9 命の価値
雨が止み、雲が切れると青い空からまばゆい日射しが降り注ぐ。畑の緑は天に向かって手を伸ばし、精一杯に広がったその腕の内に潜ってゆくとむっと土の臭いが立ちのぼり、どこか甘い青葉の香りと混じり合う。
頭の上まで緑の葉っぱが生い茂る、大きく育った唐黍畑の中にいるとまるでネズミのように小さくなった気持ちになれる。ここはそんな不思議な場所だった。
「──ふう」
手桶の中身を溝に入れ、上から土を被せておく。それを平らにならせばここの仕事はひとまず終わり。ぐっと腰を伸ばして汗をぬぐい、ついでとばかりに目の前にある太い茎を手で押すと、ばたばた音を立てて水の滴が降ってきた。
「わっ……あーあ、まだ残ってたか。──うん、でもこれなら上出来」
もう一度、力を入れて揺すってみても根元はびくともしなかった。それに葉っぱも厚く色も濃い。順調に育って良かったと、ほっとしたそのときだ。
背負った袋がもそりと動き、中に入った小さな手足が僕の背中を柔らかく蹴っている。じっと待つとやがて肩に顎が乗り、くあ、とあくびがもれて湿った鼻がぴたりと頬に押し当てられた。
「おはよう。濡れなかった?」
くるるるーう
大丈夫だよ。
そう言いたげにトリーは頬をすり寄せ甘えてくる。よかった、と思わず手を伸ばしかけたけど、両手は土で汚れて真っ黒だ。そこで僕は肩を上げ、頬でトリーの頭を撫でてみた。
きゃう、きゅーう
きゅるきゅる軽やかに喉が鳴ってトリーはとても嬉しそうだ。それからお返しとばかりに僕の頬をぺろぺろなめて、首を伸ばすと僕の手元をのぞき込む。
きゃーるるるーう
それはなあに?
漂う独特の臭いが気になるのだろう、トリーは肩の上に前足を乗せ身を乗り出すと、ふんふん鼻を鳴らして手桶の匂いを嗅ぎだした。
──ぷしっ!
「はは。これはね、肥だよ。ちょっと臭いがするけどね、これをあげると野菜は大きくなるし、味も良くなるんだ」
きゃるるー
鼻の周りをぺろりとなめてトリーは僕の背中に戻っていった。それからまた僕の肩に顎を乗せ、小首をかしげてつぶらな瞳をくりりと動かし不思議そうに手桶のほうを眺めている。
「肥ってなに? か……うーん。ほら、僕らは毎日ご飯を食べるだろ? それと同じで野菜にあげる餌みたいなもの、かな……」
そういえば、僕もずっと小さなころに同じような疑問を持って、父さんに尋ねたことがあったっけ。あのときなんと教わったのか、思い出そうと記憶を探ると色々なことが頭の中に浮かんできた。
畑のことならなんでも知っていた父さんと、口うるさいけど優しくて料理上手だった母さん。いつも2人は笑っていて、僕は一緒にいるのがあたりまえだと思っていた。それが突然あんな──
──きゅう
どうしたの、大丈夫?
黙り込んだ僕を心配したのかトリーが頬をぺろりとなめた。
はっとして瞬くと、頬がそっと寄せられる。
僕がいるよ、大丈夫だよ。
なめらかなウロコからはそんな気持ちが伝わって、胸がぎゅっと締めつけられる。
僕は、なんて馬鹿なんだろう。
こんなに羽が抜けてしまったトリーのほうが辛いのに、心配されるなんてあべこべだ。僕はトリーを支えるって決めたんだ。いまは昔のことでくよくよするよりトリーを元気づけなくちゃ。
ごめんね、ありがとう。
感謝しながらトリーの頭を肩と頬とでぎゅっとはさむと嬉しそうに喉が鳴る。くるくるきゅうきゅう、そんな声を聴いていたら笑い話を思い出した。
「そうだ、トリー。畑で用をたしたらダメだって知ってた?」
きゅーう
「僕がうんと小さなころ、肥の作り方を教わったんだ。そのときにね、最後は畑にまくんだからこのままでも肥料になるだろうって、毎日おしっこを唐黍にむかってひっかけたんだ。そしたらさぁ、葉っぱが黄色くなっちゃって……」
「うわぁあっ!」
「──って父さんが叫ん、で……?」
くるるー
トリーは耳をピンと立て、じっと家のほうを見つめている。僕も口を閉じて辺りの様子をうかがうと、また悲鳴のようなうなり声が聞こえてきた。声の主はなにか言っているようだけど、内容まではわからない。
「この声……アキ?」
きゃう
「行こう。トリー、掴まって!」
きゃるるっ
トリーが背中にしがみつく。僕は急いで唐黍の葉をかき分けて、祈りながら家に向かって駆け出した。
アキが街から帰って来た。そしてなにかが起きたんだ。
どうか、どうか無事でいて。
頭はそれでいっぱいになっていた。
「あああっ!!」
庭に生えた大きな蜜柑の樹の下で、アキは膝をついて叫んでいた。声の中には嗚咽が混じり、ただごとではないその様子に僕は慌てて駆け寄った。
「アキ! 大丈夫? どうしたの?」
「ミカぁっ! なんで! なんでだよ!」
アキはがばと立ち上がり、僕の襟を手加減無しで締め上げた。そしてがくがく揺さぶりながらなにごとかを責め立てる。
「なんで食べた! 家族だって言ってたろ!?」
喉が塞がれ踵が浮いて、息をするのもままならない。わけがわからず放してくれと腕を何度か叩いたけれど、アキはびくともしなかった。
「く、苦し……」
「答えろよ! おまえ、なんで!」
「……な、にが……?」
アキがなにを言っているのか、そしてなぜ怒っているのか僕にはさっぱりわからなかった。だいたい久しぶりに会ったというのに、どうしていきなり責められなきゃならないんだ。
きゅー……
僕の背中でトリーが身をすくませた。
アキが怯えさせたんだ、そう思ったら無性に腹が立ってきた。
いま、トリーはとても敏感になっていて、風の音すら怖がるほどだ。そのせいだろうか、いつも僕が一緒にいないと取り乱して泣きわめく。それに食欲も落ちていて、夜もあまり眠れていないようだった。だから僕はトリーが少しでも安心できるよう、片時もそばを離れないようにしているんだ。なのにアキときたらそんなトリーを怖がらせた。
なんてことをしてくれるんだと、アキのすねを蹴ってやろうとしたときだ。
ぎゅうぅ……ぎゃう!
「──あつっ!」
トリーが素早く肩に乗ると前足を繰り出して、アキの手を引っ掻いた。
力が緩んだその隙に、僕はアキを振り払って身構える。胸が鳴って咳が止まらなかったけど、もうこれ以上トリーに心配はかけさせない。トリーは怖いのに、勇気を振り絞って僕を助けてくれたんだ。その気持ちに報いるためにも僕は絶対に負けられない。
そうやって、歯を食いしばって睨みつけるとアキは呆然と突っ立って、そして小さく呟いた。
「トリー……?」
まるでおばけでも見たような、そんな顔をしていたけれどすぐにアキはくしゃりと顔を歪めて泣き出した。まるで小さな子供のように、声をあげてわんわん泣くから僕は本当にびっくりして、怒りもどこかに吹っ飛んでしまっていた。
「……あ、アキ? どどど、どうしたの」
「ミカぁっ! ……よかった、トリーは生きてる!」
「ええ? ちょっと、なに言って……わぁっ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、アキは僕に抱きついた。胴にしがみつかれてまた身動きできなくなったけど、今度は振り払う気になれなかった。なぜならアキはトリーのことをとても心配してくれていた、それが痛いほど伝わってきたからだ。だから僕はアキが泣き止むまで、ずっと背中を撫でていた。両手が土で汚れていたからアキの背中も汚れたけれど、きっと許してくれるだろう。
だけど問題はまだあった。トリーがアキの剣幕に驚いて、背負い袋に逃げ込み中から出てこなくなったんだ。嬉し泣きの酷い顔がトリーにとっては怖かったようで、それからアキはすっかりトリーに嫌われてしまっていた。
◇ ◇
ぐったりと椅子に腰掛け天を仰ぐとアキは肩から力を抜いた。冷たい水で顔を洗って少し落ち着いたようだけど、目元はまだ赤く腫れぼったい。でも表情はすっきりと晴れやかで、どこかホッとした様子だった。
「はーっ…… そうだよなぁ…… ミカがトリーを食うわけないよな」
「当ったり前だろ? まったく、なんでそんなこと」
「だってさ、あんなにたくさん羽が並んでたから……俺、てっきり」
アキは木陰で虫干ししていたトリーの羽を、僕が引っこ抜いたと思ったようだ。そして皮を剥いで、肉を食べたと勘違いしてあんなに僕を責め立てた。
トリーの羽が一度にたくさん抜けてしまって驚いたのは僕も同じ。だからアキの気持ちはよくわかるけど、僕がトリーをって、どうしてそんなふうに考えたんだ。なんだか腹が立ったけど、あんなアキの顔を見てしまったら、そうそう文句も言えなかった。
「カビないように洗ったんだよ。トリーの羽は、捨てられないから」
「……うん。全部取ってあるんだろ? その……ヘンなこと言って悪かった。ごめん」
「いいよ、もう。誤解するのも仕方ない気もするし」
神妙に頭を下げるアキの前に、取り分けた芋の皿を置いてやる。
これはまだ育つ前の小芋を茹でて、丸のままで軽く炒めて塩をふっただけだけど、なかなか旨くて最近のお気に入りだ。ほかには肉と野菜の汁ものと、細かく切った生野菜。僕はこれを少し遅めの昼にした。
「う……。この芋、うまっ!」
「だろ? 僕ももう一人前かな」
ひとくち食べて、アキは目を見開いた。そしてこくこく無言でうなずきながら無心で芋を頬張っている。
そんな様子を見ていると、さっきまでの嫌な気持ちは綺麗に消え失せ頬が自然に緩んでくる。アキの舌は肥えているから手放しで褒めることなど滅多にない。なのにこんなに美味しそうに食べるだなんて、今年の芋はよっぽど出来がいいに違いなかった。大きくなったらもっと味が出てきて甘くなるから、これは収穫が楽しみだ。
そうやって、うきうきしながらアキと一緒に食べていると背中の袋がもそりと動いた。
きゃう
「ん? トリーもお腹空いた? じゃあ、こっちにおいで」
隠れていた背負い袋から顔を出し、トリーが「ボクにもちょうだい」と訴えた。ぽんと膝を叩くとトリーは恐る恐る肩に乗り、そして足から降りて僕の胸にしがみつく。アキがまだ怖いようで視界に入れないようにしているけれど、出てくることができたようでホッとする。
「トリー、さっきは驚かせてごめんな」
きゅーうぅ
「ほら、トリー。もう怖くないよ?」
アキが声をかけるとトリーはきゅっと身をすくませる。許してあげて、って頭を撫でてもトリーは僕の胸から離れようとしなかった。
「……ごめん。羽が抜けてから、トリーはすごく神経質になってるんだ」
「しかたないさ。今日は俺が悪かったんだし。な、ほら、早くトリーにも食べさせてやれよ。腹が減ると余計に機嫌が悪くなるからさ」
また仲良くなるから心配するなとアキは笑う。でも僕は、ヒナのころから可愛がってもらっていて、今日だってトリーのことを心配してくれたのにって申し訳ない気持ちになった。それにアキにしたってトリーに嫌われるだなんて、きっと悲しいに違いないんだ。
だから帰る時にはお詫びに小芋をたくさん持たせよう。そう決心しながら礼を言い、僕はまず、トリーに食べさせることにした。
「……なあ……」
「ん? ──おいしい? じゃあもっと」
地虫をつまんで口元に持って行くと、トリーはぱくりと食いついた。ちゃく、ちゃく、と食べてまた口を開けるのに、今度は青虫を取ってやる。
「今日は食欲あるね。いっぱい食べるんだよ?」
きゅーう
「ミカ、あの、さ? トリーの食事って、肉じゃないの?」
「ああ、イマイチ食欲がないみたいだから、昼は飽きないように虫にしてるんだ。朝と夜は魚だったり肉だったり……」
「そう……なんだ」
へえ、と呟きながらアキは生野菜の器をかき分けた。そして虫がいないことを確認するとひとくち食べて、なんだか渋い顔になる。
「あれ、美味しくない?」
「……いや。すっげぇ、美味い。……けど」
「けど、なに?」
「なんでトリーの器と同じなんだよ!」
アキはぐっと拳を握りしめ、口をへの字に尖らせた。
「野菜はこんなに美味いのに! なのに同じ器に地虫がいるって思ったら、美味さも半減するだろ!?」
「そうかなあ? 変わらないと思うけど。それにほら、こうすると彩りも綺麗だと思わない?」
トリーの器をアキの方に向けてやる。底に薄い緑の葉っぱを敷いて、上に白い地虫と青虫を盛ったんだ。これをトリーに見せると「美味しそう」って喉が鳴る。それにもちろん僕らの器と分けているから汚いことなんてなにもない。なのにアキは芋の皿を抱えると、ぷいとそっぽを向いてしまう。
「アキ、行儀悪いよ?」
「…………」
「アキってば! ちゃんとこっち向いて食べなよ」
きゃう
「あ、ごめんね、トリー。──はい」
食欲がでてきたようで本当に良かった。昨日おとといと、トリーはほとんど食べなかったからとても心配してたんだ。いまはまだ僕が食べさせてあげないとダメだけど、でも食べないよりはずっといい。
「なんっつー親ばか……」
ちらりと腫れぼったい目を向けて、アキが呆れたようにぽそりとこぼす。でも、なんと言われようと僕にとって一番大事なのはトリーのことだ。だからアキが「芋の皮と芋虫の音が」なんて言っていても僕はちっとも気にならなかった。
◇ ◇
「ミカがトリーのことを大事にしてるって、よーっくわかったよ」
食後のお茶を飲みながら、アキは何度もうなずいた。でもその仕草はあまりにも大げさだから、思わずトリーを抱く手に力が入る。
いつもアキは僕のことを「トリーに甘すぎる」ってからかってくる。だからまたなにか言われるのかと身構えたけど、アキは急に表情を引き締めて、深呼吸してから真面目な顔で切り出した。
「あのな、ミカ。大事な話があるんだ」
「うん……」
きっと良くないことだ。
なぜだかそんな予感がしたので僕はぎゅっと目を閉じる。
もしかして市で毛皮が売れなかったとか。それとも豆に虫がわいて、全滅してしまったとか。だから頼んだ小刀が買えなかったと、そんな話を聞かされるのかと覚悟を決めたときだった。
「トリーは…… トリーは、殺されちゃうかもしれない」
「……はぁ?」
あまりにも突拍子もないことを告げられて、頭の中でコッコちゃんが鳴きだした。ワケがわからずぽかんと口を開けていると、アキは愛おしげにトリーを見つめ、それから僕の目をしっかり見据えて語りだす。
それは街で聞いてきたっていう、小さなドラゴンの「遺品」にまつわる狂乱と、それに巻き込まれたお爺さんのことだった。
「そのじいちゃんはさ、トリーと同じ羽を持ってたんだ。だからその羽を売ってくれ、どこで拾ったのか教えてくれって、しつこく都の商人たちにつきまとわれているんだって」
その経緯を、アキは丁寧に教えてくれた。
トリーのことを小さなドラゴンだって教えてくれたそのお爺さんは、羽はお爺さんから貰ったものだから拾った場所はわからないって言い続けてくれている。そうやって、たったひとりで盾になってくれているから商人たちはこの村まではやってこない。でももしも、誰かにトリーが見つかってしまったら。そうしたら、きっとトリーは奪われて、殺されてしまうだろう。
トリーの羽を取るために。
トリーの皮を剥ぐために。
トリーの肉を食べるために。
そして、莫大な金を得るために。
そんなくだらないことのために、トリーを──
ぎゃう
「あっ……ごめんね。痛かったね」
想像だけで怖くなって、つい強く抱きしめてしまったようだ。大丈夫? と翼を撫でるとトリーはくるくるくーと喉を鳴らして僕に頬をすり寄せた。
「……ごめん」
「え、なに? アキが謝ることじゃないだろ?」
「俺……俺さ。トリーの羽を帽子に刺してたんだ」
アキの言葉にはっとした。
コッコちゃんに毟られたトリーの羽を、僕はアキにあげたんだ。あのときアキはとても喜んで、キジの羽と一緒に飾るって言っていた。
「あのじいちゃんは……トリーの羽に気づいてた。だから注意しろって、それとなく教えてくれたんだと思う。……俺、そんな騒ぎになってるなんて、全然知らなくて」
「アキ……」
「もしここに商人が来たら、俺のせいだ。それでもし、トリーが、トリーが……」
アキは小刻みに震えていた。そして目元を手で覆うとうつむいて、ぐっと嗚咽をこらえている。
きっとアキはずっと不安だったんだ。それでトリーが無事かどうかを確かめたくて、街から戻ると真っ先に訪ねてきた。なのにあんなにたくさんトリーの羽が抜けているのを目にしたら、誤解するのも無理はない。
「大丈夫だよ。ここには誰もこなかったよ」
「うん……」
「それになにがあっても、トリーは僕が守るから」
心配しないで、と背中をさするとアキは無言でうなずいた。
そして手で目元を覆ったまま、「俺も」って唇が動いたのに胸がじんわり熱くなる。嬉しくなって、「頼りにしてる」ってささやき返すとアキの頬を涙が一筋伝って落ちた。これではあとでまた目を冷やさなきゃならないな、とそんなことが頭の隅に浮かんだときだ。
きゅーう、きゅん、きゅん
どうしたの、泣かないで。
トリーが首を伸ばしてアキの頬を舐めだした。それにアキはびっくりして顔をあげ、まじまじとトリーを見つめて恐る恐る手を伸ばす。
「トリー……っ」
突然ぎゅっと抱きしめられて、トリーはとっさに逃げようとした。けれど僕のほうをちらりと見ると、諦めたような顔になる。
「そのままでいてあげて」って僕がお願いしたことを、トリーは受け入れてくれたんだ。少し腰が引けていたけれど、それからアキが落ち着くまで、トリーは大人しくアキの腕の中にいてくれた。




