『アルと呼んでくれ』
***〈引き続きロシェリート視点〉
その日のうちに……というよりもその足で、イグナーツ様に連れてこられたのは、町の外れにある古びたお屋敷だった。
てっきり地図か住所を頼りに、僕があちこちで尋ねてお屋敷を見つけ出さなきゃならないのかと思っていたけれど、どうやら、地図も住所もイグナーツ様は残したくなかったみたいだ。
これは……思っていたより厳重だなぁ……。
表の門は開けられぬようにしているからと、イグナーツ様直々に説明を受けながら、僕達は裏門へと回る。
裏門の鍵を外すのにも鍵言葉の入力を求められたけど、イグナーツ様が「一度だけ見せるから覚えるように。どこにも書き留めてはいけないよ」なんておっしゃるので、僕は必死でやたらと長文の鍵言葉を覚えた。
屋敷の中はしんと静かで、なんともいえない陰鬱さを感じる。
外から見た印象ほどには汚れていないものの、古さはあちこちに感じられる。
屋敷には掃除と洗濯を担当する住み込みの侍女が1人いるが、その人は小さい頃に喉に怪我をして声が出ないらしい。
その人も、日没前には部屋に引っ込むと聞いて、僕は驚いた。
イグナーツ様の知人だというその方は高貴な方だと聞いたのに、自分1人で着替えや入浴ができるんだろうか。
ただそれでも料理は流石に作れないらしく、そこで料理ができて書類仕事もできる僕に白羽の矢が立ったようだ。
食材の調達から調理まで僕が一貫して行うって事は、屋敷には通いの商人を入れたくないんだろうな。
イグナーツ様に通されたのは執務室らしき場所だった。
部屋の奥にはバルコニーに続く窓があって、壁面には本棚が並び、その手前に重厚感のある広い机が立派な椅子と共に並んでいる。
使いかけのインク瓶とペンに、書類がいくらか乱雑に積まれている様を見る限り、ここは実務に使われている部屋みたいだ。
そこから部屋の出入り口までの間に、3人がけのソファがローテーブルを挟んで2脚向き合った応接セットがあった。
僕はそこにかけておくように言われて、大人しく座る。
しばらく待つとイグナーツ様が、金髪碧眼で異常に整った顔立ちの、後光を背負ったような煌びやかな男性を連れて戻ってきた。
僕はすぐさま立ち上がる。
歳の頃は20代前半だろうか、第二王子だとしたら僕の3つ上なので24歳のはずだ。
身長は僕より頭半分くらいは高いなぁ……。
まさに王子様といった品のある顔は、けれども眉ひとつ動かさない。
馬車の中でイグナーツ様から聞いた話によると、この方はご病気のために表情を動かす事ができず、声も失っているらしい。
それは本当に病気なんだろうか。
……神経を麻痺させるような毒や、喉を焼くような毒を使われたのかもしれない……。
こんな事になって、さぞお辛いだろうな……。
「ロシェリート、挨拶なさい」
イグナーツ様に言われて、僕は慌てて口を開いた。
ああそうか、相手は喋れないんだから、言葉を待ってちゃダメなのか。
「はじめまして、イグナーツ様のご紹介で参りました、ロシェリート・エルシュタインです。どうぞよろしくお願いいたします」
その人はコクリと静かに頷いた。
表情を全て失ったその顔は彫像のようだけど、彼の頬で金色の髪がさらりと揺れると、この人は本当に僕の目の前で生きているんだと実感させられて、急にドキッとした。
「では、後の事は頼んだよ、何か問題があれば人を介さず、必ずロシェリート自身が城に来て私に直接言うように。いいね」
「かしこまりました」
城からここまで僕を送り届けるのに随分と時間がかかってしまったイグナーツ様の、今日の仕事量を僕は把握している。
おそらく城に戻ったら昼を過ぎているだろうし、昼食を食べている暇もなければ、帰りも残業間違いなしだろう。
その仕事をサポートできない事は申し訳なく感じるが、イグナーツ様がそこまでしてこの人を僕に託したという事は……。
……僕は、自分が思うよりもずっと、イグナーツ様に信用されているんじゃないかな……。
そう思ってしまうと、胸がじんわりと温かくなってしまう。
僕も与えられた仕事をしっかりこなそう。
まずは昼食の買い出しからだよね。
その前に好きな食べ物や嫌いな食べ物を確認する必要があるかな。
僕は内ポケットから手帳を取り出すと、ペンを手に尋ねようとして……気づいた。
「申し訳ありません。貴方様の事は、何とお呼びすればよろしいでしょうか」
うう、イグナーツ様に聞くの忘れてた……。
喋れない人にいきなり名前を尋ねる事になるなんて……。
失礼だって思われないかな……。
美しい男の人は無表情のまま立ち上がると、執務机まで行ってサラサラとペンを動かし、僕にその紙を差し出してくれた。
『アルと呼んでくれ』
わぁ……綺麗な字を書く人だなぁ……。
「アル様ですね、かしこまりました」
僕がにっこり微笑めば、全く表情の変わらないアル様の青い瞳に、僕の姿が映っているのが見えた。
……そうか……。
アル様は笑えなくても、僕の笑顔はアル様に届いてるんだ。
そう思うと、なんだか力が湧いてくる。
アル様は、好き嫌いはないと筆談で答えてくださったが、肉と魚ならどちらが好きかと尋ねれば『魚』と書いてくださった。
「甘い物はお好きですか?」
僕の質問に、無表情の美しいお顔がこくりと頷く。
それを見て気づく。
ああ、肯首で答えられる文にすれば、この方も筆談の手間がかからないんだ。
これからはなるべく今のように『はい』か『いいえ』で答えられるように話しかけよう。
先ほどの質問も『どちらが好きですか』と尋ねずに『肉と魚なら肉の方が好きですか』と尋ねれば、手を煩わせなかったはずだよね。
僕は内心で反省しつつ、アル様には「それでは、早速買い物に行ってまいります」と伝えて「その前に私がお屋敷でやっておくべき事はありますか?」と尋ねる。
彫像のような顔が感情なく首を横に振るのを確認して、僕は「行ってまいります」と微笑んだ。
アル様が表情を変える事はやはり一度もなかったけれど、その瞳が僕をまっすぐ見てくれていたので、僕の心はきっとアル様に届いたんだと思う。
そう思うと、胸がほっこり温まる。
家族とは、もう目を合わせる事もほとんどないからなぁ……。
幼い頃はもう少し、……いや、あまり変わらないかもしれないけれど。
今では僕がいくら見つめても、向こうから眼差しが返る事はない。
リツマと出会うまで、僕はずっと家族の態度に酷く傷ついていた。
けれど、リツマに言われて僕は目から鱗が落ちたんだ。
『ロシェの事見ねぇ奴の背中ばっか見つめてどうすんだよ、そんな奴ら放っときゃいーだろ? ロシェは、ちゃんとロシェの事見て、話を聞いてくれる奴の方だけ見てりゃいーんだよ』
リツマはいつもまっすぐで裏表がなくて、前向きだ。
貴族の僕とはまるで違う価値観を持つリツマの言葉に、僕はこれまで何度も救われてきた。
僕は、お屋敷の裏門からそっと出ると、人目につかない場所を求めて路地裏に入る。
少しうろうろすると、食堂の裏手にちょうどいい場所があった。
店員が休憩所代わりに使っているのか、壁に囲まれた隙間に、座るのにちょうど良さそうな木箱まで並んでいる。
「すみません、ちょっとお借りしますね」
小声で誰にともなく断って、僕はその木箱に腰を下ろして壁に身を預けると、目を閉じた。
意識を体から離して、自分の内側へと潜り込む。
「リツマ! お願い、手伝って!」
真っ白な空間でごろんと寝転がっていたリツマが、僕の声に慌てて起き上がる。
「うおっと!? どうしたロシェ、仕事中じゃねーのか?」
「僕、仕事で料理を作らないといけない事になっちゃって……」
僕の説明をふんふんと聞いて「なんか面倒な事になってんなぁ」とリツマが呟く。
「ごめんね、急に変な事に巻き込んじゃって……」
僕の言葉に、リツマは僕の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でて明るく笑う。
「そんなんロシェだって巻き込まれた側だろ。要は俺が朝昼晩と3食そのアル様って奴に飯を作ってやりゃいーんだろ?」
「う、うん。あと、食材の買い出しもしないとなんだ……。お金は預かってるから予算の心配はないんだけど、僕だと何を買えばいいのかわからなくて……」
「おう、買い物もやってやっから、ロシェはしばらくここにいな」
「ありがとうっ。お金はバスケットの中のお財布に1日分が分けてあるから確認して。買い物が終わったらお屋敷まで僕が移動するから、今の場所で交代しよう。鍵がすごくややこしいんだ……」
「おっけ、わかった。んじゃちょっと行ってくるな」
「気をつけてね、リツマ」
「おうよ」
リツマは口角をニッと頼もしく持ち上げると、後ろに括った黒髪を揺らして、片手をひらひらさせながら僕に背を向けた。
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