3
午後の授業は普段どおりに過ぎていった。黒板を書き写し、当てられれば答え、チャイムが鳴れば次が始まる。教室の外側だけが何も変わらずに進んでいくのが、かえって落ち着かなかった。時間だけが、やたらと粘っこく感じられる。放課後、席を立って美術室へ向かう。
すれ違う生徒の何人かがこちらを見た気がして、無意識に俯いてしまう。
「あの人だよ」
そんな声が聞こえた気がした。空耳だろう。誰も僕なんか見ていない。分かっていても、朝からまとわりついている居心地の悪さは抜けなかった。誰かの笑い声が背中を伝う。振り返って確かめる勇気もなく、階段を足早に上った。窓から差し込む西日が踊り場の床を細長く照らして、部活へ向かう生徒たちの影がその上を横切っていく。
みんな行き先が決まっているように見えて、少し羨ましい。美術室にはまだ誰もいなかった。じっとりとした湿気と一緒に、紙と絵の具の匂いが空間を満たしている。窓を開けると、遠くで野球部がランニングをしていた。ユニフォームの白と土の茶色が並んでいる。
自分の席に着いて、デッサン帳を開いた。鉛筆を握ると、指の側面が紙に触れる。この感触があるあいだだけ、世界は僕に優しい。窓枠を引く。校庭の縁の金網を引く。バックネットの支柱と、土の上に伸びたその影を引く。金網の向こうを、白いユニフォームの列が横切っていった。
腕の振り。膝の高さ。傾いた背中。ただの塊ではなく、一人ずつ違う走り方をしている。歩幅も、癖も、疲れ方も、ちゃんと見えてはいるのだ。それなのに、鉛筆は動かなかった。紙の中の校庭には、金網と、支柱と、その影しかない。線が届く場所と届かない場所の境目は、いつも同じところにある。
首の下までなら引ける。その上の引き方を、僕は知らない。だから、いつからか人のいない構図ばかりを選ぶようになった。最初から枠の外に置いてしまえば、描けなかったのか描かなかったのか、誰にも判別できない。自分にも、分からないふりができる。
手が動かないわけじゃない。動かそうと思えば動く。楕円を描いて、目の位置に点を打って、鼻筋を通して、口の線を引けばいい。理屈は知っているし、教科書にも載っている。けれど、それをやったところで、僕はそこに誰も見ていない。小学生の頃、一度だけ描こうとしたことがある。
図工の時間の、隣の席の子の似顔絵を描く課題だった。僕はその子の髪型と、シャツの襟の形と、右手に握った鉛筆までを描いて、顔のところを白いまま提出した。先生は困ったような声で、続きを描きましょうね、と言った。描けない、とは言えなかった。
描けないと言うためには、見えていないと言わなければならない。当時の僕には、それだけの言葉がなかった。腹が立ったのか、悲しかったのか。次の時間に僕は顔の部分を丸ごと黒く塗り潰した。鉛筆を寝かせて、紙が破れる寸前まで往復させて、手のひらの側面が真っ黒になるまでやった。
職員室に呼ばれてから、その先の記憶はない。覚えているのは、洗っても洗っても指の皺から黒が落ちなかったことと、その日の給食を残したことだけだ。それ以来、僕は人を描かない子どもになった。
金網を描き終えてページを閉じると、身体の奥に溜まっていた疲れが押し寄せてきた。朝から大したことはしていないはずなのに、鉛筆一本ぶんの集中で使い果たしてしまったらしい。カバンを枕がわりにして机に伏せる。眠りに落ちかけたとき、扉の開く音がした。足音が近づいてきて、すぐ近くで止まる。
「……神崎くん」
顔を上げると、女子が一人立っていた。身体には少し大きい黒いパーカーの上にブレザーを着ている。上履きの緑は僕と同じ二年生の色だ。安田さんはもっと声が低いし、高橋さんよりは髪が長い。美術部の生徒ではない。聞き覚えのある声なのに、それがどこから来た声なのかが掴めない。
「えっと。……どちら様、でしたっけ」
「え……中原。中原雫」
名前を聞いた瞬間に、昨日の桜が戻ってきた。
「……ごめん。中原さん」
「うん……顔ぐらいは覚えててほしかったかな。好きな人には」
軽く刺すように付け足して、中原さんは隣の椅子を引いて腰を下ろした。柑橘に似た、澄んだ匂いがする。甘ったるくない、目の前で小さな白い花が揺れているような匂いだった。昨日は気づく余裕もなかった。落ち着かない。ふと自分が汗臭くないか気になって、気づけば襟を寄せて嗅いでいた。
臭くはない、はずだ。中原さんは、傍から見ればだいぶ変なポーズを取っているであろう僕を気にも留めず、昨日のことなんだけど、と続けた。
「急にあんなこと言って、ごめん。ちゃんと話したくて」
責めに来たわけではないのだと分かる。
「ちょっとしか話したことないのに、びっくりしたよね。優子と美奈のことも。根は良い子なんだけど、気強くて」
ちょっとしか話したことがない、という言葉が引っかかった。僕は昨日が初めてだと思っていた。どこかで話しているのだ。そして、僕だけが覚えていない。女子二人が怒っていたのも、友達を傷つけられたからだ。僕だって、どんな理由であれ奏多が傷つけられたら怒る。そんな当たり前のことを分からずに、関係ないと切り捨てた自分が恥ずかしくなってくる。
「いや、こっちこそ。突き放すような言い方して、ごめん」
昨日、追いかけもしなかったくせに。謝る資格なんて、無いのかもしれない。言わなければ、このまま終われる。少し感じの悪い男子として振った相手。気まずさを埋めに来てくれた優しい女子。そこまでだ。適当に謝って、時間が経てばそのうち他人に戻る。
なのに、昨日の桜の下で俯いた姿が頭から離れない。走り去っていく足音も、今朝の教室の音も、全部、僕が何も言えなかったせいだ。違う、と言えたはずなのに。嫌いだったわけじゃない。迷惑だったわけでもない。けれど、話したところで何になる。気味悪がられるかもしれない。
冗談だと思われるかもしれない。今こうして隣に座っている距離が、一瞬で遠くなるかもしれない。それでも、誤解されたまま終わるほうが、もっと嫌だった。膝の上で、拳に力を込める。
「昨日、どうして付き合えないって言ったのか、ちゃんと話したい」
「うん」
「嫌だったわけじゃないんだ。本当に。ただ、中原さんのことをほとんど知らなくて」
「それは、私も同じじゃない?」
もっともな返事だった。付き合う前から相手のことを全部知っている人なんて、いない。
「うん。でも、僕の場合は少し違う」
最初から、みんなと同じようにはできない。何度も飲み込んできた言葉が喉元までせり上がってくる。
「……あんまり、人に言ってないんだけど」
絞り出した声は掠れていた。
「僕、人の顔が分からないんだ」
「え?」
戸惑ったような声が漏れる。うまく説明できる気がしなくて、鞄から英語の教科書を出した。適当なページを開くと、テニスをしているトムのイラストが載っている。ラケットの構え方と、跳ねるように引かれた線で、たぶん笑っている絵なのだろうと見当がつくだけで、顔のあたりは僕にはもともと黒い。
転がっていたボールペンを、僕はそこへ押し当てた。手が震えていた。それを見られたくなくて、必要以上に強く塗る。輪郭の内側を、端から端まで。誰が見ても何も分からなくなるまで。下のページまで黒が滲んでいく。
「……こんな感じ」
黒くなったトムの顔を、中原さんのほうへ向けた。
「昔から人の顔が認識できなくて。黒く塗り潰されたみたいに見える。だから、中原さんのことも忘れてたわけじゃないんだ」
中原さんはすぐには何も言わなかった。黒くなった教科書と、僕を交互に見ている。窓の外で、金属バットの乾いた音がひとつ鳴った。
「今、私の顔も見えないの」
「見えない」
「家族とか、自分の顔も?」
「うん。だから人のことは声とか髪型で覚えてる。それしかできなくて」
言い終えてから、身構えた。次に来るものは、だいたい決まっている。可哀想。大変だね。私にできることある?どれもありがたい言葉のはずなのに、受け取ったあとで必ず距離ができる。優しさを差し出された僕は、その分だけ後ろに下がらなければいけなくなる。
彼女は黙って教科書を閉じ、机の上へ置いた。表紙の上で、指がひとつ、ふたつと動く。何か言おうとして、やめたのだと思う。
「そう、なんだ」
「ごめん」
「なんで神崎くんが謝るの」
少しだけ、彼女が笑ったような気がした。
「昨日、ちゃんと言わずに振ったことは怒ってるけど」
「やっぱり怒ってるんだ」
「怒るよ。好きな人に、秒で振られたんだから」
冗談めかした調子だった。でも、芯に本当の痛みがあることくらい、僕にだって分かる。
「……ごめん」
「だから、謝りすぎ。ちゃんと話してくれたから、もういいよ」
窓の外から、遠く陸上部の掛け声が聞こえてくる。
「私が明日、髪型変えたらどうなるの」
「……分からなくなると思う」
「じゃあ、変えない」
あまりにあっさり言われたので、返事が遅れた。
「いや、そんな。僕のために、そこまで――」
「私のためだよ」
中原さんは机の縁を指で叩いた。トン、と一回だけ。
「明日また、どちら様ですかって言われるの、私が嫌だから」
困っているのは私のほうだ、という言い方だった。僕は返す言葉を持っていない。可哀想とも、大変だねとも言わずに、代わりに明日どうするかの話をする。差し出されたことのない種類の優しさだった。
「じゃあさ、杉本くんは」
「奏多?」
「うん。いつも一緒にいるじゃん。どうやって見分けてるの」
「……声。あと、背が高いから」
「他には」
「歩き方。あいつ、左足だけ少し引きずるみたいに出すんだ。本人は気づいてない」
誰かにこれを説明したのは初めてで、説明できるとも思っていなかった。
「へえ」
感心したような声だった。
「なんか、すごいね」
「すごくないよ。そうしないと分からないだけだから」
「じゃあ、私は」
「え」
「私のこと、今どこまで数えてるの」
「……声と、香水と。あと、パーカーの袖が長いこと」
自分の手元を見たらしい。布の擦れる音がした。
「ほんとだ。半分隠れてる」
「うん」
「じゃあ、明日も着てくるね」
彼女はそう言って、笑った。声より先に、短く息が抜ける音がする。それも、数えられるもののひとつだった。
「……昨日、言えなかったんだけど」
「うん」
「付き合えないと思った理由は、それだけじゃなくて」
中原さんは黙って続きを待っている。
「人を好きになるっていう感覚も、よく分からないんだ。だから、いきなり付き合うとかは無理で」
長ったらしい言い訳に、無理やり終止符を打つ。
「……友達から、始められないかなって」
振った相手に虫が良すぎる。軽蔑されても仕方がない。中原さんは何も言わず、僕は椅子の座面を握りしめて、やっぱり無理か、と諦めかけた。
「順番、めちゃくちゃだね。私たち」
「……うん」
「でも」
椅子が小さく鳴る。こちらへ向き直ったのが分かった。さっきより、少しだけ距離が近い。
「いいよ」
胸の奥が波打つ。
「私のこと、覚えてほしい。声でも、髪型でも。なんでもいいからさ」
その時、扉が勢いよく開いた。同じ美術部の安田さんだった。赤いリュックを背負って、ポテトチップスの袋と漫画を何冊か抱えている。彼女は入るなり、後ろを振り返った。
「室井先輩。神崎が女連れ込んでます」
安田さんの後ろから、部長の室井先輩がにゅっと顔を出す。
「退部にします。うちの部、恋愛禁止なので」
「……そのルールは初耳ですけど」
「今できました」
「神崎いなくなったら人数不足で廃部ですよ。今年、一年生入らなかったので」
「それは困る。じゃあそこの彼女、美術部に入りませんか」
室井先輩がじりじりと歩み寄る。それに合わせて、中原さんの肩が強張っていくのが分かった。初対面の三年生にいきなり勧誘されるのだから、無理もない。
「あ、私、その、仕事があって」
「仕事? アルバイト、とか」
「あー! はい! バイト! バイトです! 週五くらいで入れてて!」
少し上擦った、明るく誤魔化すような喋り方だった。さっきまで僕に向けていた調子とは違う。言葉の継ぎ目がぎこちない。顔は分からない。それでも、この話題には触れてほしくないのだと、声の揺れ方で伝わってくる。
「週五かぁ。それはすごいや。じゃあ諦めます」
室井先輩はそう言いながら、まだ何か続けそうな気配を残していた。
「先輩。バイトの時間、近いらしいので」
気づけば口が勝手に動いていた。こんなやり方でよかったのかは分からない。ただ、今は彼女を逃がすほうが先だった。
「そうなんですね。頑張ってください。あ、暇な時はいつでも来てくださいね」
「ありがとうございます。……じゃあ、私はこれで。神崎くん、またね」
「うん。また」
中原さんは小さく手を振って扉へ向かった。その背中をなんとなく目で追っているうちに、気づけば立ち上がっていた。一歩踏み出したところで、中原さんが振り返る。
「どうしたの?」
「あ、いや……」
本当に、どうしたんだろう。引き留めたいわけじゃない。話したいことも、もう思いつかない。それでも、足音が遠ざかっていくのを聞いていると、このまま帰してしまうのが惜しかった。
「神崎。彼女なら送ってきたら」
ポテチの袋に手を突っ込む乾いた音と一緒に安田さんが言う。いつの間にか袋を開けて僕の横に立っていたので、心臓が跳ねた。
「いや、別に彼女とかじゃ――」
「じゃあ送らなくていいの?」
「……送ります」




