461 『何もなかった』 ※別視点あり
<イナリ視点>
こうして、イナリ陣営は神官二名、聖女一名、スライム一名、斥候一名と、中々に濃い面子が揃い――何も起こらないまま、さらに数日が経過した。
イナリの高熱もすっかり治まり、体調も順調に回復し、既に果物くらいなら食べられる程度には戻っている。それに、他人の補助を受けながら立つこともできるようになった。歩くことはできないし、傍から見ると生まれたての小鹿未満の醜態を晒すことになるが。
「もう少し元気になってきたら、リハビリもしていきましょうね」
「りはびり?」
こてりと首を傾げたイナリを見て、エリスがくすりと笑う。
「少しずつ体を慣らす訓練です」
「なるほどの。それだけでなく、我の力が戻ったら、そっちも確認せねばの」
未だにイナリはいかなる能力も使えるようになっていない。もしかしたら、神の力が戻ってくるのは、体が完全に元に戻ってからなのかもしれない。
窓の外では、ガーディがスライム形態のもちまると遊んでいる様子が見える。
ずっとイナリに張り付いていたもちまるだが、最近はガーディと出会ったこともあってか、より活動的になったように見える。
「……時にエリスよ。我、少し思ったことがあるのじゃ。聞いてくれぬか?」
「はい」
エリスは果物の皮を剥く手を止めてイナリを見た。
「ラズベリーからの報告は見ておるじゃろ? アレを見ていて思うのじゃが、正直、ここから何かが起こる気がせんのじゃ」
イナリの視線の先には、毎日届くラズベリーからの手紙が積まれている。
と言っても、初日以降は大して内容に変化はない――せいぜい、聖騎士がイナリの悪口を言っていたとか、「世界庭園創造会」の残党が何人捕まったとか、その程度の些細な内容だ。
「ですが、ランティス様の言葉では、状況は変わらないと――」
「それも疑問なのじゃ。例えばランティスが寿命全体の一割分の『可能性』が見られるとしようぞ」
イナリは両手をめいっぱい広げ、寿命全体を表現する。
「人間の場合……わかりやすく百年生きるとして。十年以内に死ぬならば『近々死ぬ』と判定されるわけじゃ」
「そうなりますね」
「では、数億年生きた我の場合はどうなる? 一割だとしても、最低一千万年じゃ。それだけ期間があれば、何でも起こるじゃろ。それこそ、他所から別の神が飛んでくるとかの」
「うーん、否定はできませんけども……」
規模感の大きい話に、エリスは首をかしげる。
「じゃから、もう少し様子を見て何も起こりそうにないなら、今まで通りの暮らしに戻るべきではないかの? 皆を付きっきりにさせるわけにもいかぬし、お主だって、ずっと警戒し続けるのは嫌じゃろう」
「それはそうですけど」
「ま、今すぐとは言わぬ。このまま様子を見てから考えるのじゃ」
イナリの言葉にエリスは思うところがあったようだが、再び果物の皮を剥く手を動かし始めた。過保護で心配性なエリスのことだ、すぐに頷きはしないことは織り込み済みである。
外を見ると、ガーディが投げた枝を全力で追いかけるもちまるが見えた。
「……あやつ、あんなに機敏に動けたのじゃな」
聞いた話だと、最近は夜に運動をしているらしい。己の従魔ながら、まだまだもちまるのことは知らないことばかりである。
<もちまる視点>
夜。主たちが完全に眠ったら、吾輩は窓の隙間に体を通して外へと出る。
そのまま塀を越して外に出たら、茂みに入って主の姿に変身する。ガーディから外を歩くときは服を着ろと言われたから、主の服の模倣も忘れない。
「――君、うちに就職しない? 間違いなく活躍できる」
どこからともなく現れて声をかけてきたのは、新入りのラズベリーという少女だ。
吾輩は体の右手を文字盤の「いいえ」に変形し、左手で叩いた。
「斬新かつ全力の拒否だね」
『あるじの かんし まかせた』
「はいはい、いいよ。いってらっしゃい」
この少女は、毎朝吾輩の体に紙を刺してくる。その対価というわけではないが、夜に散歩をしたいと伝えたら、監視を代わってくれたのだ。勿論、主を心配させないのが大前提だが。
吾輩はラズベリーの隣を通り過ぎて、街を歩く。
吾輩は、必ずこの街に流れている川を探し、その傍を歩くことにしている。スライムである以上、体が本能的に水場を求めているのだ。
今日見つけた川は、横になった主が三人分くらいの幅の、小さな川だった。一段下がったところにも通路があり、ところどころに等間隔で洞窟が繋がっている。その先は、街の地下にでも繋がっているのだろう。
「……」
吾輩は通路に下りて、川の水面を眺める。水面には主を模した無表情な吾輩の姿があり、その奥では小魚が泳いでいる。
吾輩はスライムである。主からはもちまるという名前も授かっている。
だが、吾輩自身が、本当に己がスライムなのかどうか、確信が持てなくなっている。確かに原型はスライムだが、人型になれるし、ガーディと遊べば楽しい、主に危機が迫れば悲しいと感じる精神を持ち合わせている。吾輩は、何なのだろうか?
この散歩は、単に人型の操作練習をするだけでなく、この悩みの答えを外に求めるための散歩でもあった。
「……ん、んん゛。わが、はぃ、は。も、ち、ま……」
ついでに、周囲に誰もいないのをいいことに、発声の練習もすることにしている。
最初は発声を試みるだけで体が自壊する醜態を晒したが、今は体の制御にも慣れてきて、少なくとも体の形状は保つことができるようになっている。
そのコツは、無理に人間の発声方法を模倣するより、体内を操作して疑似的な声を鳴らすことに集中することだ。ある程度形になったら、主に披露して褒めてもらうとしよう。
小魚に向けて吾輩流の発声を披露したところで、川沿いの細い歩道を進む。
等間隔で並ぶ地下道への入り口を眺めながら歩いていると、突如暗闇の中から太い腕が伸びてきて、乱暴に暗闇へと引きずり込まれた。
そして体が潰れるくらいの力で抱きしめられたかと思えば、その勢いで地面に押し倒される。
吾輩を押し倒したのは、全く見知らぬ男だった。
「ダメじゃないか、君みたいな可愛い子がこんな時間に一人で歩いてたら。こんな風になっちまうぞ」
息が荒く、スライム目にも興奮しているのがすぐにわかった。だが吾輩にはその理由が分からなかった。文字盤もないので、仕方なく発展途上の声を使って尋ねる。
「どう、し。て」
「あ? お前はイナリって名前の、教会に引き籠る箱入り狐の代わりに捕まったんだ。恨むならそいつか、迂闊で運のなかった自分を恨みな」
男はそう答えると、吾輩の服に手をかけ、剥ぎ取ろうとし始めた。着替えを手伝ってくれたガーディとは違って乱雑で、ただ吾輩を貪りたい、その一心だというのがすぐにわかった。
ただ、この服は文字通り吾輩の体の一部だ。千切ろうとでもしなければ、この服が脱げることはない。しかし、その事実に男が気づけるはずもない。
「……おい。痛い目に遭いたくなかったら脱げ」
男は吾輩を壁に押し付けて退路を絶ち、一方的に要求を叩きつけてきた。それを見て吾輩が思い出すのは、ラズベリーの手紙に記されていたある文章だ。
――魔の森で活動していた「世界庭園創造会」の残党メンバーが街の中に潜り込んでいる可能性があるとのこと。
――連中は思考回路がおかしいから、イナリを狙いに教会に忍び込む可能性も高い。要警戒。
もしかしたら、目の前の男がそれなのかもしれない。そうでなくとも、主を害そうとしている敵だというのは間違いない。
吾輩の主は、矮小な存在である吾輩を拾ってくれた優しい主だ。断じて、こんな男に害されていい存在ではないと、そう思った。
きっとこの感情は、「不快」と呼ぶものだ――だから、この男を排除する。
吾輩は、男に向けて一歩足を動かし、彼の背に腕を回した。
「あ? おい、そういうのは後だ。まずは服を――ごぼぼっ!?」
間合いを詰めたら、全身をスライム体に戻して男に飛び掛かり、全身を包み込む。
呼吸ができないように徹底的に顔を覆い、最近習得した魔法で体の一部を凍らせて棘を作り、四肢を突き刺して行動を制限する。
……あとは、そのまま。
男がもがく声や地面を蹴る音が途絶え、この暗闇が静寂を取り戻すまでは、十秒もかからなかった。
<イナリ視点>
昼頃、ガーディがイナリの食事を準備している時のこと。
「――イナリさん、イナリさん。聞きましたかっ?」
「む、何じゃ。何かあったのかや?」
「はい。今朝、この教会からそんなに遠くない場所にある水路で、男性の水死体が見つかったそうなんですっ。しかも、体のあちこちに刺されたみたいな傷があったみたいで……」
「それは……これから食事をしようという今に相応しい話題なのかの……?」
イナリが返すと、ガーディが手と首をじたばたと横に振る。
「す、すみませんっ! ただ、ちょっと物騒な話ですし、一応イナリさんの耳に入れておくべきだと思いまして」
「まあ確かに、近場の出来事は知っておくべきか。もちまるよ。お主も怖いよの?」
イナリが撫でた従魔のスライムは、ただぷるぷると、左右に揺れていた。




