灰色の王国と小さなエルフ
俺は、事態が荒れている最中に馬車から顔を出すほど馬鹿じゃない。……ないはずだった。
だが、三十一歳の俺の好奇心が、どうしようもなく勝ってしまった。
木窓の隙間に片目を押し当て、覚悟を決めて外の惨状を覗き込む。
そして、思わず息を呑んだ。
……なんて光景だ。
ヴェラはただ戦っているのではなかった。まるで肉挽き機の中で踊っているかのようだった。
頑丈な革ズボンに包まれた太腿が、砂利道を踏みしめるたびに力強く動く。巨大な剣を振り下ろすたび、しなやかな身のこなしと圧倒的な膂力が、彼女の異様なまでの戦闘能力を物語っていた。風に乱れる旅装の裾。冷たい空気の中で白くなる吐息。鎖骨を伝う汗。
……恐ろしく、目を奪われる光景だった。
あの脚力で本気を出されたら、骨の一本や二本じゃ済まないだろう。いや、下手をすれば全身の骨を砕かれてもおかしくない。
しかも、相手が悪かったと謝る羽目にまでなりそうだ。
だが、そんな馬鹿げた考えは、次の瞬間には生存本能によって吹き飛ばされた。
彼女が背負っていた巨大な剣は、決して飾りではなかった。
錆びた斧を振りかざし、一人の盗賊が雄叫びを上げながら突っ込んでいく。
ヴェラは瞬き一つしなかった。
軽く上体をひねり、物理法則を無視したかのような身のこなしで、黒々とした鉄の大剣を振り下ろす。
――ガァァンッ!!
斧が砕けた。
男の盾も、腐った木切れのように粉々になった。
そして男自身は……上半身を吹き飛ばされ、三メートルほども離れた岩壁に叩きつけられた。
悲鳴すらなかった。
ただ、肉が岩と砂利に叩きつけられる、湿った嫌な音だけが響いた。
……身体強化の魔力か。
彼女の前腕の周囲には、ほとんど目に見えないほど薄い魔力の膜が脈打っていた。
あれで身体能力を底上げし、大剣の重量による不利を補っているのだろう。
理解した瞬間、俺は吐いた。
無理だ。
これは無理だろ。
前世でも今世でも、こんなものを間近で見る羽目になるとは思わなかった。
三分も経たないうちに、馬車を取り囲んでいた七人の盗賊は全員地面に倒れていた。
四人は即死。二人は手足を切断され、地面で苦悶の声を上げている。
そして残る一人――頬に醜い傷跡のある、がっしりとした体格の男は、ヴェラの血に濡れた剣を首筋に押し当てられ、地面に膝をついていた。
「お、お慈悲を! 俺たちは食い物が欲しかっただけなんです、奥様!」
男は震えながら懇願していた。ズボンの股間には、じわりと染みが広がっている。
一方のヴェラは、息一つ乱していなかった。
ただ、退屈そうに首を傾け、暗い瞳で男を見下ろしている。
「街道の盗賊風情が、王国正規軍の歩兵が履く強化ブーツなんて履いてるわけないでしょうが、このクソ野郎。誰に雇われた? 何のために馬車を襲った?」
男の歯がカチカチと鳴り始めた。
「お、俺たちはシラード王国の国境から脱走してきたんです! 王国はもう終わりだ! 王都が燃えてるんです! 南部の貴族たちが王家に反旗を翻して……あちこちで殺し合いが起きてる! 中心街は血の海です! 魔法学院もギルドも反乱軍に占拠されて、要塞にされちまった! もうあっちへ行く道なんてありません! 何もかも燃えてるんです!!」
峡谷が静まり返った。
馬車の中では、商人たちが小声で必死に祈り始めていた。
ヴェラは苛立たしげに舌打ちした。
「チッ……まったく、とんでもない時にお偉いさん方が戦争を始めてくれたもんだね」
彼女はためらいも、何の感慨も見せなかった。
手首をわずかに動かす。
金属が空気を切り裂き、肉を断つ乾いた音が響いた。
男はそのまま、地面に崩れ落ちた。
ヴェラは死体のズボンで剣についた血を拭うと、その凶悪な大剣を背中に収め、何事もなかったかのように馬車へ戻ってきた。
扉が開いた瞬間、鉄と死の臭いが車内に流れ込んだ。
乗客たちは蝋人形のように青ざめ、座席の上で身を縮めている。
しかし、ヴェラは彼らに目もくれなかった。
彼女の視線が真っ先に向かった先は、俺だった。
「いい知らせと悪い知らせがあるよ、ガキ」
彼女は胸の前で腕を組んだ。相変わらず、こちらの事情などお構いなしの態度だ。
「悪い知らせは、あんたが入学するはずだった学院が、そこに着く前に灰になっちまったってこと。シラード王国が、どうしようもない内乱でひっくり返った」
「……それで、いい知らせは?」
俺は唾を飲み込み、いかにも冷静な五歳児を装って尋ねた。
「しばらくは面倒な教師どもの相手をしなくて済むってことさ」
ヴェラは意地悪そうに笑った。
「行き先を変えるよ。東の国境を越えて、ベルガルド王国に入る。あっちには、借りを返してもらわなきゃならない貴族の家があるんだ。私には、その家から歓待を受ける権利があるからね」
「……勉強はどうするの? 父さんは、外の世界で自分の力を試してこいって、僕を送り出したんだけど」
俺がそう言うと、ヴェラは喉の奥で笑い、身をかがめて俺の額を軽く小突いた。
「しばらく本のことは忘れな、坊や。これからは、本当の世界の仕組みを学ぶんだよ」
こうして、俺の予定はあっさりと狂った。
ベルガルド王国に到着するまで、さらに六日間の退屈な旅が続いた。
背後に残してきたシラード王国の混乱とは対照的に、ベルガルドは岩のように堅固な軍事国家だった。
黒い石造りの要塞が整備された街道を見下ろし、磨き上げられた鎧を身にまとった兵士たちが隊列を組んで行進している。
この国では、秩序というものが空気の中にまで染み込んでいるようだった。
交易都市を通り抜けたあと、俺たちを乗せた馬車は、緩やかな丘の上に建つ厳めしい屋敷の門前で止まった。
軍事施設を思わせる、質実剛健な造りの邸宅だ。
ここはヴェイン家の所有地だった。
代々、優秀な将軍を輩出してきた武門の名家で、ヴェラは時折、傭兵や護衛として彼らの仕事を引き受けているらしい。
俺たちは馬車を降りた。
五歳児の俺の脚は、長時間の揺れに耐えたせいですっかり痺れていた。
「入ったら、余計なものを壊すんじゃないよ、テオ。ここの老公は、騒がしい子供があまり好きじゃないんだ」
ヴェラはそう忠告し、重厚なオーク材の両開き扉を押し開けた。
玄関ホールは広々としており、壁には戦争を描いたタペストリーが飾られ、磨き上げられた甲冑が整然と並んでいた。
使用人の姿はまばらで、屋敷の中には墓場のような静けさが漂っている。
だが、俺がホールに足を踏み入れ、三歩目を踏み出したときだった。
――彼女が目に入った。
脇の廊下から、小走りで出てきた一人の小さなメイド。
銀色の盆に、濡らした布とお茶を載せている。
小柄で、痩せていた。
着ているのは簡素なメイド服だったが、彼女のか細い身体には少し大きすぎるように見えた。
ほとんど透き通るような銀髪が、繊細な顔立ちを縁取っている。
そして、頭の上には長く尖った耳が垂れ下がっていた。
エルフの特徴だ。
だが、俺の注意を引いたのは、その容姿だけではなかった。
遠慮がちで、儚げで、どこか幼さの残る顔。
そして、常に何かを恐れているかのような、大きな灰色の瞳。
少女はヴェラの姿を認めると、盆を落としそうになるほど慌てて頭を下げた。
「ヴ、ヴェラ様……! お、お帰りなさいませ……」
か細い声は、今にも消えてしまいそうなほど震えていた。
「そんなにかしこまるんじゃないよ、チビ。私にまで、そんなくだらない礼儀はいらないさ」
ヴェラはいつもの調子でぶっきらぼうに答えた。
だが、そこに悪意はなかった。
そのときだった。
少女の背後を通りかかった執事が、重たい木製の扉を閉めた。
――バァンッ!!
その瞬間、俺は殴られたような衝撃を覚えた。
小さなエルフの少女は、ただ驚いただけではなかった。
身体全体が、まるで糸を切られた人形のように崩れた。
肩をすくめ、目を固く閉じ、銀の盆を取り落とす。
そして、両手で頭を覆いながら、必死に身体を丸めた。
まるで、これから鞭で打たれるか、肋骨を蹴り砕かれるかのように。
俺の中から、あらゆる皮肉が消え去った。
……その反応。
あまりにも、見覚えがあった。
前世で何週間にもわたって不良たちに殴られ、心も身体も壊されていった頃。
俺も、まったく同じ動きをしていた。
誰かが扉を強く閉めるたび。
すぐ近くで誰かが声を荒らげるたび。
身体が勝手に縮こまり、頭を守ろうとする。
また殴られる。
また蹴られる。
次はどこを痛めつけられるのか。
いつしか、そんな恐怖が理屈よりも先に身体を動かすようになっていた。
人間として扱われなかった者だけが知る、獣じみた恐怖。
少女はゆっくりと目を開けた。
床には、落とした盆と濡れた布が散らばっている。
それを見た瞬間、彼女の顔が恐怖に歪んだ。
「も、申し訳ございません……! ヴェラ様、どうかお許しください……! すぐに、すぐに片づけますから……! どうか、お仕置きだけは……!」
少女は床に膝をつき、震える小さな手で濡れた布を拾い集め始めた。
そこで、俺はあることに気づいた。
他の者なら、見過ごしてしまうような些細な違和感。
彼女の指先。
指の節や、手のひらの付け根が妙に硬くなっている。繰り返し衝撃を受けたような、分厚いタコまでできていた。
……ただの屋敷勤めで、こうなるものなのか?
ヴェラは困ったようにため息をつき、気まずそうに後頭部をかいた。
どうやら、泣き出した少女を前に、どう対処していいのか分からないらしい。
まあ、彼女の普段の振る舞いを考えれば、無理もない。
俺は一歩前に出た。
そして、偉そうに使用人を見下ろす貴族の子供ではなく、彼女と同じ目線になるように腰を落とした。
床に転がっていた銀の盆を拾い上げる。
急かすことも、乱暴に触れることもせず、落ち着いた動作で清潔な布を二枚拾い、盆の上に戻した。
少女の動きが止まった。
垂れ下がっていた長い耳が、驚いたようにわずかに持ち上がる。
「大丈夫だよ」
五歳児の声で出せる限り、穏やかで、はっきりとした声を意識した。
「誰も君を殴ったりしない」
少女は灰色の瞳を大きく見開き、息を詰まらせた。
貴族の子供が、使用人と一緒に床にしゃがみ込み、散らばったものを拾っている。
彼女にとって、それは理解の範疇を超えた光景だったのだろう。
「君の名前は?」
俺は、かすかに笑って尋ねた。
少女は泣きそうになるのをこらえながら、エプロンの裾をぎゅっと握り締めた。
「リ、リンネ……。わ、私の名前は、リンネです……」
「そっか。初めまして、リンネ。僕はテオだよ」
この屋敷に入ってから初めて。
小さなエルフの少女の瞳から、ほんのわずかに恐怖の影が薄れた気がした。
ほんの一センチにも満たない、小さな変化だったかもしれない。
それでも、確かに変化はあった。
俺の旅は、大理石の教室で退屈な歴史の授業を受けるものにはならなかった。
巨大な剣を振るう女と、そして、この少女と過ごす日々。
俺の新しい人生は、この灰色の王国で、思いもよらない形で始まろうとしていた。
そして、久しぶりに思えた。
――俺は今、きっと自分がいるべき場所にいるのだと。




