増して──
(──ぶつかる!)
絶望で、目の前が真っ暗になったそのときだ。
トリーの身体がふわりと浮いて、すうっと滑らかに滑り出した。
きゃあーぁーぅぅー……!
歓喜の声が近づいて、あっというまに遠くなる。
背中の翼を大きく広げ、トリーは空を飛んでいた。
優しい風と一緒になって、青い空に舞っていた。
「……とん、だ……」
アキが呆然と呟いた。
その声に、やっと時間が動き出す。
息をするのを忘れていたから苦しくてたまらなかった。身体の震えが止まらないし、膝もいまにも抜けそうだ。とても立っていられなくて座りこんで咳き込むと、アキが背中をさすってくれた。
「よかったな」
「うん……僕、もうダメかと思った」
「……俺も」
ほら、と差し出されたアキの指が小刻みに震えている。顔も血の気が引いていた。怖かったのは僕だけじゃない、そう思ったら、なんだかおかしくなってきた。
「ぷっ……ひっどい顔!」
「なんだよ、そっちこそ!」
笑いながらアキと拳を打ち合わせる。そして空を見ればトリーがゆっくりと家の周りを舞っていた。風に乗って宙を駆ける、その姿が嬉しかった。早くトリーを抱っこして、たくさん褒めてなでてやりたい。僕はもう待ちきれなくて、トリーを出迎えようと膝に手を当て立ち上がる。
トリーのほうもすぐに僕らに気がついた。楽しそうにひとこえ鳴くと、畑の上をぐるりと回って戻ってきた。ずっと飛んでいなかったのに、あっというまにコツをつかんで自由自在に飛んでいる。そんなトリーが誇らしくて、僕はまた嬉しくなった。
「トリー!」
きゃーう!
トリーは高度を落としながら近づいて、僕らの頭上を通り過ぎた。そしていつものように翼を立てて速度を抑え、後足から着地──しなかった。
どすっ、という鈍い音とともに土埃が舞い上がる。ごろごろごろ、と縦になって土の上を転がるたびに、草と小石が飛び跳ねる。
トリーは勢いを殺さずに、斜めに地面に突っ込んだ。
「うわあっ!」
「トリー!」
音を立てて血の気が引いた。ふっと気が遠くなりかけたけど、怪我と翼と羽のことが心配で、慌ててトリーに向かって駆け出した。ところがそのとき、土埃の中からなにかが弾けるように駆けてきた。それは最後の蹴りで僕の胸に飛び込んで、そして顔中をなめ回す。
「わっ、トリー!?」
きゃうきゃうきゃう、きゃう!
「──っぷ、ぷぷぷぷっ」
身体中が土と砂で汚れている。けれどトリーは僕にしっかりとしがみつき、尻尾をぐるぐる回しながら喜びの声をあげていた。
嬉しい、嬉しい、ありがとう。
トリーの想いが胸の中に響いてきた。とてつもなく熱いそれはじわじわ身体中に広がって、僕の中でいっぱいに満たされる。
ひとりは怖いって泣いたトリー。
羽が抜けてしばらくは、夜も眠れていなかった。
ほとんど食べない日もあって、病気なのかって僕はとても心配だった。
それがこんなに元気になった。
いまも怖かったのに樹の上から飛び立って、僕を喜ばせようとしてくれた。
その心が嬉しかった。
僕はなんて幸せなんだ。
そんな僕とトリーの想いが一緒になって混じり合い、身体の中からあふれだす。にじんだ涙は全部トリーがなめ取って、ふたたび僕に返してくれる。
「は、はははっ! トリー、凄い!」
きゅんきゅん、きゅーう
「凄い! 凄いよ、トリー……!」
ぎゅっとトリーを抱きしめる。腕にかかるこの重み、そしてとくとくとく、と伝わってくるこの鼓動。土にまみれて少しざらついているけれど、青くて滑らかなこのウロコ。翼の内側の温もりも、服を握る小さな手足もなにもかもが愛おしい。
トリーが飛んだら褒めてあげようって思っていた。だけどもう、言葉はこれしか出てこなかった。
「……ありがとう……」
◇ ◇
真っ白な雲の下、トリーが優雅に空を舞う。僕はアキと一緒にクヌギの木陰に腰を下ろしてその様子を見守った。
「まったく、飛ぶときも着地のときもヒヤヒヤさせやがって……」
「ははは。でもよく考えたらさ、トリーはついこないだまで普通に飛んでいたんだよね」
「うん? それがどう……あーっ!」
「ね? そりゃあ久しぶりだから、ちょっとは緊張するだろうけど」
「そっか。心配しなくても良かったってことか」
あーあ、と両手を突き出し身体を伸ばし、アキは後ろに倒れ込む。僕も同じように伸びをして、身体を地面に投げ出した。
優しい風が梢を揺らして去ってゆく。それを見ながら手足を広げて寝転ぶと、葉っぱの向こうの空の果てまで大きくなった気持ちになる。こんなにすっきりしたのは久しぶりで、どんどん心が軽くなった。
「ホント、トリーが飛び方を忘れるなんて、そんなことあるわけないよね」
「だよなあ……ま、よかった。これで一安心だな」
「うん。……ありがと、アキ」
もう一度、アキと顔を見合わせ笑いあう。声をだしたらわけもわからず楽しくなって、いつしか僕らは腹を抱えて笑っていた。しばらくすると涙がにじんで苦しくなって、いい加減にやめなくちゃって思ったけれどどうやっても治まらない。困ったなって思いながらも身体を丸めてひいひい悲鳴をあげていると、空からなにかが畑に向かって突っ込んだ。
めりめりっ……ざざざっ
物騒な音にはっとして、にじんだ涙をぬぐって見れば唐黍がいくつか根元から折れている。あっと目をむき身体を起こすと大きな葉をかき分けて、トリーが矢のように駆けてきた。
きゃうきゃう! きゃうきゃう!
どうしたの、大丈夫!?
僕とアキとの間に割って入るとトリーはもの凄い勢いで僕らを交互になめだした。身体を丸めて笑っていたのが苦しんでいるように見えたのだろう、トリーはとても心配してくれている。いまだって、ゆっくり着地してたら間に合わないって思ったから、唐黍の太い茎にしがみついて無理矢理地面に降りたんだ。
飛んでいてもちゃんと僕らを見ていてくれた、そう思ったらたまらなく嬉しくて、頬がどんどん緩んでしまう。
「凄い! 偉いぞ、トリー!」
「トリー、トリー、ありがとう」
「──ぷぷっ、口の中はダメだって」
2人でトリーをもみくちゃにしてなでてやる。トリーもすぐに喉を鳴らして僕らの腕にじゃれついて、それからぴょんぴょん跳ねながら樹のほうに向かって行った。
きゃう!
見ていて!
ひとこえ鳴いて、トリーはまたクヌギの幹を登っていく。そして途中で振り返り、僕をじっと見つめてくるのにはっとした。耳を伏せているけど尻尾の先がちょっぴり上を向いている。僕になにかして欲しいって思ってる。
それがなにかはすぐにわかった。
だから僕は、心を込めてトリーのことを応援した。
「がんばれ、トリー!」
「あ……トリー、がんばれ!」
「がんばれー!」
きゃう!
トリーの耳が満足そうにぴっと立つ。
そしてそのままするするクヌギの樹に登っていくと、あっというまに飛び立った。
きゃーうぅぅ……
青いウロコを煌めかせ、トリーは楽しそうに舞っている。クヌギの上ですくんでいたのが嘘のように、トリーは楽しそうに青い空を飛んでいた。
僕らはまた手足を伸ばして寝転びながら、そんなトリーを眺めていた。
「ねえ、アキ。……僕」
「んー?」
「僕……教主さまに会ってみたい」
アキがはっと息をのんだ。そして顔だけ動かし食い入るように僕のことを見つめている。強い視線を感じたけれど、僕は指一本すら動かせなかった。
怖かった。
アキの顔を見てしまったら、決心が鈍りそうだった。
声が震えそうになる。けれどそれを抑えて僕は声を振り絞った。
「トリーのこと。お礼……したいんだ」
「本気……か?」
「……うん。もし、秋にここに来るんだったら、そのときに……」
いつまでも立ち止まってはいられないって、きっとずっとわかっていた。
だから僕も踏み出そう。
勇気を持ってトリーが樹から飛んだように。
その小さな欠片を、僕はちゃんと受け取ったんだ。




