第8話 黒須について
黒須先輩のおもちゃになってから、恐れていたような恐ろしいことは特に起きていない。……あの人のことを黒須先輩と呼ぶのも悔しいな、やはり黒須さんと呼ぶことにしよう。
変化といえば、皆が放課後に部活動に勤しむように、僕もエクストリームアイロニング部に顔を出すようになった。正確に言えば顔を出さざるを得なくなった、というのが正しいということを僕の誇りにかけて言わせてほしい。
「起立、気をつけ、礼」
「「あーさーしゃー」」
「あぁいさよーなら」
皆やる気のない挨拶をして、帰宅やら部活やらで教室をぞろぞろと出て行く。日直の二人が憂鬱そうな顔で掃除ロッカーに箒を取りに行くのを横目に見ながら、僕は皆の流れに乗って教室から出ようとした。
「松村くん、一緒に行こ」
僕を呼ぶ声に、気づかないふりをしてそのまま歩き続ける。振り返らずとも、その声の主が誰か分かるし、迂闊に反応した後の事も分かる。
「ねぇ、一緒に行こ」
肩を叩かれ、身体がブルリと震える。思わず「うぇっ」という柑橘類の合いの手のような声が出た。
振り返ればそこには村雨がいた。無駄に良い笑顔でこちらを見ている。不意打ちの”可愛い”に口角が釣り上がりそうになるのをグッと抑えて、極めて不満といった表情を作った。
「えー、今日は黒須さんいるの?」
「いるらしいよ」
「なら行くかー」
黒須さんがいなければ僕の黒歴史を言いふらされる心配はない。しかし、そうでないなら顔を出したほうが良いだろう。
それとは別に、この生活を楽しいと思っている自分がいるのだ。なんか知らんけどクラスの美少女に好かれるやれやれ系主人公になった気分である。
クラス内ではじめは浮いていたが、村雨がちょっかいをかける男として声をかけられ、面白がってもらえたのか仲良くする人も増えた。その一例として近くの席になった佐々木遼太郎である。
『正直村雨さんのことどう思ってんの?』
『正直にいったらコロされそうなんだけど』
『コロさないから安心しろって、ちょっとキュッってなるだけだから』
『締めるつもりで草。……本当のこと言うと、微妙に苦手』
『本当に正直そうでおもろい』
『なんかカラオケとかあんま得意じゃないのに急に振ってきてさ、押原とかのグループにぶち込まれたんだよ? さすがに断るの空気読めなさ過ぎるから行ったけど』
『いいやん、全然楽しそうだけど』
『違うんだって、僕って陰キャ過ぎてなんもできないんだよ。流行りの曲知らないし。深海魚が浅瀬に出てきちゃダメなんよ』
『自認深海魚なん?』
という具合である。いま思えば半分愚痴ではあったが、そんな具合で仲良くする人も増えていった。
件の村雨であるが、苦手というのは本当である。自称陰キャの僕にとって、村雨の輝きは眩しすぎるのだ。
もちろん一緒にいるのは楽しいし、シンプルに可愛いから眼福である。だが彼女の空気感とか距離感が分からず、驚かされる事もたくさんある。いわゆる陽キャの間合いで、陰キャの自分には刺激が強すぎるのだ。
一言で言うなら美少女ジャンプスケアといったところか。
危うく好きになりそうなところだが、僕はただの勘違い陰キャとは違う。女子に話しかけられただけで好意と勘違いして爆散する陰キャは星の数ほどいる。一方物語のような陰キャ大勝利展開は現実では一度たりとも見たことがない。
僕は陰キャである自覚を持ち、陰キャであることにある種のアイデンティティすら持つ陰キャである。ならば村雨に好意を抱くということは馬鹿を見るだけである。仮に好意を抱いたとしても、その好意は心の奥にそっと沈めておくだけだ。
……陰キャと言い過ぎである。
「松村くんって色乃先輩のこと好きなの?」
「なんでまた急にそんなことを」
「だって色乃先輩がいるって言ったら一緒に来てくれるっていうんだもん」
そう言い頬を膨らます村雨。
「まぁ、あの人がいないなら行く意味ないし」
「うわー、やっぱりそうなんだ」
「“そう”ではないからな?」
「じゃあなんなの?」
「それを説明するには山あり谷あり兎角複雑な理由があるのだよ」
「それ誰の真似?」
「松村オリジナル」
「ふふ。……」
「なんだその目は」
「危うくはぐらされそうになったから」
「はぐらかすって何を?」
「松村くんが色乃先輩のこと好きなのかなーって。吉田先輩が泣いてるよ?」
「違うから」
「どっちが?」
「どっちもだよ。僕は別に黒須さんのこと好きじゃないし、吉田先輩は彼女いるらしいし」
「え! ほんと!?」
「分からないけど、黒須さんが言ってたよ」
「へー、先輩の彼女さん見てみたいなー」
「黒須さんなら、――やっぱいいや」
黒須さんなら、謎の情報収集能力で先輩の彼女の写真くらい手に入れるだろう。なんせ僕が昔捨てたはずの黒歴史ノートの存在のみならず、その一節を知ってるくらいなのだから。
ただ、その能力に言及して黒歴史ノートまで辿られるのは避けたい。そんなことが脳をよぎったせいで、妙なところで言葉が途切れる。
「なにそれ気になる」
「いーや言わない」
「えー良いでしょ?」
「仲が良さそうで嬉しいよ」
「げ、黒須、さん」
「げ、とはひどいじゃないか」
部室の前でダラダラ話をしていたら、黒須さんに見つかってしまった。この人に見つかって良いことなど一つもない。しかもそれを表情に出すともっと良くない。
「2人仲良くなんの話をしてたのさ?」
「なんでもないですよ。ねぇ、お姉さん?」
「吉田先輩の彼女について話してました」
……終わった。どうやら村雨は空気を読むということを知らないようだ。村雨のほうに視線を向けると、村雨は微笑んでくる。天然ではなく確信犯なら質が悪い。
「あー湖月のことか」
「黒須先輩ってコツキさんの写真あったりしますか?」
「もちろん。吉田くんとのラブラブツーショットの写真があるとも」
「えー見たい!」
南無。心の中で吉田さんに合掌する。黒須の呪縛に囚われた吉田さんにプライバシーなど存在しない。ついでに勝手に写真を見せられた湖月さんにも合掌しておく。プライバシー is 死んだ。
「コツキさんめっちゃ綺麗! 吉田先輩もやりますね」
「2人はもともと幼馴染だったんだよ。でも両親の都合で離れ離れになったけど、高校になって再会。湖月の友だちである私は、湖月が悩んでるのを知ってたから、吉田くんを引き合わせてハッピーエンドってわけさ」
「恋のキューピッドじゃないですか」
「そうともいうね」
確かに黒須さんの言い分だけ切り取れば恋のキューピッドである。しかしそれは黒須さんがどういう人間かを知らないからこその発言である。
黒須さんは――
「……どちらかと言うと悪魔だろ」
「松村君。聞こえてるよ」
ボソっと呟いたつもりが、やはり彼女には聞こえていたようである。
「すみませんでした」
僕は爆速で謝罪した。




