12 もういちど、空へ
心臓がドキドキする。目が爛々と輝いて、もう眠気なんて遥か彼方に飛んでいってしまっていた。いまの感触がとても信じられなくて、僕はトリーを起こさないようもういちど、そっと耳の後ろをまさぐった。
(これって、もしかして──!)
柔らかい羽をかき分け地肌にふれると、やはりそこはざらざらしていた。皮膚の下からなにかが盛り上がってきているような、ぼつぼつとしたこの手触りには覚えがある。トリーの産毛が抜けたあと、しばらくして生えてきた「軸」の感触。それと同じだったんだ。
(新しい、羽、が……?)
脳裏にかつてのトリーが蘇る。
真っ青な空に浮かぶ白い雲。そしてその下で翼を広げ、風に乗って空を駆ける青いトリー。滑らかなウロコは光を弾いて宝石のように輝いて、この世のなにより綺麗なトリー。
あの姿を、僕はまた目にすることができるのか。
(まさか……夢、じゃ……ないよね?)
周りはどこもかしこも真っ暗で、目を凝らしても自分の指すらわからない。どくんどくんと耳の奥から音がするけど、はっきり聞こえるわけじゃない。頬をつねると痛いような気がするけれど、これは本当の痛みだろうか。これは、僕の願いが作ってしまった夢の中ではないだろうか。
朝になって目が覚めて、もしこの手触りがなかったら。
そう考えたら怖くなった。
夢と一緒にトリーが消えてしまうような気さえした。
いつものように、トリーは僕の頭と肩の間で丸くなって眠っているから大丈夫。そう自分に言い聞かせたけど、やっぱり不安が勝ってくる。だからトリーの胴に手を回し、引き寄せ胸に抱き込んだ。トリーは眠いよなにするのって少しうなり声をあげたけど、すぐにまた眠ってくれた。
(明るくなったら確かめなくちゃ)
トリーの寝息を聞きながら、朝になるのをいまかいまかと待ちわびた。はやく見たいと気ばかり急いて、ぜんぜん眠くなかったはずなのに。
なのにいつの間にかまぶたは閉じて、気づけばとっくに日が昇ってしまっていた。
「あー、もうっ! なんでこんなときに寝坊なんか……」
くるるるー
「おはよう、トリー。ちょっと翼を見せてね」
起き抜けのまま朝の挨拶を済ませたあと、トリーを仰向けに横たえる。トリーは「なあに?」って大人しくしていたけれど、翼を広げて風切り羽の生えるあたりをまさぐりだすと、くすぐったいのかきゃうきゃう鳴きながら身をよじった。
「ごめんごめん。すぐ終わ──!」
きゃるるる、きゃう、きゃう
「こっちにも! やっぱり、これ『軸』だ!」
きゃー
そうだよ。ボクが一生懸命なめたから、生えてきたの。
そう言うように、トリーは身体を起こすと翼を引き寄せちゅくちゅくとなめだした。あたりまえのように羽の手入れをするその姿。これは目に馴染んだものだけど、なぜか目頭が熱くなる。
大事な風切り羽が抜けてなくなってしまっても、トリーはずっと翼の手入れを怠らなかった。毎日欠かすことなく、それはそれは丁寧に羽繕いを続けていた。あのときは痛々しくて見てられないって思っていたけど、それは違った。トリーは諦めていなかったんだ。
「……凄いね、トリー。よくがんばったね」
きゃう
「本当に、凄い……」
ボク、もう平気だよ。
つぶらな瞳をくりりと動かし小首をかしげ、トリーは今度は頭の羽に取りかかる。両手をなめて耳の後ろをくるくる洗い、そしてまた手をなめる。なんどかそうやって手入れをすると、寝癖が落ち着き短い羽もふんわりと広がった。
「良かった。本当に……」
トリーを抱き上げ小さなあごを肩に乗せ、耳の後ろを指先で軽く掻く。そこにはやっぱり小さな「軸」がたくさんあって、僕はすっかり嬉しくなった。くすくす笑いながら耳の後ろをなでていると、トリーも上機嫌できゃうきゃう笑う。そして、お返しとばかりに僕の肩によじのぼり、髪を毛繕いしてくれた。
つん、つんと髪が引かれるこの感触は、ずいぶんと久しぶりのことだった。最後にトリーにこうしてもらったのはいつだっけ。記憶を辿るとそれはトリーの羽が抜ける前で、それで僕はまた嬉しくなった。
これはトリーの調子が良い証拠。羽が生えればもっともっと元気になる。そしてもうすぐ、トリーはまた空を飛べるんだ。
トリーの「軸」はぐんぐん伸びた。毎朝見るたび大きくなって、そしてある程度太くなると薄い筒状の皮がぽろりと落ちて、中から新しい羽が顔を出す。柔らかい鞘から抜けたばかりのその羽は、少しふにゃふにゃしていたけれどすぐに乾いてピンと伸び、元のまっすぐな羽になる。
トリーはそれを、大事に大事に手入れした。
そしてその様子を見守りながら、僕はこれからについて考えた。
風切り羽が生え揃ったら、きっとトリーは空を飛びたくなるだろう。だけどここ一月あまり、トリーはずっと飛んでいない。だからすぐに元のように飛べるよう、いまのうちから練習しなきゃ。ちょうど裏の畑が空いていて、山からの坂もあるからあそこを使うことにしよう。
くるくるるー
「準備はいいね? じゃあ、行くよ!」
肩に乗ったトリーの胴を両手で支え、頭の上まで持ち上げる。そしてそのまま山から畑へ向かって駆け下りる。するとトリーは翼を広げて身体を伸ばし、まるで飛んでいるような姿になった。
きゅーるるー、るるるー
気持ち良さそうに喉を鳴らす声がする。「飛ぶ練習」というより遊びのようなものだけど、流れる風が心地よいのかトリーはあっというまに夢中になった。
きゃう! きゃう!
「ええ? また走れって?」
走り終わって畑の中心で足を止め、そっと地面に降ろしてやる。するとトリーは黒い瞳をきらきらと輝かせ、「もう一度」ってねだってきた。正直疲れていたけれど、まだ短い翼を少し広げてぴょんぴょん跳ねる姿はあまりにも可愛くて、これを断るなんてとてもじゃないけどできやしない。結局僕はなんどもなんども山と畑を往復し、そして次の日、激しい筋肉痛に襲われた。
「──いつっ……はーっ」
きゅーう……くぅ
「大丈夫だよ。こういうのはね、動いたほうが早く治るんだ」
くーう
心配そうにトリーが僕の顔をのぞき込み、そして肩からぴょんと飛び降りた。
「ん? どうしたの、トリー。ほら、こっちにおいで」
きゃう
ボク、もうひとりでも平気だもん。
そう言って、トリーは耳をぴんと立てると畑のほうに歩いていった。でも尻尾の先はへたりと垂れて、強がりだってすぐわかる。
ひとりはまだ心細いのに、肩に乗ったら重いだろうって僕を気遣ってくれたんだ。そんなトリーがたまらなく愛しくなって、トリーを追いかけ抱きあげた。
きゅー……
「ありがとう、トリー。僕は本当に幸せだよ」
そう、僕はちっとも辛くない。
だってトリーと一緒に走ったあのときは、僕らはひとつの風だった。
強い陽射しが降り注ぐなか、青い草と土の臭いを置き去りして駆け抜ける、一陣の風になれたのだから。こうやって、トリーと一緒に風になるのもほんのいっときのことだから。
新しい羽が伸びるとともに、トリーはどんどん元気になった。
僕の姿が見えないからって泣き叫ぶことはなくなった。僕が食べさせなくても食事がとれるようになっていた。そして、背負い袋に入らなくても外に出られるようになっていた。いつの間にか、トリーはひとりになっても怖がらなくなっていた。
背中の重みがなくなって、身体はかなり楽になった。けれど同時に少し物足りなくも感じていた。嬉しいけれどなんとなく寂しいような、そんな奇妙な気持ちだった。
「右に行くよー!」
くるるるるー
「今度は左ー!」
きゃー、るるるーう
両手でトリーを高く掲げて蛇行しながら山から畑へ駆け下りた。曲がるたびにトリーは翼を傾け嬉しそうな声をあげ、僕らは渦巻く風になる。でもこの楽しい「練習」ももう終わり。走っているとき、なんどかトリーの身体が浮いたんだ。
ついに新しい羽が伸びきって、飛ぶ準備が整った。あとは日を選ぶだけ。優しい風がトリーを空へと導くその日を待つだけだった。
◇ ◇
森と畑の境に生えた大きなクヌギの樹の下で、僕はぼんやり青い空を眺めていた。
太い幹に背中を預けて座っているとトリーも枝から降りてきて、隣にごろんと横になる。
「……風、吹かないね……」
きゅーう……
トリーは空を飛ぶのが大好きだ。でも鳥のようには羽ばたけないから、舞い上がるときは虹色の6枚羽を使っていた。けれどそれが抜けてからは、樹から飛び降り風に乗ることで飛ぶようになっていた。なのに風切り羽までなくなって、トリーはそれからずっと辛い日々を送っていた。でもやっと新しい羽が生えそろって飛べるようになったんだ。
トリーはすぐにでも飛びたいと思ったようで、今朝は目が覚めるなりこの樹に登り、ずっと風が吹くのを待っていた。なのに今日に限って凪いでしまって葉っぱはそよとも動かない。
僕もいつ風が吹くのかトリーが飛ぶかと気になって、とても畑どころじゃなくなった。だから仕事はすっぱりと諦めて、こうして風を待っている。ここなら家と畑が一望できて、風が吹けばすぐわかる。それにトリーはまた空を飛ぶならこの樹からって決めているのか、離れようとしなかった。
「こうなったら待つしかないか。……大丈夫だよ、必ず風は吹くからね」
……くう
森の中からセミのじわじわ鳴く声と、軽やかな小鳥のさえずりが響いてくる。
見上げた視線を降ろしていけば、畑の緑がどことなく揺らいで見えて、容赦なく日が照っているのがよくわかる。けれどここは梢の影になっているから涼しくて過ごしやすい。相変わらず風が吹く気配はないし、トリーと2人、することもなく座っていたらだんだんまぶたが重くなった。
きゅる、きゅるるっ
トリーがぴくりと身体を起こし、家のほうを見つめている。なんだろうと僕も目をこすりながらうかがうと、アキが庭から家の中をのぞいていた。きっとトリーに会いにきて、姿がないから捜しているんだ。
「アキー、こっちー!」
立ち上がって手を振ると、アキも振り向き手をあげた。そしてそのまま小走りで駆けてきて、トリーに気づくと歓声をあげて抱き上げた。トリーも会えて嬉しいようで、アキの顔を懸命に舐めている。
「おおっ! 格好良くなったな、トリー」
きゅるっ、きゃう、きゃう!
「ぷぷぶぷっ……よーし、よし。熱烈歓迎ありがとうな」
きゅるるーう、るるるーう、くるるー
口元をぐいとぬぐうとアキはトリーの頭をなんどかなでて、耳の後ろも掻いてやる。トリーが楽しそうに喉を鳴らして身体をすり寄せるのに、アキは心底嬉しそうだ。
「ずいぶん立派になったなあ…… な、トリーの羽、前より長くなってねえ?」
「そうなんだよ。僕も夕べ気がついたんだけどね、比べてみたらやっぱり少し大きくなってた」
「ああ。だからかな? なんだかこう、豪華になったような」
「あ、やっぱりアキもそう思う?」
アキの言葉に嬉しくなった。
新しいトリーの羽は前のものより少しだけ長くなり、そしていっそう鮮やかになっていた。王冠のように広がった飾り羽も青い翼も木漏れ日を浴びると虹のように輝いて、その姿は言葉にできないほど美しい。ふと気づけば僕はなんどもトリーに見惚れてしまっていて、昔の人が「神の遣い」と言っていたのもよくわかる。
「トリーはとっても優しいし頑張り屋だし親思いだし。ついこのあいだもね……」
「な、なあ! トリーはもう飛べるようになったんだろ? どんな感じ?」
「あ……うん。それが……」
いま一番の気掛かりに、浮いた気分が萎んでしまう。ふうっと息を吐いて腰を下ろすとアキも隣で胡座をかいて、トリーを抱き寄せ僕に話を促した。
「そうか。風か……いやでも、高いところから跳んだらさ、少しは飛べるんじゃないの?」
「うん……でも、トリーはこの樹から風に乗って飛びたいみたい。きっとこだわりがあるんだよ」
「こだわりぃ? なんだよ、おまえ。実は高いところが怖いんじゃないの?」
ぎゃぎゃっ、ぎゅーう
膝で仰向けになったトリーの腹を、アキが乱暴になで回す。トリーは「なにするの」と抗議したけど、そのままアキの指にじゃれつきだした。
新しい羽も綺麗に伸びて、トリーはすっかり元気になった。だけど本当に前のように飛べるだろうか。アキの言うように、高い場所から飛び降りるのが怖いんじゃないだろうか。
だったらもう少し低い場所から練習しようか、とそんなことを考えたときだ。
きゅるっ
トリーが身体を起こして立ち上がり、ひくひく鼻を動かし空の匂いを嗅ぎ出した。それからぴっと耳を立て、後足で立ち上がって畑を見ると、するするとクヌギの樹を登っていってしまったんだ。青い姿はあっというまに見えなくなって、僕はアキと思わず顔を見合わせる。
「なんだ? いよいよ飛ぶのか?」
「風がくるのかも。……ああ、でもここからじゃ、どこにいるのかわからないよ」
「畑に行こう。離れたほうがよく見える」
アキに促されて畑のほうに駆け下りた。クヌギ全部を見渡しながらトリーの姿を捜していると、てっぺん近くで青いものがきらりと光る。
「あっ、あそこ!」
「まさかあのまま……飛ぶ気か?」
「枝がしなって……トリー……」
翼を広げてバランスをとりながら、トリーが枝をそろりそろりと歩いていた。そして先のほうまでやってくると、中腰になってぴたりと動きを止めてしまう。
風が来たら飛ぶつもりだ。
でも、いきなりあんなに高い場所からなんて、本当に平気だろうか。
心配でたまらない。
不安と緊張がどんどん大きくなってくる。
心臓がどくどくと早鐘を打ち、手のひらがじっとりと湿ってきた。
僕もアキも息をのんでトリーの姿を見守って、そしてふっと風が通り過ぎたそのときだ。
翼を広げ、トリーがぱっと飛び立った。
そして──
ばさばさばさっ
ぎゃぎゃっ、ぎゃ!
──逆しまになって、トリーは落ちた。




