10 トリーの草
夏の朝は早いうえにあっというまに暑くなる。だからこの時期、僕はいつも忙しい。特に今年の畑はいままでになく順調だから、やるべきことはたくさんあった。
まず一番には唐黍の世話。毎日どんどん大きくなって、もうそろそろ収穫だ。これは気温が上がるとすぐに味が落ちるから、夜明け前に収穫しなければならなかった。
(……ぐっすり寝てる、よね)
家の中はまだ暗い。そして枕の上で丸くなったトリーからは深い寝息が聞こえていた。起こさないよう僕はそっと寝台を抜け出して、手早く寝間着を脱いでゆく。
(早くしないと……っ)
着替えを急ぐのにはわけがある。なぜなら──
きゅーうぅぅ……
はっとして振り向くと、丸くなった影の中、きらりと光る黒い瞳と目が合った。トリーがいつの間にか目を覚まし、じっと僕を見つめていたんだ。
「トリー、お、おはよう。あとちょっとだけ待って。ね?」
優しくゆっくり声をかけ、時間を稼いでシャツのボタンを急いで留める。同時に作業ズボンに片足を突っ込んで、引き上げようと手を伸ばしたときだった。
きゅんきゅん、きゅーう
トリーは悲しそうに鼻を鳴らすと寝台から飛び降りて、扉に向かうとぱっと取っ手に飛びついた。そして開いた扉の隙間から、するりと外に出てしまう。
「ええ? トリー、どこに行くの」
飛べないことがよほど心細いのか、トリーはあれから僕と片時も離れられなくなっていた。だからここ最近は、「ひとりにしないで」って縋ってくるトリーをいなしながら着替えるのが大変だった。なのに今朝に限って逆に離れていくなんて。
またなにかが起きるのか、と今度は僕のほうが不安になって、ズボンを押さえながら急いでトリーを追いかけた。小さな爪音はまっすぐ玄関に向かっていって、そして僕が追いつくと、トリーはなにかをくわえて柱の上からひらりと床に飛び降りた。
「トリー……?」
見ればそれは背負い袋だ。
玄関脇に引っ掛けておいたものを下に降ろし、トリーは鼻を使って中に潜り込もうとしているようだ。そして奥まで入って底の穴に尻尾を通すと袋の口から顔を出し、「きゃう」と僕に合図をした。
こうすれば、絶対にボクのこと忘れないでしょう?
まるでそう言うように、トリーは僕のことを見上げている。
袋が乗っているのは靴の上。僕が外に行くときには靴を履くって、トリーはちゃんと知っているんだ。
「……大丈夫だよ。僕はずっと一緒にいるからね」
きゅー……
「うん。ずっと、ずーっと一緒」
トリーも僕も、同じことを願っている。
それがたまらなく嬉しくて、袋を持ち上げトリーをぎゅっと抱きしめた。するとトリーもきゅうきゅう喉を鳴らして喜んで、僕に頬をすり寄せた。
「──一緒。いっしょ。ずーっと一緒にいたいって、それは確かにそう、なんだけど……」
腰を曲げると背中がずしりと重くなる。下を見ればだらりと垂れた青い尻尾が足の間からのぞいている。おまけに耳の後ろで大きないびきが始まって、なんだか余計に疲れてきた。
「あーあ、僕も一緒に休みたいよ」
まだ昼前なのに、トリーはすっかり夢の世界の住人だ。
確かに今朝は早起きだったし、トリーは僕の仕事を飽きずにずっと眺めていた。だから朝ご飯を食べたあと、眠くなるのも無理はない。だけど僕は穫った唐黍を干さなければならなくて、裏の畑で汗だくになっている。
「……僕が、ドラゴンだったらなぁ」
そうしたら、背中にトリーを乗せて飛べたのに。
真っ青な空に溶けながら、風と一緒に果てまで飛んでいけたのに。
そんなことを考えながら空を見上げたときだった。
「うわぁあっ!」
「──わあっ」
悲鳴があがって僕は思わず仰け反った。その拍子に背負い袋も揺すられて、トリーはびくっと小さな手足を突っ張らせると、袋の中から泡を食って飛び出てきた。
ぎゃぎゃっ、ぎゃ!
ぎゅーう、ぎゅう、ぎゃう
「トリー、トリー。大丈夫だよ、落ち着いて」
僕の胸にしがみつくと尻尾をふるふる震わせて、トリーは「怖い、怖い」と鼻を鳴らして訴える。僕はトリーを抱きしめ翼を優しく撫でながら、舌打ちしたい気分になった。
あの声は、アキだ。また大声を出してトリーを驚かせたりして、今度はいったいなんなんだ。
「ミカ! ミカぁっ!」
「いま行くよー!」
そう返事はしたものの、自然と足取りは重くなる。
アキは早くと急かしていたけど、もう溜息しか出なかった。
庭の片隅、花壇のわきでアキは膝をついていた。そばには荷物が投げ出され、その周りでは小さななにかがうごめいて、よくよく見ればそれはセミの幼虫だ。
きゅるっ
トリーの耳がぴっと上向き、黒い瞳がきらりと光る。
止める間もなくトリーは僕の腕から飛び降りて、アキの元に駆けつけた。
「待って、トリー。まだ食べないで!」
「あ、ミカ! これ、これ!」
「ほら、アキも集めて! 早くしないとトリーが全部食べちゃうよ」
この幼虫は、アキがトリーのために捕まえてきてくれたんだ。だからアキがトリーにあげなくちゃ意味がないのに、アキは座ったままでちっとも動こうとしなかった。
「トリー、ご飯はまだだよ! ほらアキ、僕がトリーを捕まえてるからいまのうちに!」
「それよりも、これ! ミカ、これ!」
転がっていた箱を拾って渡そうとしたけれど、アキは受け取ろうとしなかった。それどころか僕の腕を掴むと揺さぶって、花壇を指差しわめきだす。
ちらりと見ても、花壇に変わったところはなにもない。それにこうしている間にも、トリーは次々に幼虫を食べている。アキがなにに驚いているかは知らないけれど、いまはこれを集めるほうが先じゃないか。
「なにしてるのさ、アキ! トリーと仲直りするんじゃないの!?」
「だってミカ! あれがある!」
「あれ?」
「そうだよ、これはあれだ!」
「あれってなに?」
「これだって!」
「これ?」
「あれなんだよ!」
「ぜんっぜんわかんないよ!」
「だから、これがあれだって!」
きゅるきゅる、くーう
険悪になった僕らの間にトリーがつい、と割り込んだ。そして僕の身体を登ってくると、頬をすり寄せげっぷをする。くるくる喉を鳴らして満ち足りたその表情に、はっと周りを見渡すと、幼虫はすっかりいなくなっていた。
「……あーあ」
「え? あれ……?」
「トリー、アキにお礼言いな」
あぁーう
お腹いっぱい。美味しかった。
トリーは大きなあくびをひとつして、口の周りをぺろりとなめるとうっとりと目を閉じた。そのままうつらうつらしだすから、「ありがとうは?」ってお尻をぺちりと叩いてみたけどどこ吹く風だ。
アキの苦労はすっかり無駄になったようだった。
◇ ◇
お茶を淹れて椅子に座るとトリーがアキの膝から飛び降りて、いそいそと僕のほうにやってくる。そして抱っこをせがんで甘えてくるのにアキは憮然とした表情だ。
「おーい、トリー。あの幼虫、俺が捕ってきたんだぞー?」
「もう遅いよ。だから急いでって言ったのに」
少しのあいだ相手をしてってアキにトリーを預けたら、気を引こうとアキはずいぶん努力していたようだった。なのにぜんぜん効果がなくて、文句を言いたい気持ちもわかる。でもアキがもっと僕の話に耳を傾けてくれたなら、とっくにトリーと仲直りできたはずなんだ。
トリーの喉をくすぐりながらそう言えば、アキはぶすっと口をとがらせた。
「だけどさ、あれがあったんだぞ? これが驚かずにいられるかっての」
「ねえ、さっきから不思議なんだけど……『あれ』って、なに?」
「ああ? あれっつったら……」
そこでアキははっとして、口をつぐむとお茶を飲んでガリガリ頭を掻きむしる。それから視線を彷徨わせると、大きく息を吐きだした。
「だよなー…… うん。うちじゃ『あれ』って呼んでるから。……『あれ』はさ、『ばあちゃん特製の傷薬』に使う薬草なんだ」
「ばあちゃんの……?」
とても信じられなかった。でももう一度その名を口の中で呟くと、脳裏にふわっと爽やかな森の香りが広がった。トリーの好きなあの香り。蜜蝋油に混ぜて塗ればどんな傷も綺麗に塞がり、煎じて飲めばどんな病気も治ってしまう万能薬。でもその薬草は山の奥深くでほんの少ししか採れないから、滅多なことでは使えないって聞いていたのに。
それが、庭に生えていた──?
「えぇえーっ!?」
ぎゃぎゃぎゃっ、ぎゃーっ!
急に耳元で叫んだせいかトリーが飛び上がって驚いて、隠れようと僕の股に鼻先を突っ込んだ。それに面食らって僕が椅子から転がり落ちると見ていたアキは腹を抱えて笑いだす。するとトリーはますます興奮したようで、さらに潜り込もうと闇雲に暴れだした。そんなトリーを落ち着かせるのは本当に大変で、僕はすっかり疲れ切ってしまっていた。
トリーを抱いて椅子でぐったりしていると、玄関でばたばたと音がした。なんだろう、と思う間もなく扉が開いて、アキが顔をのぞかせる。
「わり。靴脱ぐの忘れてさ、少し汚したかも」
「いいよ。後でほうきをかけるから」
「ごめんな。でもこれ、なかなかいいな」
言うなりアキは飛び跳ねるようにやってきて、椅子を引き寄せ腰を下ろすと裸足の指を動かした。そして涼しくて気持ちがいいって笑うのに、僕もつられて笑顔になる。
トリーは家に入る前に綺麗に足を洗うのに、僕が靴のままではまた汚れてしまう。だから最近、家の中では靴を脱ぐことにしていたんだ。これが意外に気持ちが良くて、もう窮屈な靴には戻れない。変だって言われるかと思ったけれど、アキも同じように感じてくれて僕はなんだか嬉しかった。
「ほら、これでいいか?」
「ありがと。トリー、アキがトリーの草を持ってきてくれたよ」
ぎゅー、うううー……
僕の脇の下に鼻先を突っ込んで、トリーはしっかと胸にしがみついている。すっかり拗ねてしまっててこでも動きそうにないけれど、この草があれば大丈夫。
水を張った小皿の上には葉っぱと花が乗っている。そこから葉っぱをつまんで先をくるくる回してやると、トリーは少しだけ顎を引き、目で葉っぱを追い出した。
くーうぅ
うっかり喉が鳴ったようで、トリーははっとするとぎゅっと身体に力を込めた。そうしていかにも興味が無いって顔をしているけれど、「いらないの?」って葉っぱを遠ざけると「あっ」って慌てて首を伸ばす。その仕草が可愛くて、僕もアキもついくすりとしてしまう。
きゃーう
こんなとき、トリーはよく「笑わないで」って文句を言う。だけどいまは草で頭がいっぱいのようだった。僕らを気にせずふんふん鼻を動かし臭いを嗅ぐと、ぱくりと葉っぱに食いついた。
「おーお。美味そうに食ってるなー」
「ねえ、アキ。やっぱり違うんじゃないの? ばあちゃんの薬はこんなに青臭くないよ」
葉っぱをつまんだ指を差し出すと、アキは顔を近づけ小鼻をひくひく動かした。それから自分の指にも同じ臭いがついているのを確認すると、顔をしかめて服に手をこすりつける。
「生だからだよ。きちんと乾かすと良い匂いになるんだ」
「そうかなぁ。これ、スミレの仲間じゃないの?」
「違うって! 花が全然似てないだろ」
「そうなんだけどさあ……」
ほら、とアキが差し出す小皿の上には青い花が浮かんでいる。スミレと同じぐらいの大きさの、先の尖った5枚の花びらを持った花。
小さな2枚が斜め上を向いていて、それより大きな2枚が真横に長く伸びている。最後の1枚は一番大きく細長く、筒状になって緩い弧を描きながら真下に伸びて、まるでトリーの尻尾のようだ。青臭くはないけれど、花の匂いもほとんどない。だけどトリーはこれも葉っぱと同じぐらいに好きだった。
うっふーん……あーう、きゅう
時間をかけて噛んだ葉っぱを飲みこむと、トリーは花のほうに目を向ける。もう身体を起こすのも面倒だ、とくたりと横になったまま、前足をちょいと動かす様子に僕ははっと閃いた。
いまだ、とトリーを抱えてそっとアキの膝に乗せてやる。するとトリーは嫌がるどころか嬉しそうにアキに身体をすり寄せた。
「アキ、トリーが花もちょうだいって」
「お、お、おう……ほら、トリー。食べるか?」
きゅー……あむ
アキの指から花を受け取りもっしゃもっしゃと食べながら、トリーは気持ち良さそうに目を閉じる。そしてそれを優しく見守りながら、アキはぽつりと口にした。
「なあ……この『トリーの草』……少し貰ってってもいいか?」
「それは、かまわないけど……」
「ばあちゃんに確認してみるよ。俺、やっぱりこれはあれだと思う」
「…………」
もしアキの予想が正しかったとして、ばあちゃんにはなんて説明するんだろう。
そんな不安が顔に出たのか、アキはにやりと口の端を引き上げた。
「あ、もちろん生えてた場所は内緒だからな? ミカと山で見つけたってことにしておくから」
「……やっぱり僕、どうしても信じられないよ」
「俺だってそうさ。でもこの花、トリーの後ろ姿に似てるだろ? 前にばあちゃんが採ってきたのを見たときにもさ、やっぱりそう感じたんだ。だからすごくよく覚えているし、間違いないと思う」
「……そう」
トリーの好きな草が薬草になるだなんて思ってもみなかった。でももし本当にあの薬草だったなら、きっと皆が喜ぶだろう。どんな怪我でも病気でも、本当になんでもよく効く薬草だから、きっと皆が欲しがって、そして大勢の人が助かるだろう。
でも僕は、それを喜ぶことができなかった。
それどころか不安に押しつぶされそうだった。
いつのまにか畑に生えた謎の草。この辺りでは見たことがない草だから、きっと山のどこかに生えていて、種が風に乗って飛んできたに違いない。そしてこの草の生えているそばになら、トリーの仲間がいるかもしれない。
そう考えたら怖くなった。
アキやばあちゃんはきっとトリーを守ってくれる。だけど他の人はどうだろう。世界が優しい人ばかりだったなら、トリーの仲間は殺されたりしなかった。トリーはいまごろ、仲間と楽しく暮らしていたかもしれないのに。
だから僕は間違いであって欲しいと願っていた。
トリーの草は、きっとただの雑草だ。




