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碧恋の詠―貴方さえ護れるのなら、許されなくても浅はかに。  作者: 宵月葵
灯明の道しるべ

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112.




 沖田が突如入ってきた。

 

 (きゃああ)

 

 冬乃は大慌てで、手にしていた手拭いで前を隠す。

 

 「手伝ってあげるよ」

 床の間の桶と、無造作に脱ぎ捨てられている稽古着から、状況がわかったらしき沖田が、

 

 広い部屋を横断してあっというまに冬乃の前に来るなり、茫然と見上げた冬乃の手から、さも当然のように手拭いを奪ってゆき。

 

 手拭いを剥ぎ取られたせいで、冬乃の前を隠すものがなくなって、

 はっと冬乃が両腕を交差するも。

 

 「その前に」

 素っ裸のまま、抱き寄せられた。

 

 「ただいま」

 

 (・・あ)

 どうやら恒例の、逢ったらまずは抱擁、は今回も例外ではなかったらしく。

 

 裸の肌に、温かで質の良い着物の感触ごと、力強い腕で包まれた冬乃は、

 そうして一瞬にして、常のごとく脱力した。

 

 つい先程までずっと心を覆っていた冷たい疎外感など、当然に溶け去り。

 

 (総司さん・・っ)

 大好きな芳りにまでうっとりして、冬乃はつい顔を擦り寄せる。

 

 (って、)

 けど次には思い出した。

 

 「やっぱだめっ、ですっ」

 

 固い拘束の中で冬乃は慌てる。

 「素振りの後で、汗かいてて・・」

 

 (汗の匂いしてたら・・肌だってきっとベタついてて)

 あれこれよぎる不安で、拘束から逃げようとしだす冬乃を、だが沖田のほうは一向に解放せず、

 

 冬乃は更に身を捩ってみせるも、ふっと耳元で微笑う息を感じて。遂に困惑しながら顔を擡げた。

 

 冬乃が見上げた先の沖田は、まるで気にもせぬ様子で、

 どころか、

 

 「だからよけい、こんなに良い匂いなんだろ」

 自分でわからない?

 

 そう聞き足すと微笑ってきた。

 

 

 (・・・???)

 

 よほど冬乃の顔は豆鉄砲をくらったようになったのだろう。

 

 見ていた沖田がそのまま笑い出した。

 

 (どゆ・・こと?!)

 いま文脈を間違えて認識してなければ、冬乃が汗をかいてるからよけいに良い匂いだと、沖田が言ったことになる。

 

 事実、間違ってはいなさそうで、沖田が笑いながらも冬乃の汗に滲んだ首元へ顔を寄せてきて。

 

 (あ、)

 冬乃は焦って身を傾けるも。逃がさないとばかりに、背にあった沖田の両の手は冬乃の両腕へと流れ、

 がしりと掴まれた冬乃の体は、今度こそ完全に一分も動けなくなった。

 「…っん」

 続いて首筋から辿り下りる口づけが、冬乃の肌を掠り始め。

 「ここも、」

 (ぁ)

 「ここも」

 一糸まとわぬ冬乃の肌のうえから見上げてきた沖田が、つと愉しそうに眼を細めた。

 冬乃はもう、直視できずに己の目を瞑ってしまうも、

 かえって更に辿り下りる沖田の息づかいまで感じて。

 

 「ここも・・」

 「…ぁ」

 「ここも。全部、良い匂い」

 肌のあちこちに幾つもの口づけを受けながら、冬乃は。

 

 かけられている言葉への恥ずかしさも相まり。

 「そんな、わけ…」

 目をきつく瞑ったまま、顔を背けてしまい。 

 「…やっぱり、だ…め…です…っ」

 それでも漸う勇気を出し、瞼を擡げて沖田を見下ろした時、

 

 冬乃に再び目を合わせた沖田が、にんまりとその眼を笑ませた。

 「俺がこんなに良い匂いしてる冬乃を放っておけるわけないでしょ」

 

 (そ、)

 そんな・・。

 

 やはり嘘を言っているようには到底見えない沖田を、見下ろしながら冬乃は、

 そして、もう。

 

 “ありがたく” 、観念した。

 

 

 

 

 

 

 沖田の腕の中で、暫しまどろんでいた冬乃は、

 手伝うの宣言どおり、最終的に体じゅうを水拭きしてもらって、

 

 (どうしよう・・)

 服も着せてもらった頃には、冬乃の汗こそひいていたけども。

 

 灯った身の芯の熱は残り。

 まるでその熱にまで深く温かく包まれている心の奥底から、

 冬乃は縋る想いで、沖田の着物を再び握り締めた。

 

 沖田から、この身を離してしまいたくない、と。

 

 沖田が応えるようにいつまでも抱き締めていてくれることに、こんなにも冬乃が救われる想いでいるなんて彼は想像もしていないだろうに。

 

 きっとこの先まだ傍には居てくれるままだとしても、

 この身が離れてしまえば、

 

 (どうしても)

 

 心にあの壁が纏わり始めることは、分かりきっていて。

 今のまだ、こんなにも幸せで温かい状態からは、

 どうしたって落差を突きつけられる。

 

 

 (だから、どうしても離れたくない)

 

 また、あの冷気に覆われるのはもう。

 

 

 このまま離れないでいられるわけがない、

 

 そんな事わかっているのに。

 

 

 

 先程から夕餉の用意ができたと告げてまわる声が聞こえている。

 

 冬乃は沖田の腕の中で、遂に怖々とそのほうへ顔を向けた。

 あの襖の向こうで響いていた幹部たちの喧噪も、とうに無く。

 

 冬乃たちがこの界隈に残っている最後の者だろう。

 

 このままずっと、二人で取り残されてしまえたら

 どころか歴史の濁流からも何もかもから―――

 

 そんなあいかわらずの情感に刹那、呑まれながら冬乃は、一方でどうにもならない諦念にもまみれ。

 

 「そろそろ行こうか」

 

 常のように、沖田が名残惜しげに促すのへ、そして冬乃は小さく頷くしかなかった。

 

 

 (・・でも、せめて)

 

 

 沖田の腕の中で冬乃は呟いた、

 「お願い・・します」

 

 「手はまだ繋いでいて・・」

 

 

 この後に遅かれ早かれ、突きつけられる落差を前に。心の奥底から震えながら。

 

 

 ――ひとときも離れていられなくなって

 

 別離の時間は生き地獄のよう

 

 

 いつかに想像していたそんな時が。

 

 遂に、本当に来てしまったのだろうと。

 

 

 

 硬く温かな手に、確かに包まれ、冬乃は自らもその手を懸命に握り返した。

 

 あと一瞬でも長く、こうしていられるように祈りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 丸の内の旧幕閣役宅という、新選組が要職を認められている事を象徴するかの、先日の移転の日は、

 だが皮肉にも、城内で恭順派の動きが遂に加速しだした日でもあった。

 

 今や完全に城内をとりしきるようになった恭順派は、旧幕府側を軍事支持していた仏国と距離をとり、本格的に主戦派の面々を罷免して城外へ追放、

 慶喜は己の恭順姿勢を強く示すべく、自らも城を出る準備を始め。

 

 それでも近藤は、まだ一縷の望みにかけて、各要人を訪ねて説いてまわっていたが、

 とうに諦めた一部の旧幕府兵などは、既に江戸を脱出し、東下してくる新政府軍を迎え討つために着々と集結しつつあった。

 

 

 「近藤さん」

 

 ここにも、そして。

 慶喜の心変わりなど遥か以前に諦めていた土方が、

 

 「もういい。あんたは十分やった」

 

 遂に慶喜の江戸城退去が予定される前々日、

 夕刻に帰屯した近藤を訪ねるなり、そんなふうに労い。

 

 

 茶の支度をしていた冬乃の瞳には、疲れきった顔で戸口の土方を見上げる近藤が映った。

 

 

 「俺達も江戸を出て薩長を迎え討とう」

 

 

 土方の呼びかけが。そんな近藤の、双眸を見開かせた。





 





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