11 目覚め
きんと張りつめた空気が肌を刺す。
数日前、急に暖かくなったと思ったけれど今日はまた冬に逆戻りだ。
それでも手のひらを陽に向ければほんのりと熱を持ち、地面もどこか柔らかい。
春はもう、すぐそこまで来てるんだ。
じゃく、じゃく
歩くたびに氷の崩れる音がする。
ぬかるんだ地面についた僕の足跡。そこが凍って霜柱ができている。少し前まで踏んでもびくともしなかったのに、いまはあっけなく潰れてしまう。
靴底の感触を楽しみながら、僕は畑に向かって少し歩いた位置で足を止めた。
家を出てすぐ道を逸れたこの場所に、トリーの小さな足跡がついている。前2つと後ろに1つ、地面にめり込むようにしっかり跡がついていて、最後の1つはちょんと触っただけの浅いものだ。今朝もまだちゃんと形が残っていて、こちらもそのまま霜柱になっていた。
この足跡ができたときのトリーの顔。思い出したらまたおかしくなってきて、僕はくすりと吹き出した。
たたっ、たっ、たっ、たたっ
つららから雫が落ちる、軽快な音。
この日は朝からさんさんと日が照って、暖かい風と陽の光に誘われたのか、玄関を開けたとたんにトリーは外に飛び出した。きゅるきゅる鳴きながらまっすぐ畑に向かって駆け出して、けれど一歩踏み出した途端にぴたりと足を止めてしまう。怪訝に思いながら見ていると、耳の後ろの飾り羽と翼がじわじわ逆立ちながら膨らんで、尻尾が上に向かってぴんと伸びた。そのうえ後足が1本だけ腹の下で丸まって、ぷるぷると震えている。
3本足で立つなんて、どこか怪我でもしたんだろうか。
僕は慌てて駆け寄った。
「トリー?」
……きゃーう
トリーは弱々しく一声鳴くと、錆びたネジを回すようにゆっくりと振り返って僕を見た。口元は引きつりまるで笑っているように見えるけれど目は三角になって釣り上がり、腹の下で丸まった片方の後足はじわじわ伸びて地面に触れるとぴょっと丸まり持ち上がる。
そのまま持ち上げた後足で何度か宙を掻くとトリーはもう一度、助けを求めてきゃーうと鳴いた。
「どうしたの? どこか痛いの?」
脇の下に手を入れ抱き上げるとトリーは翼をばたつかせて身をよじり、わたわたと僕の身体にしがみつく。両手で僕の首元を握りしめ、後足はズボンのベルトに引っ掛けて、背伸びをしながらまずは僕の顔を舐め回した。それからなにかを訴えるように、もの凄い勢いでしゃべりだす。
きゃきゃるっ、きゃるきゃる、ぎゃるりるぐるる、つぴつぴりー!
ぐるぐるぎゃうぎゃ、きゃるきゃるりっ!
ぎゅるぎゃる、りりりるトリタタタっ!
あのね、あのね。地面がボクの足を食べようとしたの!
まるでそんな声が聞こえてくるようだった。
その必死な顔があまりにも可愛くて。どうやら怪我したわけじゃないと安心した僕は我慢できずに大声で笑ってしまった。トリーも一瞬きょとんとしたけれど、すぐに一緒になって笑い出す。
冷たい泥が指の間を通り抜ける感触は、確かに気持ちの良いものではないだろう。だけどトリーがそれをこんなに嫌がるとは思わなかった。
ぬかるみにはまったのは一度きり。なのにあれからトリーは地面を歩くのに驚くほど慎重になっていた。つまり、泥を踏まないようにと外に出るときは飛ぶようになったのだ。
うわぁあーん
独特の羽音が近づいて、僕の背中に着地する。
すぐに肩の上からトリーが顔をのぞかせて、僕の頬をぺろりと舐めた。お返しに喉の下をくすぐると、きゅるきゅる喜びすりりと頬を寄せてくる。
僕はすっかり歩く止まり木になったけれど、そんなの全然嫌じゃない。
トリーが飛ぶと心地よい音がするから。低い響きに重なる少し高い小さな音。そしてさらに小さな高音が重なって、まるで歌うように聞こえてくる。
僕は、この音が大好きなんだ。
山を歩けば樹々の間をトリーは器用に飛び回る。
灰色の幹を横切る深い青。空の一番綺麗な部分を集めたら、きっとこんな色になる。もうすぐ季節が一巡り。見上げれば、トリーの卵を拾ったときと同じ青い空が広がっていた。
「今夜は兎鍋かな。帰ろう、トリー」
きゃるるっ、トリー!
空を見ていたトリーがうぅーん、と羽音を立てて戻ってくる。飛び立つ時に助走はもういらないし、着地もとても滑らかだ。
トリーはこの冬のあいだにぐっと大人びてきた。
顔立ちもどことなく精悍になってきたし、胸や足には筋肉もついてきた。甘えん坊なのは相変わらずだけど、ときどきじっと北の空を眺めている。
仲間があの空の向こうにいることを、きっと知っているんだ。
トリーは帰りたいのだろうか。
やっぱりドラゴンの世界に帰してあげるのが、トリーの幸せなんだろうか。
◇ ◇
そんなことを考えている間にも、どんどん日は長くなった。
はりつめた空気はほどけて柔らかくなり、樹々の芽も徐々に膨らんで、もうすぐ春告鳥が鳴くだろう。本格的な春を前にして、僕は畑の準備に取りかかった。
まずは固くなった土を掘り起こす。ここはずっと畑だったから、耕すのは楽な方だ。それでも広さがあるぶん時間がかかり、一日では終わらない。次の日も朝から鍬を振るい続けて身体がほかほかと暖まってきたころのことだ。
ケーッ
細くしわがれた声が響いて僕ははっと顔をあげた。
あの声は、ヒナさんだ。
死んだ父さんが名付けた雌鶏で、僕にとっては形見のようなものだった。母さんは卵を産まなくなったら絞めようね、って言っていたけどその遺言は果たせていない。二人が生きているころから家にいた鶏だから、最後まで面倒みてあげたかった。
手にした鍬を投げ捨てて、僕は鶏小屋に向かって駆け出した。
いま、ヒナさんはひとりで散歩してたはずだ。年をとってすっかりおばあちゃんになったから、虐められないように他の鶏たちとは別にしているんだ。
ずっとキツネもイタチも出なかったし、頑丈な柵の中だからと油断した。
あんなふうに鳴くなんて、きっと襲われたに違いない。
僕が助けるから、どうかヒナさん、無事でいて。
「……なんで」
柵の中で飛び散った白い羽。ヒナさんは逃げようと弱々しくもがいたけれど、首に刺さった牙は抜けなかった。そして最後に小さく羽ばたくと、徐々に力が抜けてぐったりとしてしまう。
ああ、ヒナさんが。
最近めっきり食が細くなり、寝ていることが多かった。
この夏は越せないだろうと、そう思っていたけれど。
でも、なんでいま、こんなことに。
動かなくなったヒナさんを「それ」はくわえなおして飛び立った。
わぁあん、と不思議な羽音が僕の前に舞い降りて、ヒナさんを降ろすと一歩下がって行儀良くおすわりをする。
僕の足元に置かれたヒナさんは、ぴくりとも動かない。翼がだらりと伸び切って、わずかに開いた口元からは血の気をなくした舌が見えた。首筋には赤い染み。量は多くないけれど、首が変な風に曲がっている。
──ヒナさんは、もう二度と動かない。
そうはっきりと意識したとたん、からからに乾いた口から引きつるような声がもれた。
胸が締めつけられるように苦しくて、でも指先すら動かせない。
鶏小屋ではコッコちゃん達が大騒ぎしていたけれど、それもずっと遠いところの出来事で。
動かなくなった僕にしびれを切らしたのか、「それ」は首を傾げると、とことこ近づいてきた。後足で立って膝に手をかけ、もう一度不思議そうな顔をする。それでも動かないでいると「それ」は身体を登ってきた。
呆然とヒナさんを見つめる僕の視界に、ひょっこりと顔が現れる。
軋む首を動かして、やっとのことで「それ」を見ると、青いウロコの口元に赤い染みが残っていた。
禍々しい、鉄の赤だ。
僕はそこから目が離せなかった。
きゃう
まじまじと見つめる僕の目の前で、「それ」はぺろりとその赤を舐めとった。
誇らしげなその様子に突然、背中がぞわりと泡立ち震えだす。
とっさに「それ」を振り払い、僕はその場から逃げ出した。
怖かった。
あの赤い色が、人の血に見えてしかたがなかった。
もしトリーがマスタードラゴンだったとしたら。
いつか大きくなって、食べる物がなくなったら。
──ヒナさんみたいに、人を襲うの?
その日の夜、僕はどうしてもトリーと一緒に眠ることができなかった。だから僕は寝室の外に出ると扉を閉めて、そのまま毛布をかぶって腰を下ろす。中からきゅんきゅん寂しそうなトリーの声と、扉をかりかり掻く音が響いてくる。けれど僕は、扉を開けることができなかった。
わかっている。
トリーは悪くない。
雉は良くて鶏はダメだなんて、僕ら人間が勝手に決めたことだ。
いままでだって鼠や土竜を獲ったら褒めていた。だから大きな獲物が獲れたとトリーは自慢したかったのだろう。
トリーは肉しか食べられない。だから動物を狩るのは当たり前のことなんだ。
でも。
地面に散った白い羽と鮮血の赤。
口の周りを赤く染めた青いトリー。
そのどれもが脳裏に焼き付いて離れない。
前にアキが言っていた、僕らとトリーは「住む世界が違う」という言葉。
このときになって、僕は初めて理解できた。




