5 変化のとき
朝、まぶたを開けたとき、真っ先に目に入ってくるのはトリーの顔だ。
「……おはよう、トリー」
きゃるきゃるりっ!
オハヨー、オハヨー、カワイイトリー
るるりるりるりっ、きゃうるるるっ
「はは、トリーは今日も元気だね」
寝転がったままで鼻と鼻をくっつけて、朝の挨拶は完了だ。
それから僕は寝台から抜け出して、両手を組んで伸びをする。するとトリーも一緒になって、朝の準備運動を始めだした。
まずはお尻を突き出し頭を下げて、肩と前足をぐぐっと伸ばす。そして次に顎をあげてお尻をおろし、身体を弓なりに反らして腰と後足を伸ばしていく。ここまでは犬や猫でもおなじみだけれど、トリーはここから先が面白い。
右の翼を斜めにぐーっと伸ばしていくのだけど、このときなぜか、右の後足と尻尾も羽の先を掴もうとするように伸びていく。まるでここになにかあるよって教えてくれているようで、慣れないうちはなんども尻尾の先を調べたものだ。
いまもトリーは翼をぎゅーっと力いっぱい伸ばしている。後足はつま先が地面につかずにぷるぷる震え、尻尾も限界まで曲げているからかなりおかしな格好だ。なのにトリーはつんとお澄まし顔でいるものだから、僕はついふきだしてしまうんだ。
きゅるるーう
「あ、ごめんごめん。なんでもないよ」
どうしたの、ってトリーが不審そうに見上げてきたから僕は慌てて誤摩化した。「そお?」ってトリーが左の翼も同じように伸ばしていくのを眺めながら、僕も寝間着を脱いでいく。着替えをすませ、窓を開けて布団を整えるころにはトリーは羽繕いに夢中だった。
「トリー、僕は外に行ってるからね」
声をかけるとトリーは尻尾でぱたりと床を叩いて返事をした。翼の手入れで声が出せないときは、こうやって尻尾を使って合図する。
「あれ、便利だよなー」
もし僕にも長い尻尾があったなら。
そんなことを夢想しながら水を汲んで顔を洗い、そして食事の準備に取りかかる。畑から菜っ葉を少し取って小さくちぎり、作り置きのスープに入れて温める。そのあいだにパンを切り、トリーの肉も食べやすい大きさに切っておく。これで朝ご飯はできあがり。
翼はトリーにとってなによりも大切なものだから、毎朝念入りに手入れをする。だからその間にご飯の支度を済ませると、ちょうどいい時間になるって寸法だ。
お皿を並べてもうあとは食べるだけ。
この状態にして今朝も僕はいつものように、寝室までトリーを迎えに行った。
「トリー、ご飯にしよう、よ……?」
どきりと心臓が音を立て、さあっと血の気が引いていく。
……きゃー……
トリーが「それ」を両手で持ってしならせながら、不思議そうに眺めていた。
薄くて透明で、光の加減で虹色に輝く「それ」はトリーの翼の下にあったモノだ。なのにいま、「それ」はトリーのどこにもついていない。細くなった根元に白い皮のようなものが見えるけど、その先にはなにもない。
「と、トリー……。そ、それ……と、と、と、とれ、とれ……」
くにゃりと膝から力が抜けて、背中が壁にぶつかった。
そのままずるずるとしゃがみ込むと、トリーはまるで「もういいや」っていうように「それ」をぽいと放り投げ、僕のそばまでやってきた。そして僕の膝に手を乗せて「どうしたの、大丈夫?」って心配そうにのぞき込む。
「ご、ごはん……」
あまりにも衝撃的で、口から出たのはそのひとことだけだった。でもトリーは小首をかしげて瞬くと、そうだった、と軽やかに歩いていく。
きゃう!
ゴハンハンハンるるりるりるりー
こんな大変なことが起きたのに、どうしてトリーはご機嫌なんだ。
ぴんと立った青い尻尾が扉の向こうに消えてゆくのを見送りながら、僕は必死になって考えた。大きく息を吸って、吐いて、なんどか同じことを繰り返し、そしてはっと気がついた。ひょっとして、これは以前と同じだろうか。
クチバシが落ちたとき、子供の歯が抜けたとき。
僕は死ぬほど驚いたものだけど、トリーはまったく気にしなかった。だからこれも同じだろうか。
「トリー…… そうなの?」
立ち上がろうとしたけれど、膝が震えて駄目だった。しかたなく羽のそばまで這っていって、そっとつまんで窓の光にかざしてみる。
普段は翼の下で小さく折り畳まれているくせに、飛び立つときはぱっと広がり細かく震え、トリーの身体を宙に支える虫のような透明な羽。2つの羽をすり合わせれば、とても綺麗な音色も出せる。そんな美しい6枚羽の一番小さな1枚が、根元から取れてしまった。
いままでと同じ。きっとトリーは大丈夫。
そう思いたいのに、どうしても信じ切ることができなかった。
だってトリーは飛ぶことが大好きで、翼と羽をとても大切にしてるんだ。その1枚を失って、本当に平気でいられるだろうか。
──きゃーう、きゃーう!
「あっ……ごめんねトリー、いま行くよ!」
早くご飯を食べようよって、お腹を空かせたトリーが切なげに鳴いている。そしてその声を聞いたとたん、身体には力が入るようになっていた。
僕は慌てて立ち上がり、落ちた羽を棚に載せて寝室を後にする。
(大丈夫。きっと大丈夫)
そうやって、なんども心の中で繰り返す。そうしなければ、不安に押しつぶされそうだったから。
◇ ◇
その日の晩、トリーの身体を柔らかい布で拭きながら、羽のあった場所を調べてみた。すると白く盛り上がった柔らかい皮膚の中心が、くり抜いたように丸くへこんでしまっていた。
ここに、あの羽がついていたのか。
さわったら痛いだろう、そう思ってあえてふれずにいたのだけれど、トリーは首を回して盛り上がった部分を牙の先で齧りだした。
「ダメだよ、トリー」
きゃうーぅ
掻かないでって手のひらで蓋をしたけど、トリーはそれを鼻先で押しのけまた齧りだす。
とっても痒いんだよ。我慢できないの。
トリーはそう訴えた。
確かにそこは柔らかくなっていて、牙がかするとぽろぽろ垢のようなものが落ちてくる。だけど痒いときはつい掻き過ぎてしまうものなんだ。だから僕は、かつて母さんがしてくれたようにトリーをぎゅっと抱きしめた。
「うん、痒いよね。だけとちょっとだけ我慢しようね。いまお薬塗ってあげるからね」
きゃうあうあーうぅ
「垢」を綺麗に落としてやって、ばあちゃんの薬を薄く塗る。それからトリーを抱きしめて、翼の上から撫でてやる。最初のうちは痒い痒いってトリーはきゅんきゅん鳴いてもぞもぞ動いていたけれど、やがて落ち着いたのか僕に頬を寄せてきた。
「治まった? 偉いね、トリー。よく我慢したね」
耳の後ろを掻いてやると、トリーは気持ち良さそうにくるくるくーと喉を鳴らす。そしてお返しをするように、肩に乗って僕の頭の毛繕いをし始めた。さわさわと小さな両手が僕の髪をかき分ける感触が心地よい。腕に回された長い尻尾を撫でながら、僕はトリーの羽のことを考えた。
盛り上がった皮膚の下にはつるんとした薄い皮が張っていた。コッコちゃんにつつかれた傷跡と同じような、柔らかくて少し赤みがかった新しい皮。きっとこれからウロコができて、トリーの身体に馴染んでいく。そうなったら羽があった痕跡なんて、綺麗さっぱりなくなってしまうだろう。
「……トリー、こっちにおいで」
きゃるっ
両手を広げると、青い身体がひらりと膝に飛び降りた。なあに、って僕を見上げる脇の下に手を入れ抱きあげて、小さな顎を肩の上に乗せてやる。するとトリーは嬉しそうに僕の頬をなめだした。僕はトリーの喉をくすぐって、背中の翼をゆっくりと撫でながら、これからのことを考えた。
近いうちにトリーはきっと飛べなくなる。
薬を塗るときに調べてみたら、残った羽の根元も白く柔らかくなっていた。だから羽が落ちてしまうのも、もう時間の問題だ。あんなに練習して飛べるようになったのに、いまになって飛べなくなったらトリーはどんなに悲しむことになるだろう。
(僕が支えてあげなくちゃ)
たとえ飛べなくなってしまっても、トリーはたったひとりの僕の家族だ。トリーが不安にならないように、僕がしっかりしなければ。
「心配しないでね、トリー──っぷ!?」
けろりっ
……ぎゃーるるっ!
あっと思ったときには遅かった。久しぶりにトリーの「愛」を食らってしまい、目の前が暗くなる。「これ」はトリーが元気な証拠。それはわかっているけれど、やっぱり勘弁して欲しかった。




