旅の始まり
ヴェイン邸での新しい生活に慣れるため、俺には数日間の猶予が与えられた。
ジェローム卿との取り決めはシンプルだ。居候の穀潰しにならないよう、ヴェラとの訓練がない時間は屋敷の雑務を手伝うこと。書斎の埃払い、厩舎の掃除、中庭の掃き掃除、そして茶の淹れ方を覚えること。
……おい待て。俺は貴族の跡取り息子として転生したはずなのに、いつから見習い執事にジョブチェンジしたんだ?
まあ、愚痴を言っても始まらない。実際のところ、そこまで悪い生活でもなかった。
そうした雑用の大半は、リンネと二人きりで行うことが多かった。最初の数日間、彼女は俺が箒を持って近づくだけでビクビクと肩を震わせていたが、危害を加えないと分かると次第に落ち着きを見せるようになった。午後の紅茶を淹れた時、彼女の分もカップに注いで席を引いてやると、彼女は文字通り卒倒しかけた。シルツの元奴隷にとって、貴族から茶を振る舞われるなど天地が引っくり返るほどの異常事態だったのだろう。今では、小さな両手でカップを包み込み、胸が締め付けられるほど愛らしい小さな笑みを浮かべて受け取ってくれるようになった。
夜になると、猛烈な退屈が襲ってきた。 体が成長するにつれ、前世の不眠症までもが一緒に転生してきたようだった。
薄暗い廊下をネグリジェ姿で歩き回るヴェラの肢体を妄想して悶々とするのを防ぐため、俺は建設的な日課を作ることにした。言語の学習だ。
書斎の奥から埃を被った古代語や異種族の方言辞典を引っ張り出した。多言語を習得しておくのは冒険者としての必須スキルだ。すべての魔族が人族の共通語を解するわけではないし、何より本で読んだ**『獣人族』**の存在が俺の好奇心を刺激していた。南方のサバンナに強大な獣人部族がいるらしい。いつか絶対に拝んでみたいものだ。
休日だろうと毎日コツコツと独学を続けた。前世で「英語をペラペラにするぞ」と意気込んで二週間で挫折した黒歴史を、俺は鮮明に覚えている。二度目の人生で、あの無様な失敗を繰り返すわけにはいかないのだ。
規則正しいルーティンが形作られていった。
早起きして朝食を摂り、軽作業を手伝い、昼までは魔法理論を深め、午後は厩舎の軍馬に飼い葉を与えて池の鯉に餌を撒く。時折、納屋の裏でリンネが一人、鋭い風切り音を立ててシャドーボクシングに没頭しているのを見かけることがあった。あの華奢な体からは想像もつかない重い拳。俺は見なかったフリをして、桶に冷たい水と清潔な手拭いだけを置いて立ち去るようにしていた。
そして、月日は矢のように流れた。
丸二年が経過した。
俺は七歳になった。 子供特有のぷにぷにした肉体には適度な筋肉がつき、保有魔力量はさらに増大し、四属性の精密制御は研ぎ澄まされていた。
そして今日――俺たちの本物の旅が、ついに幕を開ける。
屋敷の門前で、リンネが見送りに立っていた。エプロンの端をぎゅっと握りしめ、灰色の瞳を潤ませながら、彼女は綺麗なカーテシーと共に小さな布袋を差し出してきた。自分で摘んで乾燥させたという、気付け薬のハーブだった。
「テオ坊ちゃん……どうか、ご無事で。必ず、怪我なく帰ってきてくださいまし」
「ありがとう、リンネ。留守の間、屋敷を頼むよ」
馬車の車体に背中を預け、ヴェラが待っていた。
契約は明白だ。第二次性徴を迎え、自分の足で独り立ちできるようになる十二歳まで、俺は彼女の庇護と実戦指導の下に置かれる。長く、そして血生臭い道程になるはずだ。
馬車が止まったのは、鬱蒼とした原生林の入り口を切り裂く街道の路肩だった。
剣術の心得がない俺に対し、ヴェラは中型の頑丈なハンティングナイフを腰に佩くよう命じていた。『間合いを詰められた時に喉笛を掻っ切る度胸のない魔術師は、ただの動く肉塊だ』というのが彼女の持論だった。
今回の任務は単純明快。未明の街道を荒らし回る魔獣の群れの殲滅だ。最寄りの城塞都市ですら馬車で数時間を要する僻地。診療所も教会も存在しないこの危険地帯を、行商人や農民たちが安全に行き交えるよう、ジェローム卿が街道警備の依頼を出したのだ。
「油断するんじゃないよ、坊や」 ヴェラは背中の黒鉄の大剣をドスンと地面に突き立て、低く唸った。
「並の駆け出し魔術師なら森の野良狼でも手こずるだろうが……今回の相手は**『迅雷狼』**だ」
「迅雷狼……?」
「名前は狼だが、見た目は筋骨隆々の猪に近い。だが群れで連携し、猟犬のように疾走し、獲物を生きたまま喰い散らかす習性は凶悪な狼そのものだ。何より厄介なのは、奴らが純粋な電撃を操るってことさ。群れを相手にするなら、中級魔術師が最低でも二人は必要な難敵だよ」
「……俺一人でやれると思う?」 身構えながら尋ねると、ヴェラは獰猛な笑みを浮かべた。
「さあね。見せてもらいな」
ピシリ、と前方五十メートル先の茂みが揺れた。
「いたよ。先頭の索敵役に、魔力追跡のマーキングを撃ち込んでおいた」 ヴェラが巨剣を引き抜き、切先を低く構える。
「あの手合いは角の放電で遠隔通信し、必ず密集陣形で突撃してくる。アタシが前線に突っ込んでヘイトを集め、一箇所に固めてやる。合図を出したら、あんたの持ってる中で一番派手な火属性の魔法をブッ放しな」
「了解」
確認を待つまでもなく、ヴェラは黒い弾丸となって飛び出していった。
森の奥から地鳴りのような咆哮が響く。影の中から飛び出してきたのは、八頭の異形だった。剛毛に覆われた猪のような凶悪な牙と頭部、俊敏に大地を蹴る狼の四肢。そしてその頭頂部には、禍々しくねじくれた紺色の角が生えていた。
バチバチバチィッ!!
角が青白い火花を散らした。三頭の魔獣が一斉に高圧の稲妻を撃ち出してくる!
だが、ヴェラは巨剣の刀身を盾のように掲げ、真正面から雷撃を受け止めた。凄まじい金属音と火花が散り、足元の土が吹き飛ぶが、彼女の剛腕は一ミリたりとも揺るがない。
「図体ばかりデカいブタ野郎が、吠えてんじゃないよッ!!」
裂ぱくの気合と共に、ヴェラは大剣を横一文字に薙ぎ払った。巻き起こる突風と殺気の圧力に押され、散開しようとしていた八頭の魔獣は、後方の窪地へと強引に押し込められた。密集した半径十メートルの範囲に、八頭が団子状態になってひしめき合う。
魔獣たちの角が一斉に発光した。ゼロ距離からの斉射でヴェラを消し炭にしようと魔力を練り上げる。
「――テオ! 全部ブチ込みなッ!!」 ヴェラが後方へと華麗に跳躍した。
俺の出番だ。
二歩前に踏み込み、両手を突き出す。
この二年間、夜ごと練り上げてきた魔力の奔流を一気に解放する。初級の火球など生温い。前世の軍事知識で学んだ熱気と空気の圧縮――『熱圧爆弾』の理論を、魔術の術式へと落とし込む!
大気が軋み、足元の枯れ葉が一瞬で自然発火した。
「――『火炎渦』!!」
掌の間に、フットボールサイズの深紅の光球が凝縮された。 熱の密度があまりに高すぎて、中心部は白銀色に変色している。
それを、魔獣たちが密集する窪地の中心へと撃ち出した。
着弾した瞬間――爆発ではなく、まず**猛烈な『吸引』**が起きた。周囲の酸素を一気に呑み込み、圧縮されたエネルギーが臨界点を突破する。
ドォォォォォォンッッ!!!
天を突く火炎の竜巻が噴柱となって吹き荒れた。
十五メートルの炎の柱が八頭の迅雷狼を一瞬で丸呑みにする。角の放電など、圧倒的な熱量の前に掻き消された。断末魔の悲鳴すら、業火の咆哮にかき消されていく。
熱波が叩きつけるように顔を焼き、七歳の体が衝撃で二歩後退した。胸の内の魔力がガクンと減少し、心地よい倦怠感が全身を包む。
やがて炎が鎮まり、煙が晴れた。 そこにあったのは、黒く焼け焦げた巨大なクレーターと、炭化した灰だけだった。
森に静寂が戻る。
ヴェラは大剣を地面に突き立て、革手袋の甲で額の汗を拭うと、ぽっかりと空いた穴を呆然と見つめた。そして、信じられないものを見るような目でこちらを振り返り、長々と口笛を鳴らした。
「……たまげたね。火が得意だとは聞いてたが、ここまでイカれてるとは思わなかったよ」
彼女は腰の水筒を放り投げてきた。アドレナリンで研ぎ澄まされた反射神経で、俺はそれを受け止める。
喉の奥で心臓が早鐘を打っていた。まだ微かに煙を上げる自分の小さな両手を見つめる。
これが、本物の魔獣。本物の命のやり取り。 生温い屋敷での子供時代は、これで完全に終わりを告げたのだ。




