〜 おやすみなさい、よい夢を
トリーの頭が揺れている。
目も半分閉じていて、いまにも眠りに落ちそうだ。
……きゅっ!
顎が皿にぶつかりトリーがはっと目を開けた。
それからしぱしぱ瞬きを繰り返し、残った肉をぱくりと口に放り込む。
これが最後の一口だ。半分寝ていたようだけど、それでも晩ご飯はしっかりと平らげた。でもそれで最後の力を使い果たしたようだった。トリーはあーうと大きなあくびをすると、くたりと力を抜いて椅子の上で丸くなる。それをそっと抱き上げて、優しく翼を撫でてやった。
「眠いの? じゃあ、寝室に行こうね」
……きゅーぅ……
僕の胸にもたれかかかってトリーは寝言のような返事をした。それから寝室でふかふか座布団に乗せてやると、そのまますうっと寝入ってしまう。
その様子に僕はにやりとほくそ笑む。このぶんなら、しばらくトリーは起きないだろう。計画は巧くいっているようだった。
なるべく静かに食後の片付けと準備をしてから寝室に戻ってみると、トリーは凄い格好になっていた。
座布団のうえで仰向けになって両の手足を目一杯に広げている。翼もだらりと伸び切って、首は仰け反り変な方向を向いていた。おまけに開いた口の隙間からは舌が少しはみ出して、目までうっすら開いている。
まるで死んでしまったようで一瞬どきりとしたけれど、ぷくーぷくーと深い寝息が聞こえてきた。腹はゆっくり上下して、そこをぺちりと叩いてみたけどトリーはぴくりとも動かない。
文字通り、トリーは死んだように眠っていた。
(……びっくりした。でも、これなら大丈夫かな)
もう一度、喉をくすぐりトリーが動かないことを確認してから幅広の長い布を手に取った。
このためにじゅうぶん計画を練ってきたんだ。失敗するわけにはいかなかった。
◇ ◇
トリーの翼を丁寧に折りたたみ、動かせないよう布でしっかり胴体に固定する。それから座布団ごとトリーを持ち上げ居間のほうに移動した。
椅子はテーブルに背を向けるようにして置いてある。僕は椅子を跨ぐように腰を下ろし、胸と背もたれの間にトリーを縦にして座らせた。それからトリーの腹側にもう1枚の座布団を当て、椅子の背に抱きつくような格好にする。この状態で小さな手足を背もたれの両側から外に出し、背中側の座布団ごしに僕がのしかかってしまえばトリーは身動きが取れなくなるという寸法だ。
(このまま眠っていてね、トリー)
とはいえトリーがいつ目を覚まして叫びだすかわからない。念のためにしっかりと耳栓をして、僕はコトに取りかかることにした。
(──じゃあ、勝負だ!)
ここからは早さと正確さが求められる。トリーの後ろから腕を回して右前足をテーブルの上に乗せ、小さな指を1本つまんで黒い爪にハサミを当てる。
肉球よりも少し先、トリーが立ったときに地面に跡が残るぐらいの位置だ。
ぱちっ
──ぴくっ
「…………」
トリーの耳が動いたけれど、まだ大丈夫。
とめていた息をそっと吐き出し僕は次の指に取りかかる。そしてまた、ぱちりと爪を切ったとき、青い頭がぴくりと揺れてトリーはうっすらと目を開けた。
きゅー……
「トリー、どうしたの? 寝てていいんだよ」
穏やかな声をかけるとトリーは寝ぼけながらも不思議そうな顔をした。けれどすぐに眠気に負けて、ふたたびゆっくり目を閉じる。
よっぽど疲れているのに違いない。頭を優しく撫でてやると力が抜けて、すーと寝息が聞こえてくる。息が深くなるまでトリーの頭を撫でてやり、それからまた僕は爪切りに取りかかった。
(3本終わり! いいぞ、トリー。そのままそのまま)
トリーの足には指が5本、そのうち3本は前方を向いていて、残り2本は後方を向いている。そして黒い爪は鋭く尖って内側に湾曲しているから、獲物を捕らえればがっちりと食い込んで放さない。
爪はトリーになくてはならない大切なものだ。
だから切らなくてすむのなら、僕だってそうしたい。
でも、伸び過ぎたのを放っておくわけにもいかなかった。
このあいだ、トリーがトカゲの尻尾を退治したとき、トリーは加減を忘れて力一杯僕の肩を握ってしまった。それで僕の肩には爪が食い込み血が流れ、しばらくずきずき痛んでいた。ばあちゃんの傷薬を塗ったから膿んだりはしなかったけど、腕を上げるとまだ痛むときがある。それに最近トリーは4本足では少し歩き難いようで、水たまりもないのに飛んでばかりいる。だから余計に前足の爪が減らないんだ。
こうなったらもう、切るしかない。
そう決意したはいいけれど、トリーは爪切りが大嫌いだ。いままでなんどか切ったことはあったけど、そのたびに死にものぐるいで抵抗した。刃物を扱っているときに暴れられたらトリーも僕も怪我をする。だからいつも、僕は力づくでトリーを押さえて無理矢理爪を切ることになってしまう。そして終わった後は僕もトリーもぼろぼろに疲れ果て、トリーは盛大に拗ねるから、機嫌を取るのに苦労する。そこで今回はなんとか穏便に済まそうと、寝ている間に爪を切ってしまうことにした。
疲れた、もう帰るってトリーが座り込むまで遊ばせて、ご飯をたくさん食べさせる。するとトリーはぐっすり眠って爪を切られても気がつかないって寸法だ。
この計画は、いまのところとても順調に進んでいた。
ぱちっ
4本目の指が終わり、右前足の最後の1本をそっと握ったときだった。
トリーがびくりと頭を揺らし、指がきゅっと握りしめられた。
まずい、目が覚めた。
ぎゅるる、ぎゃーっ!
ぎゃぎゃっ! ぎゃーー!
ぎゃーっ!
ぎゃーーっ!!
やだやだやだやだ、ボクこれ嫌い! 放してったら、放してよ!
トリーは頭を振って大声で叫びだした。どこからこれだけの声が出せるのか、耳栓をしているのに頭がきんきん痛くなる。
でも僕だって負けられない。
このまま爪が伸びてしまったら、いつかトリーの肉球に刺さってしまう。だから絶対に止めるわけにはいかなかった。
最後まで爪を切るぞと気合いを入れて、暴れるトリーの背中側からのしかかる。トリーはさらに大声で叫んだけれど、翼を動かせないから抵抗は可愛いものだ。
こうなったらさっさと終わらせるしかない。僕は握りしめられたトリーの指をこじ開けて、爪を切ろうとハサミを当てた。
「ごめんね、でも最後まで切ってしまおうね。そうしたら、きっとトリーもすっきりするよ」
ぱちっ
──ぎゃん!
きゃーうぅぅ……
悲痛な叫び声だった。
知らない人が聞いたなら、僕がトリーをいじめていると思うだろう。でもこれはトリーの演技。痛がると優しくしてもらえるって知っているからこんな真似をしてるんだ。
「はいはーい、痛くないのはわかってるよ。もう少しだからね、我慢してね」
きゅーう
きゃーうぅぅ、きゅー
右前足が終わったので今度は左前足に取りかかる。
どうあっても逃げられないと観念したのかトリーは演技を止めたようだ。でもやっぱり嫌だ嫌だと首を竦めて縮こまり、ぷるぷると震えている。
きゃう! きゅーうぅ
ぱちんと爪を切るたびに、トリーは怯えて小さく叫ぶ。
そして縋るものを求めるように鼻先を僕の脇の下に突っ込んで「怖い、怖い」ってきゅんきゅん涙声で訴える。そんな姿が可愛くて、僕はトリーをぎゅっと抱きしめ慰めた。
「ごめんね、トリー。もうすぐだからね」
僕の腕に噛みつけば逃げられるのに、トリーはそれをしようとしない。それどころか僕に助けを求めてくる。それだけ信頼されていると思ったら、深爪なんてできるもんか。
正確に、かつできる限りの早さでもって左前足の爪も切り終える。最後に軽くヤスリをかければできあがり。翼を固定していた布を取り、「終わったよ」と声をかけるとトリーははっとして僕の膝から飛び降りた。
ぎゃぎゃぎゃっ、ぎゃ!
ちゃちゃちゃっ、と爪音も軽やかに駆け出して、トリーは寝室に飛び込んだ。きっと寝台の下に潜り込み、必死になって爪を舐めているのに違いない。そしてそのまま立てこもり、ずっと文句を言い続けるんだ。
◇ ◇
頬を床につけるようにして寝台の下をのぞきこむと、トリーはやはりそこにいた。「おいで」と手招きすると身体を丸め、トリーは奥の方に後ずさり、恨めしそうに僕に不満をぶつけてくる。
ぎゃぎゃう、ぎゃうぎゃう
ぐるぎゃー、ぐるぎゃー、ぐるぐるぎゃー
ぎゅるりるぎゅるぎゅるぎゃるぎゃるぎゅー
ボクが寝ているときに、ひどいことしたでしょ。ボク、イヤだって言ったんだよ。どうしてやめてくれなかったの。
そんなことをトリーは言っているようだ。涙ぐみながらも必死になって訴えるその姿が可愛くて、頬が自然に緩んでしまう。けれどトリーはそうとう怒っているようで、笑わないでとさらにぎゃうぎゃう唸りだした。
失敗した。トリーはいま、とても過敏になっている。よく我慢したねって、僕は労ってあげなければならないんだ。
顔をあげ、トリーから見えない位置で表情を引き締める。そしてこほんと咳をしてから寝台の下をのぞき込み、ごめんなさい、と真面目な顔で謝った。するとトリーはぎゃう、と上目遣いで僕を見る。その表情になんだか頬がむずむずしたけれど、僕は必死になって我慢した。
いまはトリーをいっぱいに甘やかしてやりたかった。だけどこの隙間から出てこないことには話にならない。だから僕は、とっておきの手を使うことにした。
身体拭き専用の柔らかい布、これを取り出し「ほら」と見せる。するとトリーは文句を言っていた口を閉じ、ぴくりと長い耳をこちらに向けて、うかがうように僕を見た。「出ておいで」と声をかけると少し後じさったけど、トリーの目はもう布に釘付けだ。
上手くいった。
僕は内心ほくそ笑む。
トリーは身体を拭いてもらうのが大好きだ。だからこの誘惑には逆らえないと思ったけれど案の定、かなり心が揺れている。
もうひといき。
僕はとどめとばかりに切り札を取り出した。
「今日はね、これも塗ってあげる」
小さな容器の蓋を開け、トリーの方に向けてやる。
するとトリーははっと目を見開いた。そろそろと首を伸ばして容器の中をのぞきこみ、鼻の穴をひくひくさせて匂いを嗅ぐと味見をしようと舌を出す。
食べちゃダメ、と容器を遠ざけるとトリーは未練がましい目を向けた。
「これ、大好きだろ? 今日は奮発するから出ておいで」
手招きすれば、トリーの喉がきゅーと鳴る。頭の飾り羽はぴんと立ち、目は食い入るように容器の行方を追っていた。
あとはもう、きっかけだけ。
いつのまにかトリーは寝台の下からひょっこり顔を出している。それを横目で見ながら、僕は容器をしまうフリをした。するとトリーはやめて、と思わず一歩を踏み出した。
「やっと出てきたね」
しまったという顔で立ちすくむトリーをそっと抱き上げ腕に乗せ、僕は優しく翼を撫でた。まだちょっとむくれているけど小さな手足は僕の服を握りしめ、肩に乗せた顎からは次第に強ばりが解けてゆく。
ぎゃう
長い尻尾がぺちんと僕の腿を叩いたあとに、くるりと腰に回される。
仕方ないから許してあげる。
そう言うように、トリーはぐるぐる喉を鳴らして僕に頬をすり寄せた。僕も「ごめんね」とトリーをぎゅっと抱きしめて、これが仲直りの合図になった。
◇ ◇
寝台の上に布を敷くとトリーはさっそく横になって腹を見せ、期待に満ちた瞳で僕をじっと見つめてきた。「わかっているよ」と微笑みながら、お湯で絞った布を当ててやる。するとトリーは「きゅーう」と気持ち良さそうな声を出す。
トリーの身体は拭くだけでも艶を増す。背中側の青いウロコも側面を走る黒い筋も、お腹側の乳白色のウロコだってぴかぴか輝きどんなものより美しい。
そしてそこに蜜蝋油を薄く伸ばすとこの世のものとも思えないほど綺麗になる。これだけ見れば「神の遣い」って言葉がぴったりだ。
でも、トリーは違う。僕の育てた小さなドラゴン、たったひとりの家族なんだ。
……きゅ……
身体の隅々まで丁寧に拭いてやり、終わるころにはトリーはもう、眠る一歩手前の状態だった。うとうとするのを眺めながら特別な蜜蝋油を手に取ると、はーっと溜息をつきながらうっとりと目を閉じる。けれど眠ったわけではないようで、鼻をすんすんさせて匂いをじっくり堪能しているようだった。
辺りに広がっているのは爽やかな森の香り。蜜蝋油に貴重な薬草を練り込んだ「ばあちゃん特製の傷薬」の匂いだった。トリーはこの香りが大好きで、一度傷薬を全部食べてしまったこともある。あのときは具合が悪くならないかと本当に心配したけれど、お腹を壊したときにも効く薬だから大丈夫だとアキはそう言っていた。結局トリーに異常はなく、それどころかもっと食べるって欲しがった。だけど、貴重な薬を食べさせるなんて勿体なくてできやしない。
けれどこんな日だけは、「がんばったね」ってトリーをねぎらってあげたかった。それに「爪切りの後は気持ちいいことがある」ってトリーが学習してくれたらいいなって、そんな下心だってある。
(トリーは賢いから、いつか覚えてくれるよね?)
そんな願いを込めながら、手のひらで広げた蜜蝋油をトリーの身体に伸ばしていく。頭、首、背中とお腹、指の間も丁寧に。そして尻尾の先まで終わったころには、トリーはすっかり寝入っていた。
大好きな森の香りに包まれて、トリーは本当に幸せそうだ。
そんな寝顔を見ていたら、僕も急に眠くなってきた。
あくびを噛みつつざっと後片付けを済ませると、トリーの隣で横になる。すると眠っているはずなのにトリーは僕にすり寄って、「きゅるる」と楽しそうな寝言を呟いた。
なんだかとても嬉しかった。僕はトリーをそっと抱き寄せ頭を優しく撫でてやる。
明日の朝が楽しみだ。きっとトリーはお日様の光を浴びて、きらきら輝いていることだろう。
その姿を想像しながら僕はゆっくりと目を閉じた。
おやすみなさい、良い夢を。
明日も素晴らしい一日になりますように。




