ロード・ジェローム
廊下での騒動から、約二時間が経過した。
テオという存在が危害を加える者ではないと理解できたのか、リンネはようやく落ち着きを取り戻していた。もちろん、俺の方も声のトーンや仕草の一つ一つに細心の注意を払い、彼女を怯えさせないよう神経をすり減らした結果だ。
「あ、あの……色々と、ありがとうございました……テオ坊ちゃん」
床を見つめたまま、蚊の鳴くような声で彼女は呟いた。だがその唇の端は、ほんのわずかだけ、奇跡のように緩んでいた。
「いいってことよ。怪我がなくてよかった」
正直、調子が狂う。故郷の村でリヴィアとティヴァルを助けた時は、三人というグループだったから空気が自然と紛れていた。だが、ここは違う。リンネは息を呑むほど物静かで、時折大きな灰色の瞳を恐る恐るこちらへ向けてくる。おまけに護衛のヴェラが、腕を組んで壁に寄りかかりながら、ニヤニヤと意地の悪い生温かい視線で俺たちを観察し続けているのだ。居心地が悪くて死にそうだった。
その後、俺たちは屋敷の中央にある応接間へと通された。
広大ではあるが、マルボルト家の屋敷とは根本的に造りが違う。無駄な金銀の装飾は一切排除され、掛けられたタペストリーは機能的で、壁の武具はいつでも実戦に投入できるよう研ぎ澄まされている。質実剛健を絵に描いたような、歴戦の軍閥の邸宅だ。
屋敷の慌ただしい空気から察するに、この領地の主は長い哨戒遠征から戻ったばかりらしい。そんな疲労困憊の相手に、五歳児のガキが挨拶に出向くのだ。胃が痛むのも無理はなかった。
重々しい軋み音を立てて、扉が開いた。
暖炉の火が赤々と燃えるその部屋に、男が入ってきた。 名前はジェロームというらしい。このベルガード王国でどれほどの地位にある大物なのかは知る由もない。
彼の姿を認めるなり、リンネはソファから飛び起き、背筋を真っ直ぐに伸ばして深々と頭を下げた。
「ジェローム様! お、おかえりなさいませ!」
男は部屋の真ん中で足を止め、驚いたように瞬きをした。
四十代半ばといったところか。こめかみに白いものが混じる短髪、鍛え抜かれた広い肩幅、そして綺麗に整えられた短い髭。だが、威厳に満ちたその表情を崩したのは、目の前の小さなメイドの「明るい出迎え」に対する純粋な当惑だった。
それもそうだろう。普段は影のように縮こまり、恐怖に震えているはずの少女が、見知らぬ客人の隣で小さく微笑みながら頭を下げているのだから。
ジェローム卿の険しい目元が緩み、温かな笑みがその顔に広がった。
「おお……長旅の疲れも吹き飛ぶというものだ。出迎えをありがとう、リンネ」
彼は大股で歩み寄り、俺の前に立つと、分厚いタコに覆われた武骨な右手を差し出してきた。
「初めまして、若き客人。私がこの屋敷の主、ジェローム・ヴェインだ」
「初めまして、ジェローム卿。テオ・マルボルトと申します」
挨拶を交わし、暖炉を囲む革張りのソファへと腰を下ろす。ジェローム卿は深く腰掛けながらも、その鋭い鳶色の瞳で、値踏みするように俺の全身を観察していた。
「ヴェラからの報告を聞く前に一つ……テオ殿、君は以前からリンネと面識があったのかな?」
奇妙な質問だった。俺は前世も含め、この国に足を踏み入れたことすらないのだ。
「いいえ。今日、この屋敷で初めてお会いしました」
ジェローム卿はわずかに眉を寄せ、顎を撫でながら感嘆のため息を漏らした。
「そうか、そうか……不躾な詮索をすまない。なにせ、三年前に私が彼女を救い出して以来、あの子が私やヴェラ以外の誰かに心を開き、言葉を交わすなど一度としてなかったのだ。見知らぬ他人に笑いかけるなど……我が家にとっては奇跡のような出来事だよ」
「救い出した……ですか?」 思わず、疑問が口からこぼれた。
ジェローム卿は穏やかな視線をリンネへと向け、優しく促した。
「リンネ、すまないが熱いお茶と焼き菓子を用意してくれるかい?」 「は、はい、旦那様!」
リンネは小さく頷き、俺の方をチラリと名残惜しそうに見つめてから、パタパタと小走りで部屋を出ていった。
扉が閉まり、足音が遠ざかると、部屋の空気がスッと重みを増した。 ジェローム卿は暖炉の爆ぜる火を見つめながら、静かに語り始めた。
「どこから話すべきか……ああ、根本の話からしよう」
彼は深く息を吐き、五歳児にも伝わるよう言葉を選びながら紡ぎ出した。
「私は若い頃、典型的な『お飾りの貴族』だった。安全な城壁の中に引きこもり、血筋を鼻にかけるだけの傲慢な若造だ。だが十四歳の時、ある一人の類まれな女性と出会い、恋に落ちた。思いの丈を伝えた私に、彼女は冷たくこう言い放ったよ。『民が一切れのパンのために泥水を啜っている時に、屋敷でぬくぬくと怯えているような臆病者と結ばれる気はありません』とな」
ジェローム卿は自嘲気味に目を細めた。
「雷に打たれたような衝撃だった。そこで初めて、貴族社会の欺瞞に気づいたのだよ。民の上に立つ者が泥を被らなければ、待っているのは破滅だけだ。考えてもみたまえ、テオ殿。もし君にたった一人の使用人がいたとして、その者を蔑ろにすれば背中を刺される危険がある。それが何百、何千の民となれば尚更だ。上に立つ者が身を削って模範を示さなければ、怨嗟は反乱へと変わる。シラード王国が内戦で崩壊したのは、まさにその怠惰のツケが回った結果なのだよ」
理路整然とした、骨太の哲学だった。この男はただの筋肉貴族ではない。真の統治者としての器を持っている。
「私は彼女と共に剣を取り、領民を守るために前線を駆け回った」とジェローム卿は続ける。「その過程で、国境の闇に潜む不当な人買い組織を壊滅させ、多くの罪なき人々を解放した。その後、私たちは結ばれたよ。彼女は私に『強さとは、弱き者を守るために振るうものだ』と教えてくれた。……だが数年前、病によって先立たれてしまってね」
重い沈黙が落ちる。卿は視線を扉の方へと向けた。
「三年ほど前、東の国境にあった孤児院が凶悪な野盗団に襲撃され、他種族の子供たちが違法な闇市場へと連れ去られる事件が起きた。私は騎士団を率いて急行し、賊を皆殺しにした。……だが、地下の牢獄の扉を破った時、我々は手遅れだった」
「他の子供たちは……どうなったのですか?」 喉がカラカラに乾くのを感じながら、俺は尋ねた。
「全滅だ。飢えと寒さ、そして過酷な暴力によって命を落としていた」
ジェローム卿は苦痛を押し殺すように拳を握りしめた。
「リンネだけが、あの地獄で唯一の生き残りだった。鉄の檻の中で、小さな拳を血まみれにして、木と石の壁を殴り続けていたよ。あの子は魔力を一切宿せない『シルツ族』のエルフだ。同族からすら『出来損ない』と見捨てられた存在だった。私はあの子を引き取り、傷を癒し、生活の場を与えた。だが……あの子の心は、ずっとあの冷たい檻の中に囚われたままだったのだ。今日、君がその扉を叩くまでな」
カチャリと音がして、リンネがお茶と菓子の乗ったトレイを運んできた。 湯気の立つカップをテーブルへ配膳し、彼女は定位置へと下がって静かに佇む。
今まで壁際で黙って成り行きを見守っていたヴェラが、ようやく重い口を開いた。
「ジェローム。このテオ坊やは、あのアーサー・マルボルトとミレルの息子だ。魔術の腕前は桁外れだが、シラードの学院が消し飛んじまった。親父さんからは、外の世界で一人前に生き抜く術を仕込んでくれと頼まれてる」
ジェローム卿はカップを置き、俺を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、嘘を許さない武人の厳格さが宿っていた。
「ならば聞こう、テオ殿。君は名門の血を引く貴族の子息だ。ここで客人気取りでふんぞり返るか?
それとも、ヴェラの助手として泥にまみれ、実戦の現場で働く覚悟はあるか?
私の屋敷にいる以上、甘やかしてくれる召使いなど一人もいない。体を鍛え、荷を運び、街道の防衛を手伝ってもらう。そして何より……リンネが助けを必要とした時、あの子の支えになってやってほしいのだ」
ヴェラが挑発するように口端を吊り上げる。 リンネが、長い耳を緊張でピンと尖らせてこちらを見つめている。
そして目の前には、人生のすべてを賭けて弱者を守り抜いてきた、本物の大人がいた。
前世の三十一年間、楽な方へ、責任のない方へと逃げ続けてきた俺だ。 だが――今の俺が選ぶべき答えは、最初から決まっていた。
「僕は甘やかされるためにここへ来たわけじゃありません、ジェローム卿」 俺はソファから立ち上がり、小さな右手を差し出した。
「ヴェラさんが僕のペースについてこられるなら、今日から喜んで働きますよ」
ジェローム卿は一瞬目を見張り、次の瞬間、館を揺るがすような豪快な破顔を見せた。 彼の大きな掌が、五歳児の小さな手をガッチリと握り締める。
「よく言った! ヴェイン家へようこそ、テオ・マルボルト。君の世代がどれほどの気骨を見せてくれるか、楽しみにさせてもらおう」
その時、横に控えていたリンネが胸の前で小さな両手をぎゅっと握りしめ、安堵のため息を漏らしながら――この屋敷に来てから最も輝かしい、本当の笑顔を浮かべていた。




