ちびきに定住する
あの激戦が終わった後、溜まりに溜まった疲労が一気に爆発した。 泥のように眠りに落ちて、丸二日間は完全に爆睡していたらしい。
「起きな、寝坊助」
意識は半分戻っていたが、ヴェラに声をかけられてようやく重い瞼を押し上げた。
森の入り口で野営を続け、迅雷狼の生き残りがいないか確認していたのだが――うん、気配は完全に消えていた。全滅だ。
近くの小川へ向かい、ヴェラが顔を突っ込んでバシャバシャと豪快に洗う。 犬みたいに頭を振って水滴を飛ばす彼女に倣い、俺も冷たい水で顔を洗って眠気を吹き飛ばした。
「さっさと街へ行って報酬を受け取るよ」 前髪を絞りながらヴェラが言った。
「どこへ行くの?」
「チビキだ。ここから北へ馬車で二日ほどの商業都市さ。そこを拠点にして、さらに北の地域でいくつか仕事を片付ける」
「……まだ屋敷には戻らないの?」 胸の奥に、言葉にできない引っかかりを覚えて尋ねた。
「戻らないよ」
「そっか……」
ヴェラは足を止め、腰に手を当ててジト目を向けてきた。
「あんまりリンネのことが心配ならさ。毎日毎日部屋に引きこもって小難しい勉強ばかりしてないで、たまには抱きしめて『友達になろう』ってハッキリ言やあいいんだよ」
「いや、それはそうだけど……この世界のことで、俺がまだ知らないことが山ほどあるし……」
ヴェラは呆れたように長いため息を吐いた。
「あんたはまだ七歳のガキなんだよ。難しく考える前に、子供らしく遊んで友達を作りな。毎日毎日自分を追い込んでパンクされたら、困るのはアタシなんだからね」
「……はいはい、分かりましたよ」
まあ、言ってることは正論だ。
前世の三十一年間、ずっと人間関係から逃げ続けて孤独死した俺だ。今度こそ後悔のない人生を送るなら、新しくできた縁を大事にしなきゃならない。リンネとも、ちゃんといい関係を築きたいしな。
「行くよ」 「了解」
それからの二日間、北へ向かう道中は驚くほど平和だった。
のどかな農村と平原を抜け、たまに街道へ飛び出してくる間抜けな野良魔獣は、俺が魔法を使う暇もなくヴェラの一撃で真っ二つに両断されていった。
そして――俺たちは**『チビキ』**の街へと到着した。
転生してから訪れた中で、間違いなく最大の街だ。
王都ほどの威容はないが、地方都市としては破格の活気がある。前世の日本で例えるなら、無機質な東京というよりは、古風で活気にあふれた京都って感じの街並みだった。
石畳の通りを抜け、目抜き通りから一本入った路地裏の宿屋へ向かう。
長旅で体はバキバキだ。俺たちの軍資金も無限じゃないので、必然的に一番安いボロ宿を選ぶことになった。
「一ヶ月、部屋を頼むよ」 ヴェラが受付のカウンターに銀貨を放り投げる。
チビキを拠点にして一ヶ月間仕事を回す計画らしい。 安くて、寝る場所さえ確保できれば文句はない。
……ええ、文句はないはずでした。
軋む階段を上り、部屋のドアを開けた瞬間――俺は絶句した。
おい、マジで何の冗談だよ!?
部屋が狭すぎる。二人がすれ違うだけで肩がぶつかるレベルの広さしかない。 建付けの悪い窓が一つと……シングルベッドが、ポツンと一台。
廊下の共同トイレにはシャワーすらなく、木の桶と柄杓が置いてあるだけだった。
「ちょ、ちょっとヴェラ!? なんだこのゴミ溜めみたいな部屋は!?」
「アタシたちの向こう一ヶ月のスイートルームさ」 彼女は平然とした顔で、背中の大剣を部屋の隅にドスンと下ろした。
「本気で言ってんの!? 二人でどうやって寝るんだよ!?」
ヴェラは鼻で笑い、軋むベッドの端に腰掛けると、首をコキコキと鳴らして肩を揉み始めた。 「あー……腰が痛い。長旅でバキバキだよ」
疲れ切った彼女の横顔を見て、ほんの少しだけ良心が痛んだ。
「……肩、揉んであげようか?」
ヴェラは眉を上げ、小馬鹿にしたように笑った。 「七歳のガキの力で何ができるってんだい? ま、気休めにはなるか。やりな」
俺はベッドに上がり、彼女の背後に回って肩に手を置いた。 整体師の知識なんてないが、ツボを押して筋肉をほぐすくらいの真似事はできる。
……それにしても、薄いシャツ越しに伝わる背中の筋肉のラインがヤバい。
肩甲骨からキュッと引き締まったウエストにかけて、無駄肉のないしなやかな肉体が広がっている。三十一歳の童貞(中身)には刺激が強すぎるご馳走だ。
この極上美女と、この極狭シングルベッドで一ヶ月間添い寝……? 断る男がこの世に存在するのか? いや、存在しないね。グヘヘ。
マッサージの疲れと旅の疲労が重なり、俺はそのままベッドの隅っこで意識を手放した。
翌朝。
「おい……その手を離さないと、指の骨をへし折るよ?」
頭上から、低くてドスの効いたヴェラの声が降ってきた。
ぼんやりと目を覚ます。 まだ半分夢の中にいる俺の両手は、信じられないほど柔らかくて、温かくて、弾力のある「ふたつの塊」をムニムニと揉みしだいていた。
「へへ……ふかふかの羊さん……お肉たっぷりでジューシー……むにゃむにゃ……」
無意識にもう二回ほど揉んでしまった。
うん。 どうやら俺の新しい一日は、最高にスリリングな形で始まったらしい。
ゴスッ!
「いったぁぁぁぁぁぁっ!?」
七歳児の頭頂部に、精密機械のような正確さで痛烈なゲンコツが振り下ろされた。
「誰がふかふかの羊肉だい、このマセガキ」
ボサボサの黒髪を乱したヴェラが、気だるそうにシャツの襟元を整えながらベッドに起き上がっていた。
顔にはわずかな赤みが差しているが、激怒というよりは「呆れ」の色が強い。
「あんたが本当に七歳じゃなかったら、今頃中身のスケベオヤジごと真っ二つにしてるところだよ」
「ふ、不可抗力だって! 食べ物のめちゃくちゃ怖い悪夢を見てたんだよ!」 頭にできたタンコブを涙目で擦りながら必死に弁解する。
「はいはい、分かった分かった……さっさと顔洗ってブーツを履きな。日が昇りきる前に、ギルドへ換金に行くよ」
屋台で買った肉入りの焼きパンを胃袋へ流し込み、俺たちはチビキの目抜き通りを抜けていった。
この街のギルド支部は、無骨な灰色の石造りの要塞だった。
館内に足を踏み入れた瞬間、安酒と煙草、汗臭い傭兵の体臭、そして錆びた鉄の匂いが鼻をつく。傷だらけの甲冑を着た歴戦のゴロツキどもが、昼間からエールを煽りながら新参者を品定めするように睨みつけていた。
だが、ヴェラが一歩踏み込んだ瞬間、館内の喧騒がスッと引いた。
背中のあの禍々しい大剣と、全身から漂う歴戦の殺気。どれほど口の減らない荒くれ者でも、本能的に目を逸らすレベルの威圧感だ。
だが同時に、彼女の隣を平然と歩く「顔に傷のある七歳のガキ」の存在が、連中の好奇心を刺激していた。
おいコラ、見世物小屋の珍獣を見るような目で見るなよな。
ヴェラは大股で受付カウンターへと向かい、ドスンと重い麻袋を叩きつけた。
中から転がり出たのは――バチバチと微弱な青い静電気を帯びた、八本のねじくれた角。
受付の男が息を呑んだ。
「……南の街道を塞いでいた、迅雷狼の討伐証明部位八本。魔核はすべて無傷だ」 ヴェラが無表情に告げる。
受付員は目を白黒させた。 「丘の難所を占拠していた、あの群れですか!?
し、しかし、あの規模の迅雷狼を相手にするなら、Cランクの熟練パーティーか、手練れの魔術師が複数人必要なはず……まさか、お二人だけで?
そちらの坊ちゃんは……荷物持ちですか?」
ヴェラは嘲笑うように口端を吊り上げ、親指で俺を指差した。
「この『荷物持ち』が一発の広域火属性魔法で、八頭丸ごと消し炭に料理してくれたのさ。余計なおしゃべりはいいから、さっさと金を出しな。時間を取らせると利息をつけるよ?」
周囲のテーブルから、ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。 遠くで酒を飲んでいた戦士の二人が、慌ててエールを喉に詰まらせて咳き込んでいる。
受付員はそれ以上何も言わなかった。震える手で書類に検印を押し、ずっしりと重い革袋をカウンターに差し出してきた。
ギルドの外へ出ると、ヴェラはその革袋の一つを俺の胸元へ放り投げてきた。
慌ててキャッチする。チャリンと、硬質な銀貨が擦れ合う音が響いた。 紐を解くと、中には冷たい輝きを放つ三十枚の銀貨。
俺は石畳の路上で立ち尽くした。
前世の三十一年間、薄暗いオフィスで身を粉にして働き、手取りの給料は借金の利息と家賃に吸い取られて消えていく毎日だった。自分の努力が、純粋に「自分の富」として手元に残る感覚など、一度も味わったことがなかったのだ。
だが今、七歳の小さな掌にあるこの重みは――俺自身が命を張り、魔法を研ぎ澄まして勝ち取った、正真正銘の対価だった。
「いつまで銀貨に見惚れてるんだい? 置いていくよ」 前を歩くヴェラが振り返る。
俺は革袋の紐を固く結び直し、腰のベルトにしっかりと括り付けた。 「今行くよ!」
露店が立ち並ぶ市場の通りを歩く。 香辛料や干し肉、魔獣の毛皮に混じって、素朴な木工品やガラス細工を扱う小さなアクセサリー屋が目に留まった。
並べられた品の中に、鮮やかな空色の布で作られた一本の髪留めがあった。
留め具の部分に、小さな木の葉の彫刻があしらわれている。宝石のような高級品ではないが、控えめで、清楚で、どこか温かみのある品だった。
屋敷の床を雑巾掛けしながら、いつも擦り切れた麻紐で髪を適当に縛っていたリンネの姿が脳裏をよぎる。
『あんまりリンネのことが心配なら、たまには友達らしいことでもしてやりな――』
昨日のヴェラの言葉が、胸の中でリフレインした。
俺は迷わず屋台の店主に声をかけ、銀貨を三枚支払ってその髪飾りを買い取った。 薄い麻布で丁寧に包んでもらい、ジャケットの内ポケットへと大事に仕舞い込む。
通りへ戻ろうと振り返った瞬間――腕を組んでニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべたヴェラと目が合った。
「へえ……? 初給料で早速カノジョに貢ぎ物かい、テオ坊や?」
「ち、違うわ!」 思わず耳まで熱くなるのを感じて怒鳴り返した。 「留守番してくれてる使用人への、ただのお土産だよ! 社交儀礼だっつーの!」
「はいはい、お土産ねえ……」 ヴェラは楽しそうに大笑いしながら、腰から一枚の依頼羊皮紙を取り出した。
「色恋沙汰の妄想はそこまでにしときな、坊や。休息はおしまいだ。次のデカい仕事が入ったよ」
彼女が広げた羊皮紙には、ここからさらに北――険しい山岳地帯の地図が描かれていた。
「次は長い移動になる。覚悟しときなよ?」




