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豊穣神イナリの受難  作者: 岬 葉
一般人イナリの受難

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458 主 < 従

 暖房が効いている昼下がりの自室にて、イナリは呪いの検査を受けていた。


「――ふむ。どうやら呪いは掛かっていないようですな。あれから改めて修行をし直しましたから、間違いないでしょう」


 この教会の副神官長の翁、ファトラがゆったりとした口調で告げた。


「……あれから、というのは?」


「ああ、お気になさらず。ただ、この年で己の無力さを知って一からやり直した、それだけのことです」


「……記憶喪失の一件かと思います」


 首を傾げたままのイナリに対し、エリスがそっと耳打ちした。そういえばあの件は、エリスの勘違いによりイナリが呪いに罹った体で話が進められてしまっていたのだったか。


 ……その思い違いで修業を受け直す羽目になったと考えると、少し申し訳ないことをしたと思わないこともない。まあ、彼は好意的に受け止めているようなので、水を差す方が野暮か。世の中、知らない方が良いことなど無数にある。


 イナリがじっとファトラを眺めている傍ら、彼は顎髭を弄りつつイナリに告げる。


「最近、外に出られたと仰っていましたな。急な運動で体が疲れてしまったのでは?」


「いや……」


 確かに車いすで外には出たが、それを運動というのは――いや、エリスがランティスに襲われているのを見て、魔改造車いすで街中を横断したのは、虚弱体質のイナリにとっては十分に運動と言えるかもしれない。しかも、そこそこ大きな声を出したりもしたのだから、なおのこと。


 ただ、それが死の危険に繋がるというのは些か不満があるが。


「その様子だと、心当たりがおありのようですな」


 表情をころころと変えたイナリを見て、ファトラが苦笑する。


「エリス殿から、貴方はたくさんの人から大事にされていると聞いております。一日でも早く元気になって、皆さんに元気な姿を見せて差し上げて下さい」


「うむ」


「それでは、アルト神の加護があらんことを」


「……うむ……」


「ファトラ様、お忙しいところありがとうございました」


 用事を済ませ、退室するファトラの後ろ姿をイナリとエリスは見送った。


 彼の立場上なにも間違ったことは言っていないとは思うのだが、実際神のイナリとしては、知神(ちじん)といえど、他の神の加護を祈られると何とも言えない心境になる。


「エリスよ。我の加護を我にもたらすことは、できると思うかの?」


 イナリがふと問いかけると、エリスはしばし考えた後、廊下に誰も居ないことを確認してイナリに向き直る。


「私はイナリさんの信者ですから、こういうことを言う権利もあるでしょう。……イナリさんに、イナリ神の加護があらんことを――どうですか?」


「……まあ、お主の気持ちは受け取ったのじゃ」


 しかし何も起こらなかった、というやつだ。こういうのは実際に何か利益があるわけではなくて、一種の常套句、挨拶のようなものなのである。




 体の怠さに耐え兼ねて昼寝を挟み、夕方。


 使いに出していたガーディが、スライム状態のもちまるを抱えて現れた。その腕には、ポーション瓶が詰まった革製の鞄が提げられている。


「――イナリさんっ、エリス様っ! ただいま戻りましたっ!」


「お疲れ様です。少し遅かったようですが、大丈夫でしたか?」


「万事問題無しですっ! 遅れた理由もお話したいところなのですが、先に例の物をお渡ししますねっ」


 もちまるをイナリの枕元に置いたガーディは、そのまま流れるように群青色のポーションを取り出し、エリスに手渡した。


「ありがとうございます。イナリさん、口を開けてください。少しずつ飲んでいきましょうね」


「ん……」


 イナリは言われるがまま、ポーション瓶に口をつけてちびちびと群青神薬を飲んでいく。シュワシュワとした感覚が口の中に広がり、飲めば飲むほど体の怠さが抜けていく――ような気がした。


「どうですか?」


「悪くない気分じゃ」


「相変わらずすごい効能ですね……。ただ、完全に治ったとは限りません。少し様子を見ましょうか」


「うむ」


 エリスは頷いたイナリの頭を撫でた。


「それで……ガーディさんが遅くなったのは何かあったのですか?」


「はい。リズさんのご提案で、もちまるちゃんに魔法を教えていたんですっ!」


「もちまるに魔法、とな……」


『せんりょく ぞうきょう』


 もちまるがイナリのお腹の上に文字盤を置いて、どこか誇らしげともとれる機敏な動きで文字を指し示した。


「あっでも厳密に言うと、魔法が使えるか実験する、というのが正確ですかねっ?」


「なるほど、確かに気になるところではありますね。結果はどうだったのですか?」


「土属性と水属性に適正アリ、だそうです。……もちまるちゃん、見せてあげてくださいっ!」


 ガーディが合図すると、もちまるがもぞもぞと半透明で緑の体を震わせ――頭とでも言うべき個所に芽を生やし、ぽんと小さな花を咲かせた。色や形からして、タンポポが一番近いだろうか。


「わぁ、可愛いですね」


「うむ。我の従魔に相応しい魔法じゃ」


 二人が称えた直後、タンポポが一瞬にして凍り付き、柔らかな花弁の一つ一つが鋭い氷の刃となった。ごく僅かに、もちまるの体の表面にも氷が浮いている。


「こんな感じで、特に草魔法と水魔法、氷魔法が使えそうみたいです! どうですか?」


「す、すごいですね……」


「……我もそういうの、やりたい……」


 エリスが突然豹変した氷のタンポポを見て驚く一方、イナリはしょんぼりと呟いた。


「ちなみに、全身を氷にしたりもできてましたよっ」


「そうかぁ……」


 イナリは氷タンポポに触れないようにしつつ、もちまるを撫でてやった。


 従魔たるもちまるがこんなことをできるのならば、イナリももう少し植物周りの能力が器用であって然るべきではなかろうか。そんな不満が胸に燻ると、心なしか下がった熱が再発したような気がした。




 そして夜。


 ガーディが帰宅し、再びエリスと二人きりの時間がやってくる。一日にして一芸を身に着けたもちまるは、再びイナリの頭を冷やすべく額に陣取っている。群青神薬のおかげで気分こそよくなったが、熱はまだ完治したわけではなさそうである。


 夕食を済ませ、エリスが片づけを進めている様子を何気なく眺めていると、エリスの手から器が滑り、床に落下して音を立てた。


「あっ、すみません! びっくりさせちゃいましたよね」


「んや、大丈夫じゃ」


 イナリはおもむろに首を振って、ずっと抱いていた疑問を投げかけることにした。


「エリスよ」


「はい、どうしましたか?」


「お主、寝ておるか?」


「気を遣って下さっているんですか? ふふ、私は大丈夫――」


「寝てないじゃろ」


 イナリはエリスの言葉を遮った。わずかに動揺するエリスの目には、確かに隈が浮かんでいる。イナリが熱を出してからというもの、エリスが休んでいる姿を見た記憶がない。


「……イナリさんに危険が迫っているんです。この程度、苦でも何でもありません」


「それで体調を崩されたら、我は悲しいのじゃ」


 イナリが返すと、エリスは片付けの手を止めた。


「……もちまるよ。もし我が寝ている間にこの部屋に怪しいのが来たら、危険を知らせたりはできるかや? あ、魔法は使わんでよいのじゃ」


『はい』


 イナリの言葉に、もちまるが文字盤をぺちっと叩いた。


「とのことのじゃ。もちまるも監視役を果たせるようになったことじゃし、お主も適当に休んでよかろ」


「でも……イナリさんから離れたくなくて」


 ぽつりと呟いたエリスの言葉が、部屋に溶けていく。


「……まったく。いつも我のことを子供扱いするくせして、お主も大概子供みたいなことを言うのう」


 苦笑したイナリは、もぞもぞと寝転がってベッドに一人分の空きを作り、軽く咳払いした。


「我、昨晩は酷い悪夢に魘されてしまっての。そのせいで一人で寝るのが怖いのじゃ。あーあ、誰か一緒に寝てくれる者がおったら、とっても心強くてありがたいのじゃがのう! じゃがなぁ、そう都合よく、そんな者は見つからんかのう?」


 イナリがちらちらとエリスを見つつ、やや棒読みに告げると、エリスがくすりと笑う。


「ふふ、イナリさんも子供みたいなことを言うじゃないですか」


「む。嫌か?」


「嫌とは言ってませんよ。私はイナリさんにとって都合のいい者です」


「……我が吹っ掛けておいて何じゃが、その言い方だと我が悪女みたいではないか?」


「それは事実じゃないですか? 他の神官、何人引っ掛けましたっけ」


「その件は故意ではなかったのじゃ、もう許してくれたもれ……」

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