〜 言葉にならない小さな声・後編
気づけば徐々に影が長くなってきた。まだ空は明るいけれど、そろそろ帰ってご飯の支度をしなければ。
「トリー、帰るよ?」
川岸の、大きな岩に向かって声をかけて片手桶を手に取った。
今日の獲物はハヤが2匹。それほど大きくはないけれど、僕にしたら上出来だ。これはまだ元気だから家に帰ってタライに入れて、明日のトリーのご飯にしよう。
そんなことを計画しながら家に向かって歩き出し、僕はもう一度振り返って声をかけた。
「もう行くよ! トリー、おいで!」
川のへりには大きな岩がひとつある。僕の背丈よりも大きくまわりはごつごつしているけれど、てっぺんには滑らかなくぼみがある。トリーはそこで昼寝をするのが好きだった。今日も僕が釣りをしているあいだ、ずっとそこで寝ていたようだ。だから目が覚めたら元気いっぱい、きっと夜遅くまで騒ぎ立てることだろう。
今夜は寝るのが遅くなる。僕は肩を落として片手桶をその場に置いた。そして岩に向かって歩きながら、どうやってトリーを寝かしつけるか考える。ご飯の後にたくさん遊んでやったら疲れて眠くなるだろうか。でも僕の方がそれまで起きていられるかわからない。いっそのこと僕が先に寝てしまったら、トリーも諦めて寝てくれるだろうか。
そんなことを考えながら岩のてっぺんに手をかけて、身体を持ち上げ僕は中をのぞき込む。
「トリーってば! いつまで寝てる──の?」
かさ、と枯れ葉が音を立てた。
丸くくぼんだ草の寝床、そこは空っぽだったのだ。
「──なんで? 今日はずっとここで寝てただろ?」
あのときトリーは確かに川のほうに歩いていった。僕はそれを見送って、畑仕事を終わらせてから急いで後を追ったんだ。
思い返しても、おかしなことはなかったはずだ。
いつもの場所で釣り竿を振り、腰を下ろすと岩の上にトリーの羽がちらりと見えた。だから絶対ここにいるはずだ。僕はトリーが動けばすぐに気がつく自信がある。だから、いないなんてはずがない。
「なのになんで……?」
身体を降ろして1歩下がって岩を見る。すると風が流れて枯れ葉が揺れた。岩の上でゆらゆら揺れる、それはトリーの頭の羽とそっくりだ。
がつんと頭を殴られた気がした。
つまり最初から、僕が川にやってきたあのときから、トリーはここにいなかったのだ。
そのまま息をするのも忘れて岩のてっぺんに見入っていると、また風が吹いて枯れ葉が揺れた。
(トリーとは全然似ていないじゃないか!)
どうしてあんなものをトリーと間違えることができたんだ。
いつもだったらトリーは魚を捕って、僕に見せてくれるのに。近くにいないときだって、トリーは楽しそうに歌を歌っているはずなのに。そして昼寝をするときだって「ボクはあそこにいるからね」って挨拶してくれるのに。
鳥のさえずりが良く聞こえて静かだな、なんてどうしてそんな暢気にしていられたんだ。
ぎり、と音がするほど強く奥歯を噛みしめて、僕は山に向かって駆け出した。
「トリー! トリー! 返事をして!」
声を限りに名前を呼んでも聞こえてくるのはせせらぎと、そして甲高い鳥の声ばかり。あれから山と狩り場を全部回ってみたけれど、トリーはどこにもいなかった。行き違ってしまったのかと、もう一度川に来てみて捜したけれど、やはりトリーの姿は見つからない。
もう陽が傾いて、空が赤く染まっている。山と樹々の影になって川の近くはだいぶ暗くなってしまっていた。これ以上は明かりなしには歩けない。
ランプを取ってこなければ。
家に向かって急いで足を動かしながら、僕は嫌な記憶を振り払おうと懸命になっていた。
あのとき、トリーを山に捨てたとき。
家の中はがらんとして、なんの気配もしなかった。やけに広くてしんしんとして、まるで父さんと母さんがいなくなったときのようだった。
なにをする気にもなれず、なにも感じずただじっと寝台で丸くなるだけの日々。もしトリーがいなくなったら、またあんな思いをするのだろうか。
(……いやだ。嫌だ!)
トリーが僕のそばからいなくなる。そんな想像をするだけで、怖くて足が震えてくる。トリーが山から戻って僕を許してくれたとき、そのときから僕はもう、トリーがいない生活には戻れなくなっていた。
(助けなきゃ。きっとトリーは僕が来るのを待っている)
僕はトリーが大好きで、トリーも僕が大好きだ。だからトリーが帰ってこないなんてありえない。きっとなにかが起きたんだ。
助けられるのは僕だけだ。
どこにいようと今度はきっと、僕がトリーを捜してみせる。
◇ ◇
玄関を開けると家の中はだいぶ暗くなっていた。台所でランプに火を入れそれを寝室に持って行く。もし僕が出ているときにトリーが帰って家の中が真っ暗だったらきっと悲しくなってしまう。だから僕はここにいるよ、すぐ帰ってくるよって、そう伝えるために少しでも部屋を明るくしておきたかった。
トリーは枕の上が大好きだ。だからその近くにランプを置けば寂しくないに違いない。
そんなことを考えながら寝台わきの小さな台に手を伸ばし、オモチャの入った小さな籠を端に寄せようとして僕ははっと気がついた。
「足りない……どうして」
籠の中にはオモチャが2つ入っていたはずなのに、ネズミのオモチャだけが消えていた。落としたのかと床を捜してみたけれど、やっぱりどこにも見当たらない。
僕の作ったネズミのオモチャ。中に鈴が入っていて、落とすとちりちり音がする。トリーはずいぶん気に入っていたようだけど、最近ではアキに貰ったオモチャで遊ぶことが多かった。
なのにいま、ネズミのオモチャだけが消えている。
「もしかして……トリーが持って行った?」
……ちり
はっとして、僕は耳をそばだてる。
いま、確かに鈴の音がした。
気を張っていなければ聞き漏らすような小さな音。でもそれは、確かにネズミのオモチャの音だった。
「トリー? ……いるの?」
呼びかけても返事はない。
でも息を潜めて探ってみれば、確かに生き物の気配がする。
もしかしてなにか別の動物だろうか。そいつが家に忍び込み、オモチャといっしょに隠れているのか。
不安で胸がざわめいたけど、それは違うとすぐにわかる。
なぜなら帰ってきたとき玄関はきっちり閉まっていたし、トリー以外に扉を開けられる動物はこの辺りにはいないからだ。
でも今度は別の不安が頭をもたげて大きくなった。
トリーはいつも僕にまとわりついて離れない。なのに呼ばれても返事をしないだなんて、このあいだよりもっと酷いイタズラをしでかしてしまったのか。それでトリーは隠れているのではないだろうか。
そんなふうに想像したら、とたんに腹が立ってきた。
僕は身がすり減るほど心配して、ずっと捜していたのにトリーは叱られるのが嫌だからって隠れてる。
「トリー、出ておいで!」
声が大きく鋭くなった。
むかむかと、腹の中が煮えくり返る。
早く無事な顔を見たいのに、どうしてトリーは出てこないんだ。
「トリー!!」
……きゅぅぅ……
腹の底から怒鳴り散らすと小さな小さな声がした。
囁くような声だけど、僕にはすぐにわかってしまう。寝台の下、そこにトリーは隠れている。
もう待ってなんていられない。床にランプを置いて腹這いになると、僕は奥をのぞき込んだ。
「見つけたっ、トリー! ほら、おいで!」
弱々しい明かりに照らされて、トリーの瞳がきらりと光る。
寝台の下の荷物の間、その小さな隙間のいちばん奥で、トリーは縮こまっていた。そこは狭くて窮屈だろうにトリーは少しも動かない。それどころか差し出した手を避けるようにそっと後ろに下がるのに、僕はまたむっとする。
今日の昼前、トカゲの尻尾を退治してからトリーにずっと触れてない。あの滑らかな身体をだっこして耳の後ろを掻いてやって、くるくる気持ち良さそうに喉を鳴らすのを聞きたくてたまらないのに、どうしてトリーは逃げるんだ。
「……トリー? もう怒ってないから、こっちにおいで」
優しく声をかけるけど、トリーは動こうとしなかった。前足でネズミのオモチャを抱え込み、ぷいとそっぽを向いてしまう。
びっくりした。
そんな態度を取られたことは本当に初めてで、僕は言葉も出せずに呆気にとられるだけだった。
トリーが僕を無視している。
その事実に、押さえ込んだ怒りがじわじわとふくれあがってきた。
「なんで? 悪いのはトリーだろ? イタズラして僕に心配ばっかりかけて、なのになんだよ、その態度!」
無性に腹が立ってしかたがなかった。でもそれよりも、トリーに触れたい気持ちが勝っていた。だからこっちにおいでってもう一度声をかけたけど、トリーはやはり動かない。耳だけをこちらに向けて、ぎゅっとオモチャを引き寄せ丸くなる。
どうあっても出てこないつもりだ。
もう僕の我慢も限界だった。ずっとトリーを捜して歩いて、いまだって怒りたいのを必死になって押さえている。なのにトリーはこれっぽっちも悪いだなんて思っていない。
どん、と拳で床を叩き、僕はすっくと立ち上がる。奥ではトリーがびくっとしていたけれど、そんなの気にしていられなかった。
「いいよ、もう! トリーのばか! 勝手にしなよ!」
きゃう……
「なんだよ! 『ごめんなさい』したくないんだろ!? だったら好きにすればいいじゃないか!」
きゅーうぅ
「急にいなくなったから、とっても心配したんだよ!? なのにトリーは! こんなところで隠れてさ、僕のことなんてどうでもいいんだろ!?」
きゅー……
「そんなふうに鳴いたって、許さないんだからな。トリーのばか! ばか、ばか!!」
もうなにがなんだかわからなかった。
怒りと悲しみと愛しさとがごっちゃになって、頭の中でぐるぐる回る。
トリーが僕に意地悪した。それがとても悲しくて、胸が締めつけられるように痛かった。やがて息をするのも辛くなり、僕はその場にしゃがみ込む。
そのままうなり声をあげながら、床に拳を打ちつけた。なんどもなんども拳を打って痺れて力が入らなくなると、今度は急に情けなくなってきた。
どうしてこんなことになったんだ。
僕はトリーが大好きで、トリーも僕が大好きで、だから仲良く暮らしていけるはずなのに。いままでずっと、うまくやってきたはずなのに。それが全部、僕の思い込みだったというの。
悔しくて、握った拳に涙が落ちる。
ぽつ、ぽつと床に染みを作るのを、僕は水の膜越しにじっと眺めているだけだった。
溶けた心といっしょになって、涙は流れ落ちてゆく。
いつになったら止まるのか、心がなくなるまでこのままなのか、僕にはよくわからない。
目からあふれたその瞬間は熱いのに、涙は頬を伝うとすっかり冷たくなってしまう。まぶたを閉じてもその流れは止まらずに、冷えた涙が床に落ちて染みになる。
もう目を開けるのもおっくうだった。頭全部がぼんやりとして、なにもかもがどうでもよくなっていた。
だからそんなとき、さりっと音を立ててなにかが頬に触れたから、僕は「わっ」と声をあげてしまったんだ。
きゅーう
腫れた目を無理矢理こじ開け見てみれば、トリーが僕をのぞき込んでいた。そして僕の頬を流れる涙を、首を伸ばして一生懸命舐めとってくれている。
「トリー……」
きゅう
手を差し出せば、トリーはすりりと頭をすりよせる。
その感触に、僕ははっと息を呑む。
手のひらが濡れていた。おでこは乾いているのに頬から顎にかけてがしっとりと冷たくなっている。そしてトリーがぱちりと瞬けば、きらりと光る筋が見えた。
ああそうか。すとんとなにかが胸の中に落ちてきて、僕ははっきりと理解した。
トリーも同じように泣いていたんだ。だから──
「トリー……っ!」
両手を広げておいでと言うと、トリーは恐る恐る近づいて、遠慮がちに僕の身体を登ってきた。そっと優しく抱いてやると、きゅんきゅん鼻を鳴らして僕の顔を舐め回す。
ほっとした。
こうして触れ合っているだけで、心がすうっと軽くなる。身体の中で凝った澱が消えてなくなっていくようだ。
嬉しくなって、僕はトリーをぎゅっと抱きしめた。
ほら、トリーはこんなに優しい。
たったひとりの僕の家族で可愛いトリー。こんなトリーが意地悪なんてするはずない。だってトリーはネズミのオモチャを抱いていた。僕が作ったオモチャを選んで、それにすがって泣いていたんだ。
辛かったんだろ? なにがあったの?
そうやって、優しく静かに声をかけるとトリーは「きゅう」と鼻を鳴らし、ふるりと耳を動かした。顎を僕の肩にちょんと乗せ、そして顔を見せずになにかを訴えるように語りだす。
きゅんきゅんきゅーう、アッハッハー
きゃるきゅるきゅー、トリーハバカー
はっとした。
まるで見えない金槌で頭を殴られたような衝撃だった。
あまりのことに、息が詰まって言葉がなにも出なかった。
そしてどうしてトリーが意地悪したのか、その理由もはっきりした。
だってトリーは僕とそっくりな声で笑ったから。
悪いのは、全部僕のほうだったんだ。
「……ごめんね、トリー。辛かったよね」
きゅーうぅ…… ゴメチャイ
「トリー…… 違うよ。『ごめんなさい』するのは僕のほうだ」
トリーの身体を撫でながら、なんども「ごめんなさい」と繰り返す。すると、ぺしゃんとしていたトリーの頭の飾り羽も少しふんわり広がってきた。
まるで冠のように豪華なトリーの頭の飾り羽。いつもきれいに広がっているそれが、こんなにぺしゃんとしぼんでいるのにどうして気づかなかったのだろう。言葉を交わせなくてもわかるのに。トリーの気持ちは全部ここに出てくるのに。
あのとき、トリーがトカゲの尻尾を退治したとき、僕は腹を抱えて笑ってしまった。だってあまりにも面白くて可愛いから、とても笑わずにはいられなかった。けれどトリーにしたら、初めて出会った未知の敵を必死になって退治したのに笑われたことになる。馬鹿にされたって、そう思ってもしかたがない。
僕の不用意な行動が、トリーを深く傷つけた。
あれから川に向かったと思ったけれど、トリーは家に帰ってたんだ。そこでネズミのオモチャを抱きしめて、ひとりで落ち込んでいたに違いない。
だから一方的に叱られて、もっともっと傷ついた。「ボクはなにもしてないのに」って、反発するのも当然だ。僕の顔なんて見たくもない。きっとそう思っていたことだろう。
でも、それでもトリーは僕のことを慰めてくれたんだ。「泣かないで」って、トリーのほうが辛くて悲しい思いをしているのに、僕を心配して力づけてくれたんだ。
僕は深く後悔した。
もう二度とこんなことはしないって、固く心に誓ってトリーにたくさん謝った。
そしてトリーはそんな僕を笑って許してくれたんだ。
その、はずだった。
◇ ◇
「──ぅわあっ!」
ぶつっと糸が切れた感触が伝わって、僕はたまらず尻餅をついてしまう。
また、やられた。
せっかく大物が釣れるかと思ったのに、糸を切られて逃げられた。
「くそっ」
釣り竿を放り投げ、ごろんと仰向けに転がった。
アキと同じ糸と針を使っているのに、どうして僕のはすぐ切れてしまうんだ。滅多に切れない丈夫な糸だって、アキはそう言っていたはずなのに。
ぶつぶつと口の中で文句を言っていたら、トリーの羽音が近づいてきた。
うわあぁーん
──どさっ
起き上がって見てみれば、大きなハヤが僕の隣で跳ねていた。
慌てて掴んで片手桶に放り込み、僕はトリーに笑顔を向ける。
「凄いね、トリー」
きゃるきゃるりっ!
バカー、バカー、アッハッハー
きゃうるるるっ
「…………」
黙りこくった僕の前で、トリーはつぶらな瞳をくりくりと動かした。耳の後ろの飾り羽は誇らしげに広がって、長い尻尾もピンと天に向かって伸びている。
トリーはとてもご機嫌だ。
だけどちょっと腑に落ちない。
鼻の穴がぴくぴくと広がって、これはまるでイタズラをしたときの顔じゃないか。
「ねえ、トリー。ひょっとして、まだ……怒ってる?」
きゅるきゅるるっ
カワイイトリー、トリタタタッ
トリーは楽しそうに声をあげ、くるりと踵を返して岩の方に駆けていった。そしてあっという間にてっぺんまで登っていくと「きゃう」とその場で横になる。
その様子に僕は深く後悔した。
トリーが意味を知っているとは思えない。けれどどういうときに使う言葉なのか、それをしっかり覚えてしまったようなのだ。
(どうして『ばか』なんて言っちゃったんだよ……)
トリーはどうすれば忘れてくれるだろう。
やっぱり別の言葉を教えるしかないだろうか。
それなら今度は「大好き」って言葉にしよう。ちょっと照れくさいけれど、これならきっと問題ない。
はあ、と大きく息を吐き、僕は腰を下ろして岩を見た。てっぺんでは青い飾り羽がさわわと揺れて、トリーはすっかり寝入ったようだ。
それを横目に僕はまた釣りをする。
本当に、トリーには敵わない。そんなことを思いながら。




