トレーニングを強化する
ベルガード北部への遠征は、最悪の形で幕を開けた。 ……徒歩だ。
「ヴェラ……馬車は?」 背中の革のリュックの重みに耐えながら、目の前に立ちはだかる急勾配の岩山を見上げて尋ねた。
「馬車あ?」 ヴェラは背中の黒鉄の大剣を羽根のように軽く背負い直し、鼻で笑った。
「北の山岳地帯に舗装道路なんてあるわけないだろ、坊や。次の依頼地である鉱山キャンプまで行きたきゃ、自分の二本の足で登るんだよ。ほら、遅れるんじゃないよ」
朝日すらまだ冷え切っている山道で、俺の地獄の行軍が始まった。
最初の数キロこそ、七歳児の新しい体のスタミナでどうにか食らいついていた。だが、重力と生物学の現実は非情だ。
太ももが燃えるように熱くなり、高地の薄い空気で肺がゼーゼーと悲鳴を上げる。浮石を踏むたびに足首がグキッと軋み、転びそうになる。
くそっ……前世の運動不足が魂まで染み付いてやがる。
デスクワーク漬けで休日はソシャゲ三昧だった三十一歳の社畜メンタルが、弱音を吐きまくっていた。道の端っこに座り込んでタクシーでも呼びたい気分だ。
「おい、足が止まってんぞ!」 十歩先を涼しい顔で歩くヴェラが振り返る。汗一つかいていない。
「広範囲の爆炎をブッ放せる大魔術師サマが、たかが山道ハイキングごときで根を上げてんのかい?
森の真ん中で魔力がスッカラカンになったらどうすんだ。野良狼に馬車代でも払って乗せてもらうのか?」
息を呑み、奥歯を噛みしめる。 ……ぐうの音も出ない正論だ。実戦は、安全な後方から優雅に魔法を連打できるゲームじゃないのだから。
その時、頭に閃くものがあった。 山賊戦でヴェラの前腕に揺らめいていたあの魔力の膜。そして、屋敷で見たリンネの拳。
身体強化だ。
歩きながら、一瞬だけ瞼を閉じる。
魔力を外へ放出して火や雷にするのではなく、内側へ――筋肉と骨格の巡りへと逆流させる。背骨を通して太ももへ、膝へ、そして足裏へと微細な魔力流を浸透させていく。
高度な魔術じゃない。前世で学んだ油圧シリンダーの理論を、自分の筋繊維にトレースするだけだ。
……うおっ。
足の焼けるような痛みが、半分近くに引いていく。 踏み込むたびに地面がポンと押し返してくれるように、足取りが劇的に軽くなった。
前を歩くヴェラが横目でチラリとこちらを見て、ニヤリと口端を吊り上げた。
「へえ……胸の谷間を覗く以外にも、その頭は使い道があるらしいね。身体強化の基礎を掴んだかい。だが油断するんじゃないよ。体内に魔力を回し続けるのは、頭脳の消耗が倍以上早いんだからね」
昼過ぎ、俺たちは低木と切り立った崖に囲まれた平坦な岩場で足を止めた。
俺はまばらな草の上に大の字に倒れ込み、荒い息を吐きながら青空を見上げた。全身バキバキだが、限界を突破していく感覚は不思議と悪くない。
ヴェラは平らな岩に腰掛け、俺の腰からハンティングナイフを器用に引き抜くと、足元に落ちていた太い枯れ木を俺の腹の上へ放り投げてきた。
「起きな、寝坊助。実技訓練の時間だよ」
「……実技って何の!? 今山を登りきったばっかりなんだけど!?」
「生き残るための基礎訓練さ。立て、ナイフを構えな」
ブツブツと文句を垂れながら起き上がり、木製の柄を握りしめる。刃渡り二十センチほどのナイフ。大人にとっては短剣だが、七歳の俺の手には小太刀のようなサイズ感だ。
「いいかい、テオ。その頭に叩き込みな」 ヴェラは枯れ木を構え、模擬刀のように切先を俺の胸元へ突きつけてきた。
「あんたに一流の剣士になれなんて言っちゃいない。あんたの本質は長距離の魔術砲台だし、それが一番の強みだ。だがね……この世界には、呪文を唱え終わるより速く間合いを詰めてくる連中がごまんといる」
彼女は前足を踏み込み、鋭い突きを繰り出してきた。 慌てて身を引こうとしたが、木の先端が容赦無く俺の脇腹を小突いた。
ゴスッ!
「いったぁっ!?」
「ほらね。これが魔獣の爪なら、あんたの内臓は今頃地面に散らばってるよ。小刀の技術ってのはね、攻撃するためじゃない。**『時間を稼ぐ』**ためにあるんだ。初撃を逸らし、牙を弾き、至近距離から魔法を叩き込むための――あの『三秒間』を生き残るためにな。もう一本!」
それからの数十分、俺は文字通りボコボコにされた。
あらゆる角度から繰り出される打ち込みに対し、俺は足さばきで直撃コースを外し、ナイフの腹で衝撃を受け流す練習を繰り返した。腕は青アザだらけになったが、徐々に感覚が染み付いていく。刃は武器じゃない、緊急用の盾なのだ。
夕暮れ時、俺は苦手属性である**『土』と『風』**の応用に挑戦していた。
ヴェラが砥石で大剣を研いでいる間、俺は崖の縁に立ち、風属性の微風を周囲の茂みへソナーのように走らせていた。風の乱れで周囲の生物の気配を探る、初歩的な索敵レーダーだ。
その時――風の網に、猛烈な勢いで崖を駆け下りてくる複数の反応が引っかかった。
「……ヴェラ、お客さんだ」 短剣を引き抜き、二歩後退する。
ズドォンッ!!
岩煙を巻き上げて広場に着地したのは、二頭の異形――**『岩殻狒々(ロック・バブーン)』**だった。
成人男性ほどの体躯に灰色の剛毛、そして肩から背中にかけて分厚い鉱石の甲殻を鎧のようにまとった狂暴な魔獣だ。その長い腕の先には、花崗岩すら砕く石の爪が生えている。
ヴェラは大剣を地面に立てたまま、立ち上がりすらしなかった。
「群れからはぐれた若い個体だね。やれるかい? それとも、ママに抱っこでもおねだりするか?」
「……一人で十分だよ」 アドレナリンが血管を駆け巡るのを感じながら、重心を低く落とした。
一頭の狒々が黄色い牙を剥き出しにして咆哮し、頭上から石の爪を振り下ろして飛びかかってきた。
前世の俺なら、目を瞑って蹲っていただろう。だが――。
三秒。三秒あれば足りる。
爪が鼻先をかすめる極限まで引きつける。 ヴェラに叩き込まれた足さばきで、紙一重で右へ滑り込んだ。ナイフの刃で怪物の前腕を受け流し、直撃のベクトルを逸らす。
ズガァンッ! 俺がコンマ数秒前まで立っていた地面が粉々に砕け散った。
カウンターは、反射だった。
バランスを崩して体勢を前のめりにした怪物のこめかみへ、ガラ空きの左手をゼロ距離で突き出す。自爆を防ぐため、火ではなく凝縮した大気を選択した。
「――『風衝破』!!」
ドォンッ!!
至近距離で散弾銃が炸裂したような衝撃波が怪物の側頭部を撃ち抜いた。ボキリと鈍い骨折音が響き、岩殻狒々は白目を剥いて仰向けに吹き飛んだ。
残る一頭が、仲間が一瞬で沈んだことに怯えて後退しようとしたが、俺の右手はすでに伸びていた。
「――『放電』!」
人差し指から放たれた青白い雷撃が、逃げようとした怪物の胸板を光の矢となって刺し貫く。痙攣と共に二頭目が絶命し、広場に静寂が戻った。
至近距離の攻防による緊張で膝がガクガクと震えていたが、俺の唇には確かな手応えの笑みが浮かんでいた。
ヴェラが砥石をしまいながら、満足そうに鼻を鳴らした。
「……上出来だ、テオ。ようやく見られる動きになってきたじゃないか」
その夜、俺たちは山腹の岩陰で夜営の焚き火を囲んでいた。
パチパチと薪が爆ぜる音。鉄鍋で煮込まれた干し肉と芋の素朴なスープの匂いが立ち込める。
全身の筋肉が悲鳴を上げていたが、この心地よい痛みは、前世の理不尽な暴力とは違う。自分が生き残り、強くなるために積み上げた努力の証だった。
熱いスープをすすりながら、荷物の脇に置かれた小さな麻袋に目をやる。 あのチビキの市場で買った、リンネのための空色の髪飾り。
十二歳になるまで、まだまだ旅は長い。 登るべき険しい山も、打ち倒すべき凶悪な魔獣も、山のように待っているはずだ。
だが、夜風に吹かれながら星空を見上げる俺の胸には、一片の迷いもなかった。
生きることを、もう二度と恐れはしない。




