『撫でても?』
***〈引き続きロシェリート視点〉
リツマの協力のおかげで、僕とアル様と喋れない侍女さんの3人きりのお屋敷生活は今のところ問題なく回っている。
僕の仕事は、朝ゆっくりめに出勤して遅めの朝ご飯を軽く出して、昼ご飯を出して、早めの夕飯を出して帰る。
その合間に書類の整理をして買い物をするくらいで、正直城にいる時よりずっと体も楽だし、ちょっと早い日暮前に退勤できるのもありがたかった。
何より労働環境がいい。
アル様のお屋敷は、僕の実家とは城を挟んで真逆にあったので、毎日通うには時間がかかりすぎるという配慮から、僕はこの町に宿を手配された。もちろん経費で。
実家に帰らなくていい生活は久しぶりで、それだけでも心が弾んだ。
それに何より、アル様は優しくて立派な方だ。
僕は昨日、いつものように帰る前の書類整理をしていた。
今日使った分の書類を内容別にまとめて封筒に入れたり、資料を棚に戻したり、明日使うだろう資料を種類と年代別に机に並べたり……。
この辺の作業は普段からイグナーツ様の元でこなしていたので、僕にとっては退勤前にカーテンを閉めたり明かりを落としたりするのと同じくらい自然な事だった。
なのに、アル様はそんな僕を手招いて、綺麗な文字で書かれた文章を読ませてくださった。
『ロシェリート、君のおかげで助かっている』
思ってもみなかったその言葉に、僕はギュッと心臓を掴まれたような気がした。
「え……。そんな、私なんて、書類を集めたり並べたり……誰にでもできる事をしているだけですよ」
『君が来てくれてから倍の早さで仕事が片付くようになった』
すごく嬉しかった。
そんな風に僕の仕事を評価してくれたのは、これまで学院の先生とイグナーツ様だけだったから……。
「ありがとう、ございます」
言葉を口にした瞬間、胸がどうしようもなく温かくなる。
「……とても、嬉しいです……」
思わず、喜びが顔に溢れてしまった。
高貴なお方を前に、こんな満面の笑みなんて失礼なのに。
でも本当に、嬉しくて嬉しくて仕方がなかったんだ。
あの時、変わらないはずのアル様のお顔が、少しだけ驚いているように見えた気がした。
そんな生活の4日目に、イグナーツ様がわざわざ直々に様子を見に来てくださった。
まあ、他の人を介すなって言ったのはこの人なので、直にやって来るのはわかるんだけど、それでも次期宰相候補の忙しい方がこのためだけに半日消費して足を運ぶというのは僕には大ごとだ。
イグナーツ様は「ここでいい」とお屋敷にも入らず庭でお話をなさった。
このお屋敷は周囲をぐるりと高い塀に囲まれているので、確かに庭であっても人目はないけれど……。
中に入る暇もないほどお忙しいんだなと思うと、やっぱり申し訳なくなる。
「忙しいのは事実だが、選んだのは私だ。ロシェリートがそんな顔をする必要はない。それよりも今の仕事はどうかね、少しは慣れたかい?」
「はいっ、出勤は遅いし帰りも早くて、とても助かっています。宿まで手配してくださり本当にありがとうございますっ」
本当に、天国のような生活をさせてもらっていると思う。
ここには、僕を冷遇する家族も、それに便乗して僕を見下してくる侍女達もいないし、僕の立場をやっかむ先輩も、足が遅いといちゃもんをつける後輩もいない。
「そうかそうか、それならよかった。彼にも少しは慣れたかい?」
「はい、アル様は私のような者にもお優しくて、とてもありがたいです」
嬉しくてついニコニコで答えたけど、イグナーツ様は小さく眉を寄せた。
「自分を下げるような言い方はやめなさい。君は私から見ても優秀な人材だよ」
いやでも、お立場的には……。
ああそうか、今はイグナーツ様の知人の貴族様なんだっけ。
僕は反省しつつ「ありがとうございます」とはにかんで答える。
そこへ、執務室に書類を取りに行っていたアル様が姿を現した。
どうやら、アル様に仕事の書類を届けたり回収したりするのもイグナーツ様のお役目のようだ。
ばさりと分厚い封筒の束を渡されて、イグナーツ様が目を丸くする。
「もうこんなに……終わられたのですか?」
尋ねられたアル様の視線が僕に向かう。
「ああ、ロシェリートは優秀でしょう? 私も彼がいなくなって苦労しているところですよ」
イグナーツ様はそう言ってブルーシルバーの瞳をメガネの奥で細める。
お世辞だとしても、やっぱりそう言ってもらえるのは嬉しいな……。
「こちらが新しい書類ですが、期限の近いものはありませんので、ご無理なくなさってください」
イグナーツ様から新たな書類束を受け取って、アル様がこくりと頷く。
「ロシェリートとはうまくいっているようですね、可愛い子でしょう?」
アル様は、イグナーツ様の言葉に深く頷いてくださった。
チラと僕を見た青い瞳がなんとなく優しい気がして、きっとアル様がご病気でなければ、彼は僕に微笑んでくださったんだろうなと感じる。
……どうしよう……なんだか、すごく嬉しい……。
実際は真顔で視線を向けられただけなのに、照れるなんておかしいような気もするけど、僕はとても嬉しかったんだ。
「では私はこの辺で。ロシェリート、後は頼んだよ」
「はっ、はいっ、頑張りますっ!」
思わず握り拳を作ってしまった僕の頭を、イグナーツ様はポンポンと撫でて帰られた。
学院を出てすぐに彼の元で働き始めたからか、それとも僕がいつまでも小柄なせいか、僕はいまだにイグナーツ様に子ども扱いされている気がする。
僕は、イグナーツ様に撫でられた頭を自分の手で確認するように撫でる。
心の中ではリツマがよく頭も撫でてくれるし、肩とか背中も叩いてくれるけど、現実ではまだまだこういった接触には慣れない……。
情けないとは思うけど、正直……、すごく嬉しいんだよね……。
イグナーツ様の出て行かれた門の方をじっと見つめていたら、僕の頭に何かが触れた。
「ぇっ」
見上げると、変わらぬ無表情のアル様が僕の頭を撫でている……って、なんで!?
「アル様!?」
アル様は慌てふためく僕を見て、そっと手を引っ込めた。
表情の変わらないアル様の瞳が少しだけ悲しそうに見えて、僕は慌てて首を振る。
「あっ、別に嫌だったんじゃないんですっ、突然で、驚いただけで……っ」
僕の返事に、アル様が小さく首を傾げる。
えっ、何かを尋ねられてる……? 僕に何を……?
アル様は書類を小脇に抱えると、片手で僕の手を取って、もう片方の手で僕の掌に文字を書いた。
えーっと……。
『撫でても?』
えっ!?
僕を撫でていいかって尋ねてるの!?
「わ、私を、ですか?」
アル様は相変わらずの無表情のままで、こくりと肯定する。
えー……と……?
「その、はい。構いません、が……」
どうしてですか? という、ペンがないと答え辛そうな問いを飲み込んだ僕に、アル様の手が伸びる。
アル様の大きな手が、そこから伸びる長い指が、僕の髪を梳くように優しく撫でる。
ぐしゃぐしゃっと撫でるリツマとも、ポンポンと撫でるイグナーツ様とも違うその撫で方に、僕はどうしようもなくドキドキしてしまって、赤くなりそうな顔をそっと下げる。
元々身長差もあるので、ちょっと俯いても不自然には見えないはず……だよね……?
すると、伏せた視線の先に、小さな花が並んでいくつも咲いているのが見えた。
「あ、ルイエクリス……」
青くて綺麗な5枚の花弁を持った花々は、庭木に絡まるようにして花壇ではない所から生えている。
雑草という括りではあったけれど、僕の大好きな花だった。
途端、僕を撫でていた手がぴたりと止まる。
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