6 密かな決意
今年芽吹いた若い葉っぱが外へ外へと広がって、草地に影を落としている。その樹の根元で膝をつき、僕はじっと息を潜めて待っていた。じりじりとした鋭い日射しは柔らかな緑にさえぎられ、ときおり森からの涼しい風が吹き抜けるから暑くはない。けれど緊張のせいかじわじわと汗がにじみ、手のひらはじっとりと湿っている。
頭の上には枝が伸び、下の草も背が高いから身体は隠れているはずだ。でも合図とともに目の前の原っぱに飛び出して、ウサギを捕まえるなんてできるだろうか。
手にした魚の網を握りしめ、僕はそっと視線を落とす。
影の長さは変わっていない。なのに朝からずっとこうしているような、そんな気分になってきた。落ち着かなくちゃいけないのに、胸のどきどきが治まらない。
(……大丈夫、大丈夫)
一度ぎゅっと目を閉じて、溜まった息をそろそろと吐き出した。それからゆっくり顔をあげ、見上げてみれば枝の向こうに真っ青な空がある。
トリーの色だ。
そう思った途端、気持ちがすうっと楽になった。
急に視界が広がって、遠くが見渡せるようになっていた。小さな葉ずれの音すらも、聞こえるようになっていた。
青々とした草が茂る原っぱや、その向こうの森の樹々。高く響く楽しげな小鳥の歌。深く、ときに浅く流れてくるのは山全体の息づかい。
ざわ、ざわ、ざわわ──ざあっ
葉ずれがまっすぐにやってきた。細い枝をしならせて、大きな葉っぱを引きちぎるようにさらっていく。前方の、太い枝がぐうっとたわみ、次の瞬間青い矢が勢いよく放たれた。
(──危ない!)
矢は地面に向かって鋭く斜めに伸びていく。しかし突き刺さるその直前に急旋回。直後にどっ、となにかが倒れ、草ががさりと音を立てた。そしてそれっきり、あたりはしん、と静まり返る。
最後に草の間から見えたのは、激しく振られた青い尻尾。だけどトリーが無事なのか、僕にはさっぱりわからなかった。嫌な予感が脳裏をよぎり、胸がばくばくと音を立てて鳴り響く。様子を見に行かなくちゃ、そう思って腰を上げかけたそのときだ。
きゃーう! きゃーう!
「きたっ……!」
合図だ。
力強い声にほっとした。だけど最初の目的を思い出して僕は急いで立ち上がり、網を広げて獲物を待った。
せっかくトリーが追い立ててくれたんだ、絶対に逃がさない。必ず捕まえてやるからな。
そう気合いを入れて構えたけれど、いつまで待っても獲物は来ない。
……さわ、さわわ……
汗が頬を伝い落ち、風がそよいで青葉を揺らす。
逃げられたかも。そんな予感がしたときだ。
きゃーう!
呼ばれてはっと目を向ける。すると少し離れた草むらから、トリーがひょっこり顔を出した。さっき落ちた場所のすぐそばだ。そこで後足だけで立ち上がり、首を伸ばして「こっちだよ!」と急かしている。その元気な姿に安心しながら、僕は慌てて駆け寄った。
「トリー、獲物はっ!?」
きゃうきゃう、きゃう
「ほら、トリー。ウサギを狩るんだろ? これじゃ歩けないよ」
足にトリーがまとわりついてきたけれど、狩りはまだ終わっていない。遊ぶのは終わってからね、と喉の下をくすぐると、トリーは軽やかに身を翻して草の中にもぐっていった。
「どうしたの?」
僕も草をかきわけ後を追う。するとそこには両前足を「なにか」に乗せて、誇らしげに胸を反らせたトリーがいた。なんだろう、とよくよく見れば、それには茶色の毛が生えていて──ウサギだ。
きゃるきゃるりっ!
カワイイトリー、ダイスキトリー
きゃうるるるっ!
「ひょっとして……さっきのアレで……狩った、の?」
目を丸くする僕の身体を駆け上り、トリーは「そうだよ」と黒い瞳をくりりと動かし頬をなんどもすり寄せた。
「凄いや…… トリー、凄い!」
僕の出番はなかったけれど、そんなのもうどうでもいい。
それよりもトリーがちゃんと獲物を狩れた、それがたまらなく嬉しかった。だから僕はトリーを抱きしめいっぱい褒めた。するとトリーはくるくる満足げに喉を鳴らすとひょいと地面に飛び降りて、「帰ろう」っていうように、「きゃう」と鳴いて歩き出す。
「あれ……トリー、ウサギは?」
きゃるっ!
さも当然というように、トリーは僕に目を向けた。「もってきて」って、そう言っているようだ。
「なに? 一緒に狩りに行こうって……荷物持ちに来いってことだったの?」
不安だからついてきて。そして狩りを手伝って。
トリーはそう言っていたと思ったのに、全部僕の勘違いだったのか。
あんなに緊張することなかったんだってわかったら、どっと疲れが押し寄せた。身体からはへなへなと力が抜けて、はあっと息を吐いて肩を落とせば握りしめた魚の網が目に入る。
丸い木の枠から袋状に伸びた網。これでウサギを獲ろうだなんて、どうしてそんなこと考えたんだ。
頭が冷えたら急に恥ずかしくなってきて、僕は思わず力いっぱい頭を振った。
きゃるるーう
「あ、なんでもないよ。行こうか」
荷物をかつぎ、不思議そうに小首をかしげるトリーを誘って歩き出す。長い尻尾はぴんと立ち、頭の飾り羽もふんわり広がりトリーは元気いっぱいだ。それはさっきのすばらしい狩りからも良くわかる。
(僕が助けてあげなきゃいけないのに……)
見当違いのことをして、ちっとも役に立ってない。
それがとても情けなかった。
虹色の羽の1枚が落ちてすぐ、残りの羽もつぎつぎに抜けていった。羽が生えていたその場所は、今はもう薄い皮が張ってしまって跡がかすかに残るだけ。
屋根の上に登るとき、大きな水たまりを越えるとき。そして狩った獲物を運ぶとき、トリーは虹色の羽を震わせ空中に舞い上がる。それが突然できなくなって、どんなに辛い思いをしているだろう。
トリーを支えてあげなくちゃ。そのためだったらなんだってしてみせる。
僕はそう決意したのだけれど。
「ねえ、トリー。僕……ハシゴよりは役に立つよね?」
きゃるりっ
トリーがなんて返事をしたのかは、やっぱりよくわからなかった。
◇ ◇
青葉の茂る畑の空を輝く青が旋回する。背中の翼を大きく広げ、風に乗ってトリーはとても気持ち良さそうだ。虹色の6枚羽がなくなってから、トリーは大きな樹のてっぺんから風を捕えて飛ぶようになっていた。
畑仕事をしていると、ときおり小さな影が目の前を過ってゆく。トリーは鳥のように羽ばたけないから、もう飛べないのかと僕はずいぶん心配した。だけどもう大丈夫。あの独特の音が聞けなくなったのは残念だけれど、トリーが元気ならそれでいい。きっと、最初からこうなる予定だったんだ。
「あ、またあった」
青豆の下に生えていたのはトリーの好きな謎の草だ。スミレに似た葉のこの草は、あれから他の場所にもちょこちょこ生えているのがみつかった。菜っ葉に混じったわけでもなさそうだから、種は飛ばされてきたのだろう。これが雑草だったら抜くけれど、トリーのおやつになるものだから別の場所に植え替える。
きゃう、きゃう
謎の草を植えているとトリーがひらりと舞い降りて、僕に身体をすり寄せた。葉っぱをちょうだいってねだるのに、僕はいつも逆らえない。
「はいはい、わかりました。そうだね……これはまだ小さいから、こっちのはどう? 瑞々しくて美味しそうだよ」
きゅるるーぅ
「はい。じゃあ、どうぞ」
柔らかそうな葉っぱを2枚毟って差し出すと、トリーはぱくりと食いついた。もっしゃもっしゃとずっと口を動かしているけれど、飲み込めないわけじゃない。どうも香りを楽しんでいるようで、半分だけ目を閉じながら鼻の穴をぴくぴくと動かして、食べるのが勿体ないって言ってるようだ。おまけにさんざん時間をかけて飲み込むと、「むっふーん」と変な声を出すものだから僕はいつも笑ってしまう。
ぎゃう
「違うよ。トリーは可愛いなって、嬉しくなったんだよ」
なにかを察してうろんな目つきになったのを、抱き上げ抱きしめ誤摩化した。これはとても有効で、トリーはすぐに機嫌を直してくれるんだ。それからお返しとばかりに僕の顔を舐めるけど、実はこれがなかなかいい。
謎の草を食べたあと、トリーの息は良い匂いになっている。草はあんなに苦くて渋くて不味いのに、本当に不思議なことだった。僕も試しに噛んでみようかと思ったけれど、葉を揉んだら青臭さが鼻について口に入れることすら無理だった。
「トリーのお裾分けでじゅうぶん──っ!」
ぎゃーるるっ!
けろっ……ぎゃう、ぎゅー
危なかった。間一髪で防御できてほっと胸を撫で下ろす。だけどトリーは不満なようで、僕の手から木べらを奪うと家の裏手に走って逃げていってしまう。きっと木べらを壊そうと齧っているに違いない。でも、僕にとってはそんなことはお見通しだ。
「まだまだたくさんあるもんね」
トリーは知らないだろうけど、台所の引き出しには木べらがたくさん眠ってる。時間があるときこつこつ作っていたものだけど、このぶんなら夏の間に使い切ってしまうだろう。
「いつまで保つかな」
まだまだ夏はこれからだ。トリーを寝かしつけたら木べら作りに励まなくちゃ。
そんな計画を立てながら、どうやってトリーの機嫌を取ろうかと僕は考えを巡らせていた。




