湖の実験
俺はリヴィアに基礎的な魔術のコツを教え、そのついでに親父を説得してティヴァルに剣術の手ほどきを受けさせた。あの青肌の巨躯には、力任せではなく技術が必要だと感じたからだ。
あの日を境に、俺は書斎の歴史書をさらに読み漁るようになった。
世界の解像度は一気に広がった。特に、ドラヴァノ族のような差別されている魔族についての知識。さらには、リヴィアのようなハーフエルフが存在すること、そしてエルフ族の中にも多種多様な分派があることも知った。実に興味深い。
だが、本題はそこじゃない。魔法だ。
二人に出会うまで、俺の魔術の成長は完全に壁にぶち当たっていた。
皮肉なことに、俺はそのスランプを「他人に教える」ことで脱出したのだ。失敗から学ぶという勉強法は、いつの時代も裏切らない。リヴィアが飛んでもない見当違いの質問を連発してくるおかげで、ボロを出さないよう必死に理論書を読み込む羽目になり、ただ魔力を垂れ流すだけの練習から脱却できたのだ。
その試行錯誤の末、俺は四歳にして三つの属性で**『上級(専門級手前)』**の領域に足を踏み入れていた。 水、火、そして雷。
中でも『雷』は俺の代名詞となり、最も手に馴染む主属性へと進化を遂げた。土と風に関しては、いまだに絶望的なほど苦戦しているが……まあいい。まだ四歳だ。焦る理由なんてどこにもない。
そんなある日、専属メイドのエステルがやけに落ち着き配を見せていた。
朝からずっと無口で、訓練中の俺を横目でチラチラ盗み見てくる。何事かと尋ねてみると、彼女は居心地悪そうに視線を泳がせ、喉を詰まらせながら呟いた。
「どうして……生まれつきあんな天才なのに、そこまで必死に努力できるんですか……?」
返す言葉が見つからなかった。彼女だって十分に優秀だ。前世の記憶持ちである俺とは土俵が違うが、少なくとも親父よりはずっと魔術の理を弁えている。きっと、元神童としてのプライドが疼いているのだろう。
一方で、両親は重苦しい外交の仕事にかかりきりだった。
この村の領主である以上、働くのは当然だ。だが実際のところ、四歳の誕生日を過ぎてからというもの、二人から構ってもらえる時間は目に見えて減っていた。家の中の空気が、どこか肌寒い。
ある夜、尿意で目が覚めた。 用を足すのは簡単だ。自室を出て、長い廊下を渡り、軋む木の階段を下りるだけ。
そして俺は、男なら誰しも――たとえ何歳だろうと、何回人生をやり直していようと――トラウマになる現場の音を耳にしてしまった。
親父が、信じられないほどの精力で母親に激しく注ぎ込んでいた。
……おいおい、マジかよ。
まさか二人目が産まれて、俺が嫉妬深い兄貴役でもやらされるハメになるのか? いや、中世風のこの世界にゴムなんてないだろうが、今すぐ次の跡継ぎを作るとは思えない。
トイレを済ませ、部屋へと戻る道中。 白状すると、暗いリビングを歩きながらエステルの姿を思い出して下半身が熱くなった。床に涎を垂らしそうになる。
彼女は、前世で俺が死んだ時の年齢より少し若いくらいのピチピチなのだ。だが、今の自分の四歳児の体を下に見下ろして……おい、待て。落ち着け。四歳だぞ。自分に吐き気がしてきた。
翌朝、俺は雑念を振り払うように森の奥へと足を伸ばした。
これまでは敷地の境界線の外へ出ることなど滅多になかった。だが今の俺は、四歳にして三属性を上級レベルまで扱えるのだ。魔王が相手だろうと返り討ちにできる――そんな肥大化した万能感が、背中を押していた。
ティヴァルとリヴィアは、毎朝の日課として村の学校へ通っている。 彼らは俺より三つ年上の七歳だ。学ぶべき年齢なのだから当然だろう。
鬱蒼とした木々の間を抜けると、見たこともない場所に辿り着いた。 木々に隠された、静かな湖。
水面は驚くほど澄み渡り、木漏れ日がきらきらと反射している。
湖畔には丸々と太った野ウサギが草を食み、枝の上で色鮮やかな鳥が囀っていた。平和そのものの絵画のような光景だ。
念のため、書斎からくすねてきた初級用の教本を数冊持ち込んでいた。自爆しかけたあの危険な魔導書に比べればゴミのような内容だが、貴重な本を森で汚すリスクは避けたかったのだ。
だが……寝転がって風を感じていると、勉強なんてどうでもよくなってきた。
草の上に大の字になり、葉の隙間から青空を見上げる。
丸々と太ったウサギがペタペタと近づいてきて、間抜けな顔で俺を見つめた後、そのまま何事もなかったかのように草むらへ消えていった。
ホッと胸を撫で下ろす。油断は禁物だ。前世のアニメで、白くてモフモフした悪魔のような殺人ウサギを見たことがある。幸い、こいつはただのデブウサギだったらしい。
俺はむくりと起き上がり、ズボンの土を払った。
「誰も見てないし、新しい魔法のテストでもするか」
右手をかざし、目を閉じる。 最近覚えた術式の構造を頭の中で組み上げる――『水球防壁』。
単なる攻撃用の水球とは違い、敵の打撃を受け止めつつ、即座に反撃へと転じるための防御術式だ。
「――『水球』!」
湖の水面が波打ち、大量の水が宙へと吸い上げられた。
渦を巻く水流が俺の体を包み込み、身の丈の二倍はある巨大な水のドームを形成する。完璧な上級防御魔法だ。悪くない。
ここからが本番、カウンターの展開だ。受け止めた圧力をそのまま反動として利用し……。
「――『水散弾』!」
球体が瞬時に破裂し、二十発の小さな水弾となって拡散した。
一発一発の威力は低いが、弾速は段違いだ。弾道の周囲にシュルシュルと白い水蒸気を撒き散らしながら、一斉に木立へと着弾する。実用性抜群の迎撃技だ。
立ち込める水蒸気に気を良くした俺は、一番の得意属性を試すことにした。
「――『放電』!」
澄み渡る空に、突如として黒い雷雲が渦を巻いた。 閃光が手元へと落ち、弓を引くように前腕を走って、三十メートル先の巨木へと撃ち出される。
バリバリバリィィィッ!!
耳をつんざく爆音と共に、大木が一瞬で縦真っ二つに裂けた。 片方は左へ、もう片方は右へと、炭化した切断面を晒して倒壊する。
……うわぁ。
思わず唾を飲み込んだ。 普通に殺傷力が高すぎる。対人で使う時は加減しないと本当にミンチになるぞ、これ。
最後に、ずっと避けてきた苦手属性――土を試してみることにした。
「――『泥球』!」
手のひらに、リンゴサイズのドロッとした泥の塊が生まれた。 それを力任せに別の木へと投げつける。
ベチャッ。
泥は無惨な音を立てて樹皮を滑り落ちた。 与えたダメージ? ゼロだ。完全にゼロ。
「……まあ、課題があるくらいが丁度いいか」
胃袋がキュウと鳴り、昼飯時を知らせていた。
それから数ヶ月、俺の日常は同じリズムで過ぎていった。
書斎で理論を深め、ティヴァルとリヴィアに教え、エステルが俺の失敗を願って悔しがる顔を眺める毎日。あのまな板メイド、絶対に俺のことが嫌いだろ。
だが、そんなことはどうでもいい。 土台はできた。俺は立ち止まらず、前だけを見て成長し続ける。
屋敷へ戻り、日課を終える頃には、とっぷりと日が暮れていた。 泥のようにベッドへ倒れ込み、心地よい疲労感の中で意識を手放した。




