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中原さんと友達になってから、一ヶ月が経とうとしている。
最初の何日かは、正直どう振る舞えばいいのか分からなかった。彼女は宣言どおり明後日に美術室へ来て、翌日も来て、その次の日は仕事で来ない。来ない日があるということが、来る日を普通のことにしていった。
昼休みは奏多も入れて三人で食べるようになった。仕事が休みの日は、放課後の美術室で雑談をする。特別な約束を交わしたわけじゃない。ただ、そうするのが当たり前のように続いている。
桜はいつの間にか散って、木々は花びらの代わりに明るい緑の葉を抱えていた。開け放った窓からは夏の匂いがする。植物の青い匂いに呼吸が深くなる。そのうち蝉も鳴き始めるのだろう。夏が近づくと、どこか胸がざわめく。何かが始まりそうで落ち着かない、この感じが好きだ。
安田さんと室井先輩は「新作の公開初日だから」と謎の使命感を燃やして、颯爽と消えていった。二人よりはまだ真面目だったはずの高橋さんは、彼氏との時間に忙しいらしく、幽霊部員への階段を順調に上っている。
結局、残されたのは僕一人。なぜかサボった三人の分までデッサンを仕分けさせられている。バイト代を払ってほしいぐらいだ。画用紙の端を揃え、月ごとにクリップで留めていく。単調な作業の繰り返しの中、目の前に眩しい光を放つ物体が差し出された。
「この間、インスタのフォロワー十万人いったんだ」
中原さんが弾んだ声でスマホの画面をこちらに向けてくる。『成瀬雫』という名前の横に、青いチェックマークと、十万三千という数字が並んでいた。
一瞬、それが誰のことか分からなくて首を傾げる。数秒かかって、その名前と目の前に座っている中原さんが重なった。芸名か。
モノクロのアイコンの中では、黒く長い髪の女性が壁にもたれかかっている。その下の投稿には、白いドレスに包まれた彼女の姿があった。ドレスのドレープ。細い指先のライン。確かに綺麗だと言える要素の集まりだ。けれど、肝心な中心が抜け落ちている。これが中原さんだと言われなければ、僕は決して気づかないだろう。
「それは……すごいの?」
「すごいよ。去年の今頃は二万人ぐらいだったから。五倍だよ? 五倍」
手のひらを広げながら、不満そうに返される。SNSにめっぽう弱い僕には、数字の大きさに実感が湧かなかった。十万人。目の前の彼女を見たいと思う人が、それだけいる。でも僕は、隣で喋る彼女しか知らない。話しているとすぐ脱線するし、急に拗ねるし、たまに驚くほど子どもっぽい。
「へえ」
結局、そう返すことしかできなかった。ぱらり、と画用紙をめくる音が静かな室内に響く。中原さんはまだ何か言いたげにスマホを弄りながら、椅子の脚を小さく鳴らしていた。やがて手持ち無沙汰になったのか、彼女はスマホを机に置いて立ち上がる。そのまま、ふらりと部屋の隅へ歩いていった。
向かった先は古い傘立てだった。歴代の生徒が忘れていった置き傘が押し込まれている。骨のひしゃげたビニール傘や、色の褪せた布傘が絡み合う、くすんだ塊。
「……」
彼女はその前で立ち止まった。じっと傘の山を見つめている。絡み合った塊のいちばん手前に、黒い傘が一本だけ立っていた。持ち手のところに、細い傷がある。背中しか見えないので、何を考えているのかは分からない。ただ、立ち方が変だった。何かを探しているというより、そこにあることを確かめているような止まり方だ。
肩が一度上下して、それから彼女はゆっくり戻ってきた。なぜかさっきよりも少し距離が近い。
「あの傘、いつからあるの」
「知らない。僕が入る前からあると思う」
「捨てないんだ」
「捨てていいのか分からないんじゃないかな。誰のか分からないし」
「……そっか」
妙に間の空いた返事だった。それきり、その話は終わった。また一枚めくったところで、中原さんが身を乗り出す。がたっと椅子が鳴って、あの香水がふわりと漂った。
「これ、神崎くんが描いたの?」
「いや、それは安田さんのだよ。で、これが室井先輩の」
何枚かめくった後、中原さんは感心したように声を漏らした。
「すご……生きてるみたい」
画用紙の中では、頬杖をついた老人がこちらを見ている。深く刻まれた皺と薄くなった髪。細かな陰影まで描き込まれていた。
「先輩、人物画が一番得意だから」
さらに一枚めくる。窓辺に座る女子生徒のデッサンだった。太く濃い線の輪郭は大胆で、それでいて空気をそのまま切り取ったようなところがある。
「これは安田さん」
「こっちも人だ」
「安田さんもそういうの好きなんだよ」
中原さんはしばらく黙って見つめていた。
「あれ?」
「なに」
「神崎くんのがない」
「何が」
「人の絵」
言われてみれば、僕のページは風景と静物ばかりだ。窓から見える街並み。空。使い古したスニーカー。窓際の植木鉢。
「苦手だから」
「……顔?」
「顔」
「そっか」
数枚後ろの、荒い線の残るデッサンを渡す。二人のものと比べると、自分の下手さが浮き彫りになる。影の取り方。小さくブレる線。悔しくなってくる。
「二人のと比べると、全然だめでしょ」
「そんなことないよ。十分うまいじゃん」
「……ありがとう。でも、まだ足りないんだ」
足りない、という言葉は便利だ。悔しいとか羨ましいとか、そういう押し殺したものまで全部まとめて入れられる。
机に置かれた室井先輩のデッサンが目に入る。二つに切り分けられたオレンジ。断面から溢れる果汁のみずみずしさ。皮の表面の細かい凹凸。白と黒だけでできているのに、そこには色と、酸っぱい匂いまである。
「二人とも、いつもふざけてるのにこれだけ描けるから。正直、才能に嫉妬する」
「なんか、分かる気がする」
「中原さんはそういう側じゃないの」
そう聞くと、彼女は言い淀んだ。机の上のスマホへ視線を落とす。さっきまでの得意げな様子とは違って見えた。しばらくして、こちらに向き直る。
「私も、夜中まで台本読んで覚えても、本番で飛ぶときあるよ」
「……へえ」
意外だった。何でも器用にこなす人だと思っていた。
「なのに、一回読んだだけで全部入る人とかいるの。しかも演技も上手いし。私の努力はなんだったんだって」
中原さんは肩をすくめるように笑った。
「結局さ、自分よりできる人ばっかり見ちゃうんだよね。で、勝手に苦しくなる」
そう言って、僕のデッサン帳を指先でとんとんと叩く。
「似てるね。私たち」
同じだと言われたかったわけじゃない。それでも、眩しすぎる光に目を細めているのが自分一人ではないと知って、胸の奥が少し楽になった。
それきり会話は途切れた。僕は鉛筆を握り直し、中原さんは鞄から台本を取り出して、文字を追うように指を動かし始める。紙を擦る音と、ページをめくる音が重なった。




